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② 御手に塗れる――3

若人達は天にも昇る心地で洞に入り、人里にては怪犬を討つ

 米彦は呆然としていた。未だに地に足が着いていない心地だ。


 先に公園で見せられた千里眼、順風耳(じゅんぷうじ)の術など児戯に等しい、ちょっとしたどうでもいいお遊びだったのだ。紗仲は苦手だから疲れたと言っていたが、同時に初歩の初歩、韋編(いへん)を知っている者なら殆どが出来ることだとも言っていた。それは万巻(まんがん)韋編の価値を高く見せようとして誇張したのではなく、事実なのだと実感した。あの程度の小技など、誰にでも出来る。


 膝まで伸びた草原の中で棒立ちになり、驚くべき体験をさせてくれた紗仲を見た。


 彼女は殆どが地平線に沈み上部の弧が引っ繰り返った船底に見える夕日に向かい、きっとなって、


「ふん、八艘跳びが何するものか、私ならば一足跳び」


 と、両手を振り上げ、がおぉと吠えていた。


 公園で老女が去った後、紗仲は秘密基地を案内してあげる、と冗談めかして言った。秘密基地とは昨夜の山の草原だろう、そう予想はしたが、まさかこのように移動するとは想像だにしなかった。


 山の駅までは電車で来た。そして登山道に入り、暫くすると脇道にそれ、山林に踏み入った。それから少し歩くと、周囲は鬱蒼とした森、夕闇が樹間に満ちていた。彼女は少し照れたような様子を見せて、ワンピースの胸元に手を突っ込んだ。


 そしてそこから取り出したのは、白く細く長い布、彼女の身長よりもなお長い。さっとはためかせると、それは非常に薄く、背後までも透き通って見えるほどだった。見るからに触り心地が良さそうで、生地は(しゃ)だろうか、もしくはシルクオーガンジーか。


 紗仲は真ん中に手を置いて二つに折るとその薄布をストールのように首に掛けた。彼女が体を動かすと、布はふわりと風を(はら)んで、首に掛けた中央部分が宙に浮き、脇に垂らした両端が後ろに流れて、夕暮時の森の樹木に囲まれた彼女の姿は、天の羽衣を身に纏った天女そのものだった。


「歩いて行ったら、疲れるでしょう?」


 彼女は米彦の背後に回り、彼の胴を抱き抱えた。そして彼女の地を蹴るような振動の後、二人の体は浮き上がった。


 何メートルもの高さに達すると、音もなく前進した。初めはそれほどという速度だったが、次第次第に速くなっていく。次々と後ろへ流れていく樹木の色が残像同士で混ざり合い、一種の奇妙な色彩になった。紗仲は米彦を抱いたまま、樹間を縫って飛んでいく。


 それは不思議な感覚だった。頬を切る風があったような気もするし、無風の空間を移動していたような気もする。驚きに息は詰まったが、呼吸に苦しさはなかった。米彦が感覚していたのは、ただ、背中に触れる紗仲の体温だけだった。


 そして気が付くと昨夜の草原に立っていた。米彦は呆然とした。


「さ、気が済んだから案内するわね。・・・・・・あれ、どうしたの。まだ意識は森の中?」


 紗仲は米彦を覗き込み、心配そうな顔をした。


「どうしよう。やっぱり、急過ぎたかな。記憶が戻ってないのだもの・・・・・・。やっぱり、段階を踏むべきだった」


 米彦は我を取り戻し、


「ああ、いや、大丈夫」と、それだけ答えた。


 山に来る前に一度彼女の能力を見せられたのが良かったのだろう、動悸は未だに治まらないが、宙を飛んだという事実に関してはすんなりと受け入れられていた。


 そうだ、彼女が言うにはあらゆることが出来るようになる書物があるのだ、それならば、空を飛ぶことだって、不可能ではないはずだ。


 それに意識の上では覚えていなかったが、彼は既に知っていた、前世においてのみではなく、今生(こんじょう)においても聖人や英雄の幾例かを。すなわち、史書である『義経記』において、太公望はその徳により天にまで上れたということを、張良はその技により虚空を翔けたということを、それらが記されていることを知っていた。


