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② 御手に塗れる――2

夢幻の少女の語る由縁、現世の少年の見る神技

彼女こそはこの地にあらず、天の力を有する者

 米彦は紗仲に手を()かれ、住宅街を通り過ぎ、坂を上って、青々とした芝生が一面に生えている公園に来た。銀杏や柊が点々と植えられ、一隅には藤棚があった。陰が多く涼風が吹き通り、駅前よりもよっぽど過ごしやすいが気温が高いのは変わらず、ここにも人はいなかった。彼らは藤棚の下に据えられたベンチに座った。


「ここならいいわね、誰もいない」


 腰を下ろした紗仲は空を見上げて表情を険しくした。


「ね、昨日の今日だけど、思い出した?」


 米彦は首を振った。


「やっぱり、そうよね。そんなに都合良く行くなら、何の苦労もない」と、瞳に薄く雲が掛かった。「本当は、自分で思い出してくれるまで何も言わずに待っていた方がいいとは分かっているんだけど。だけど、私はもう耐えられないの。もう、会ってしまったから。もう、貴方なしで暮らしていくなんて、とても出来ない。だから、お願い、言わせてね。私が守るから。貴方が危ない目に会ったとしても。出来るだけ、会わないようにはするけれど。だから、お願い、貴方を危険な目に合わせてしまうかも知れない、私の弱さを、どうか許して」


「許すも何も」


 今は何も分からない。だから何とも答えようがない。しかし、他でもない夢の中の彼女が言うのだ、米彦はたとえどのようなものであろうと、彼女と関わりのあるものならば何であろうと、受け入れようと決意してしまった。


「だけど、どうやって言ったらいいんだろう」


 紗仲は困った。こうして説明することなど初めてだった。本来であれば各々が自然と思い出し、それによって会い、自明のこととして始めるのだったから。知らない者への言葉など持っていなかった。また、記憶を取り戻してからであれば、彼女の言った彼の危険も減り、安心していられるのだったが。


「そうね」


 それでも少しずつ、たどたどしくも説明しようとする。


「私達は、どんな願いでも叶えられるようになる道具を求めて、何度も生まれ変わっている。それを集める