 歴史上の人物が出来たことだ。それを彼女も出来たのだ。


 米彦と紗仲が立っているのは昨夜出会った場所よりも深い地点だった。変わらず草は茂っているが、奥の方に切り立った崖が見え、彼女は草を踏み分けながら其方(そちら)へと向かって行った。


 崖に突き当たると地面は草が刈り取られて半円形に土が(あら)わになっており、その半円の中心である崖の斜面には洞窟が口を開けていた。


「ここよ。私達の秘密基地」


 そう言って彼女は入っていく。


 洞窟の中は闇で満たされていた。米彦が入り口近くの壁に手を突くと、冷やりとして湿っていた。紗仲は夜目が利くのか慣れているのか、奥へと進み、しゃがみ込むと、小さな火が灯った。彼女の手にはライターが握られていた。その(ほの)灯りに照らされて見る所によれば、床几(しょうぎ)に乗っていたものを拾ったらしい。そして彼女は床几の上の蠟燭に火を灯し、それから立ち上がって壁に沿い、並べられた燭台に火を入れて行った。


 そうして洞窟内を一周すると、煌々と灯った燭台で、昼を(あざむ)く、とまでは行かないが、苦もなく過ごすには充分な明るさになった。


 広さは三十六畳くらいだろうか。床には板が張られ、(むしろ)が敷かれていた。正面奥には壁に向かって床几が設けられ、上には皿に立てられた蝋燭、円鏡、紙の束、(すずり)箱と透明な水の入った玻璃(はり)の小瓶が置かれていた。脇には短檠(たんけい)と、(なめ)したような表面の黒革が無造作に重ねられて山になっていた。


 紗仲はいそいそと、洞窟の中央あたりに放置されていた金床と鉄板、それから丸鋸や糸鋸、ラチェットレンチやシノ、ペンチや電動ヤスリ、それらに類した工具や工具箱を両腕いっぱいに抱えて隅の方へと片付けた。赤い発電機もある。


「本当は、今日は、招待するつもりじゃなかったから・・・・・・。あの、いつもはちゃんと片付いているのだけど・・・・・・。その、韋編を集めるのに使う道具は基本的に自作だから・・・・・・。法具って、特別なのもあるけれど・・・・・・」


 米彦は何も言っていないのに、紗仲は一人で喋り出し、恥ずかしがっていた。


「あ! でも、お淑やかに裁縫道具もあるのよ! 持って来るから待っていて!」


 慌てて発電機とは反対側の壁に向かおうとしたが、


「いや、別にいいよ」


 と、米彦に苦笑交じりに止められて、顔を赤くして俯いた。するとそこに金槌が転がっているのに気が付いて、踵で蹴って滑らせたが、彼にはすっかり見られていた。むさ苦しい工具を見られて恥ずかしがっている彼女を(おもんばか)った米彦は、


「へえ、ここが秘密基地かあ」


 と、声を上げたが、わざとらしさは拭えなかった。


「へぇ・・・・・・。広いね」


「うん・・・・・・」


 洞穴はそのまま一室として使われ、壁に燭台が並び、一隅に鉄資材や工具類、工具箱や似たような道具箱――彼女の言っていた裁縫箱だろう――、蓋をされた土甕と柄杓があり、見上げれば上方から何本かの鉄鎖が垂れ下がっていた。箪笥や行李(こうり)といった物を仕舞うものはなく、また他へ通じる扉はなかった。


「家具とかはないの」


 別に此処(ここ)に住んでいるわけでもないだろうが、ちょっと思って聞いてみた。


 紗仲は彼の手を取って壁まで寄ると、鉄鎖の一本を引いた。彼女の手繰(たぐ)る動きに合わせて、暗い上方から、するすると寝台が降りて来て、脚が床に着いた。


 仰ぎ見ても闇に隠れて天井は見えなかった。しかし、同じような鎖が何本もあることから考えるに、家財道具一式は上の方に吊られているのだろう。


 二人は寝台に腰を下ろした。それから紗仲は出会ってから初めて見せる緊張の解けた顔をして、米彦に日常的な、様々なことを聞き始めた。今はどんな生活をしているのか、運動は得意か、勉強はちゃんとやっているのか、食べ物に好き嫌いはないか、友達はちゃんと・・・・・・、友達はさっき会ったんだ、というように。


 米彦はまるで生き別れた母子の会話のようだと思い、可笑(おか)しかった。しかし、もしも記憶を取り戻したのが彼の方が早く、逆の立場であったなら、父子の再会のような場面になっただろうかとふと思った。そんなことは、想像も出来なかった。


「楽しく暮らしているみたいで良かったわ。安心した」


 紗仲は満足したように、とても優しい表情をした。


 米彦もまた紗仲に色々な質問をした。あの万巻韋編なる何でも願いが叶えられる書物はこの洞窟のどこに仕舞ってあるのか、これからの予定は決まっているのか。そして、自分も、物の役には立つまいが、出来るだけ手伝いたい、その為に簡単な技でも教えて欲しい、と。彼の質問は万巻韋編に関するものが中心だった。彼女がどこで生まれたのか、今はどこで寝起きしているのか、そうしたものは、何故かは知らないが、聞かない方がいい気がしていた。もしも聞いてしまえば、自分達の関係は壊れてしまう、そんな直感があった。


 紗仲は表情を引き締め、目線を下ろして少し考え、そして答えた。


「まず、仕舞ってある場所、予定だけど、それは言えないわ。出来るだけ、貴方に危険を及ばせたくないもの。知れば、きっと、貴方は私の力になろうとしてしまう」


「力になりたいんだよ」


「それを、して欲しくないの。そんなことをすれば、今の貴方では無事ではいられない。危険な目に会わせたくないのよ。出来るだけ、それは避けたいの。ね、分かるでしょう? 分かってね。私は、貴方に無事でいて欲しいのよ。だから、今は教えられない」


 紗仲が言っていた書物には超常的な力がある。だから米彦にも自分の身に想像も付かないようなことが起こるかも知れないというのは予想できる。彼女が言いたいことは分かる。それでもそれは寂しい事だった。


「それに、貴方は、今しか生きていない。だから、きっと、私達のことは理解出来ない。貴方とは違う価値観を、きっと、受け入れられない」


「そんなことは」反射的に言葉が出た。「俺は、紗仲を理解したい。・・・・・・」


 彼女の生活を聞くのは恐れているが、相手を知りたいという言葉もまた事実だった。両方の感情を抱きながらも、その片方が彼女自身から拒否されて、彼は少し傷付いた。紗仲は彼の手を撫で、


「ありがとう」と、頬を緩めた。それからまた眉を曇らせて、「だけど、ごめんなさい。でも、韋編の内容は、・・・・・・そうね、たとえ知っても、身に付けたとしても、記憶が戻るまでは使わないなら・・・・・・。それを教えるだけならば・・・・・・。ねえ、覚えたとしても、絶対に使わないと約束して頂ける?」


「約束するよ」


「それは、つまり、技術を会得したとしても、私の役に立とうとは思わないで、ってことだけど」


 米彦は息を飲み、「ああ、分かった」


「ごめんなさいね。私がお願いしてばっかりで、貴方の頼みを聞いてあげられないけど、どうか、それで、納得して欲しいの。私は、貴方が大事なの。私は、貴方が、どんな僅かな怪我を負うのにも耐えられない。だから、韋編を集めるということは忘れて。それは、暫くは私が一人でやるから。ただ、私と一緒にいるだけでいて欲しいの。それじゃ、駄目かな? どうか、それで、納得して・・・・・・」


「うん、分かった」


 紗仲は公園で、自分達は一緒に韋編を集めていたと言った。しかし、それは前世のことであり、記憶があってこそのことだ。何も知らない今では、それについては素人どころか門外漢でしかない。だから、これに関しては、彼女の言うとおりにするしかない。


「だけど、紗仲は危険じゃないの。何か、危ないことみたいに言っているから・・・・・・」


「私?」と、紗仲ははっとして、「私は大丈夫よ! あら、貴方は、私を心配してくださるの?」


「それは、心配だよ。俺だって、君に危ない目に会って欲しくないから」


 それを聞いた紗仲は見る見るうちに相好(そうこう)を崩し、


「ふふ。私は大丈夫よ」と、彼に抱き付き、「だって、私は貴方の妻だもの」


 紗仲は米彦の頭を撫で回し、


「私は貴方の持ち物よ。貴方の持ち物を傷付けられる者なんていやしない。貴方は私の持ち物よ、私の持ち物を傷付ける者がいれば、私は絶対に許さない」


 紗仲は見るからに上機嫌で、


「私が一人でやるけれど、その代わりに」と、明るく言った。「新しく手に入れたら、すぐに言うからね! 上手く出来たら、褒めて欲しいの!」


 米彦は頷いた。


 それから暫く取り留めもない話をしてから、


「そろそろ、遅い時間になって来たわね・・・・・・」


 と、紗仲は呟いた。米彦は翌日も塾がある。名残を惜しんだ後に彼女は彼を駅まで送り届けてこの日は別れた。


 紗仲は一人で洞窟の入り口にまで戻り、これからの事と彼の事を考え、心を浮き立たせた。彼は納得してくれた。だから、自分が頑張らなければ。記憶を取り戻したら、どんなに私が頑張ったか分かってくれるだろう。そして、取り戻す前の今でも、韋編を手に入れれば、二人のために一生懸命にやったことを必ず彼は理解してくれて、そして、たくさん褒めてくれるだろう。


 軽やかな歌声が夜の空気に染み入った。


 だが、しかし、伸びるに任せた草々を見回して、溜息を吐いた。

――いくら居ても立ってもいられず、いかに急なこととはいえ、こんな見苦しい景色を見せたのは何ともはや恥ずかしい。過去を覚えていたなら兎も角も。


 独り言ち、俯いてうなじに掌を押し付けた。その手を握り、頭上へ引き上げると、拳には棒が握られていた。棒は首に巻いた黒革の表面から伸びていた。腕を伸ばすと共に、すうっと伸びていくその棒は、次第に長い柄となり、そして柄の先、黒革の表面からは月光を返す巨大な鎌首が現れた。それは大振りの刃が付いた草刈り鎌、大鎌だった。


 紗仲は大鎌を両手で持ち、周囲の草を薙いでいった。大気に青い草いきれが満ちた。草露と汗とで肌に服の布地が張り付くと一息吐き、二回りほど大きくなった地面を眺めて満足した。今日の所はこのくらいでいいだろう。


 彼女は洞に入り、紙を水で湿らせて鎌の刃を拭った。そして振りかぶり、鎌の切っ先を自分のうなじに当てた。ぐっと力を入れ、切っ先を黒革に押し付けると、押し込まれた分だけ刃は沈み込んだ。刃が完全に沈み込んでも彼女は力を抜かなかった。そのまま黒革に柄を押し込み、そして柄もまた黒革に呑み込まれていった。最後に柄頭をとんと叩くと大鎌は全て彼女のうなじに巻かれた黒革の内に仕舞い込まれた。


 いや、仕舞い込まれたというのは正確ではない。それと言うのも――


 物を形作る要因は二つある。すなわち、形を表す形相(けいそう)、いわば設計図と、素材である質料、いわば材料である。鋳造(ちゅうぞう)(たと)えれば鋳型(いがた)が形相であり、その中へ流し込む鉄や銅が質料となる。彼女が首に巻いている黒革には形相が仕込まれており、取り出す際には周辺の量子を質料として大鎌が形成される。


 洞窟内の床几の脇に積まれていた黒革の束は未だ何の設計図も書かれていない白紙だが、彼女が鉄細工をして作ったもので型を取る。そうして作った鋳型を元にしたものが、今回であれば大鎌が、黒革の表面から取り出されたように見えるのだ。仕舞う際にはその逆となり、黒革の表面から大鎌が元の量子へと分解される。


 鎌を黒革に仕舞った――いや正確に言えば、分解した――、紗仲は、幸福感に包まれて寝台に座った。


 軽く目を閉じ、約百年振りの穏やかな気持が体の隅々にまで広がっているのを感じ、深く味わい、横になった。


 それから一瞬、気を研ぎ澄まして草原の周囲に張り巡らせた結界が無事に保たれているのを確認してから、蛇のとぐろを巻くように体を丸め、くうくうと寝息を立て始めた。


◆◆◆◆◆◆◆◆


 十六の夜の朧月、住宅街は暗澹(あんたん)として、昼こそ黄塵(こうじん)吹き上がれども深更(しんこう)にては鬼哭(きこく)啾啾(しゅうしゅう)、冥夜の濃霧は重畳(ちょうじょう)たる民家の屋根屋根をまで覆っていた。人の子一人、猫の子一匹ここには居ない、ただ街灯が霧に包まれぼんやりとなっているばかり。世にいう狐火とはこれのことではなかったか、そう思われる灯りだった。


 そうした無人の(ちまた)ではあるが、人が往来していたとしても、屋根から屋根へと飛び移る暗い影に気付く者が、果たして、いたか、どうか。


 夜に溶ける色の衣装に身を包み、同色の手甲(てっこう)脚絆(きゃはん)を手足に巻いて、御高祖(おこそ)頭巾をすっぽりと被った一つの影が音もなく民家の上を駈けて行った。その胸、腰付から察するに、それは女だった。


 懐をさすり、頭巾から覗く涼し気な眼元をうっとりとさせた。


――今宵の仕儀(しぎ)は順調であった。ここまでは。


 偸盗(ちゅうとう)の帰りだった。懐にはこの夜の獲物である古書が一冊含まれていた。


 彼女にとっては、ただの民家に忍び入り、カメラの死角を突いて鍵を破り、家人を起こさず、拳銃で武装した警備を避け、警報装置を遮断して首尾を遂げることなど、何の造作もないことだった。この程度のことは、丼の中の賽子(さいころ)を拾うに等しい容易(たやす)さであった。


 彼女は香具師(やし)にも似た身軽さで住宅街を走り抜けて行った。背後の気配に気を払いつつ。如何に鮮やかな手並ではあっても、それを見咎める目はあるものだ。怖い用心棒が追って来るかどうか、背に目を付けて注意していた。


 しかし、颯爽と逃げながらも彼女には、どこか全力を出していないような、追うものに襲い掛からせようとしているかのような、誘い込むような隙があった。


 と、一軒の上でピタリと止まった。


――来やった。案の定。


 彼女は古書を狙う者が自分以外にもいると感得しており、その相手を出し抜くためにも、やや早いかも知れないと思いながらも今夜決行したのだが、追って来るのは別のものであると予想していた。


 屋根から道路に飛び降りて、身を(ひるがえ)した。


 やはり古書、万巻韋編を狙う競合相手ではなかった。


 街灯に照らされた二匹の犬が、濡れた牙を剝き出しにして、怒りに燃える四つの眼で彼女を睨んでいた。引き攣った口からは、地の底から響くような唸り声が漏れている。


 通常の犬ではない。大型犬と呼ぶにしても一回りも二回りも大きかった。いや、それならばまだ普通だ。二匹の犬は各々の頭部に、耳元と目元と鼻先だけが開かれた、石の仮面を被っていた。まるで頭が石で出来ているようだった。


――噛み付かれずとも体当たりだけで大怪我だ。


 二匹の怪犬は身を低くして、いつ飛び掛かって来るかも知れぬ体勢となった。吹き出でる気迫から、それらがただの体当たりでなく、確実に噛み殺すことを狙っているのだと女には分かった。


 彼女は頭巾をするすると解き、布の一端を口に(くわ)えて薄く笑った。


 そこに現れた冷艶(れいえん)な微笑は、紗仲であった。


 彼女もまた身を沈め、左腰に右手を当てた。(じゃく)として動かない。


 びょうびょうと吹き荒れる殺気と剣気。琴線と銀線にも喩えようか。その細さ鋭さは音もなく絡み合い、(もつれ)れ合い、織り合って、無明の網を周囲一帯に張り巡らせた。薮蚊の一匹ですら入り込むことは出来なかった。ピインと張り詰めた空間に、目に見えぬ火花が飛び交い、透明な閃光が発せられた。肉を裂き、骨を断つ。一息の後れが絶命に至る。


 その内で紗仲は目を細め、


「来や、畜生ども」


 弦を切ったように二匹の犬は地を蹴った。紗仲目掛けて真一文字に突き進む。だが、それは動物の速さではなかった。強弓から放たれた矢でもこれほど速くはないだろう。仮に横から見ている者がいたとしても、そこを疾駆しているものがあったと気付けただろうか。並の目には影も残さぬ速度だった。


 正面に対した紗仲は、一匹が飛び掛かって来るのが見えた。


 口が大きく裂き開かれ、鋭く光った牙の並び、濃紅の口腔、漆黒の喉が、将に今、迫り来んとするのを見た――


 刹那、紗仲の身が更に低まり、左腰から水の飛沫(しぶき)(ほとばし)って、宙に弧が描かれた。


 バチリと鈍い音がして、水の飛沫は犬の首筋に触れると見るや、血の霧へと変化した。


 犬の石頭は打ち上げられた。


 紗仲の右手には、身も凍えるほどの白さをした刀身の、打刀が握られていた。


 断ち切られた犬の首根から(もう)として上がる血煙の向うに、襲い来るもう一匹の影が見えた。


 紗仲は返す刀で向かい来る犬の肩口から胴を、前後にばっさりと斬り下ろした。勢い付いていた犬は二つに割れて、紗仲の左右を抜けて行った。斬った瞬間、紗仲は片足をやや後ろに回し、半身になってぶつかるのを避けた。裂かれた肉の塊が飛び去る間、彼女は両目を閉じて血霧を防いだ。目蓋には血糊で(まだら)模様が描かれた。


 後方で、ばさり、という音が二つ聞こえた。そして彼女は夜空を見上げた。頭巾を広げ、落ちてくる犬の頭部を布の中央で受け止めた。包みにして片手に持ち、どす黒い血の海の中に(ぼう)として(たたず)む。


 胴体を前後に裂かれた方の犬が、自らの血潮に浸り、内臓を溢れ出しながら首を巡らし、体を起こすのも座るのも出来ないというのに、口を広げて、なお彼女を睨んでいた。息も吐けないのに未だ息絶えない。腱さえ繋がっていれば今にも再び襲い掛かって来そうな迫力だった。


 それを見下ろす紗仲の手には、だらりと血刀が垂れている。細身の刀身は潤うばかりに美しく、――いや、それは事実、濡れ光っているのだ。刀身は自ずから水気を発していた。水気は結んで水となり、水は固まり雫となり、雫は集まり流れとなって、とうとうと血泥を洗っていた。先程までは犬の血漿(けっしょう)(けが)れていたのが、今や白く、街灯の明りに珠を散らすばかりであった。


 紗仲は潮の中に蓮歩(れんぽ)を運び、怪犬の首筋に氷刃を当てると、すっと引き、切り離した。既に涸れていたのか、血はほとんど噴き出さなかった。犬の頭はびちゃりと落ちた。


 紗仲は刀を横に払って血振りをし、腰に巻いた黒革に納めた。


 それから首を拾い上げ、頭巾に入れた。ちょうど石の仮面同士がぶつかったのか、カコンと音がした。予想していたよりも大きかったために中身を押し込み、力ずくで何とか頭巾を包みにして結んだ。


 袖口で顔を拭い、ほっと息を吐いた。


 見上げると十六夜の月が綺麗だった。


 紗仲は胸元から細長く白く極めて薄い布を取り出した。その羽衣は首に掛けると風を孕んでふわりと膨らみ、彼女の足元では赤い(さざなみ)が立った。そして、ふっと飛び上がると彼女の体は宙に浮いた。羽衣の両端と長い髪がはためいて、交差しながら、雲のない夜空を流れて行く。片手に包みを提げた彼女の顔には、月を後光に、凄絶な陰翳が刻まれていた。


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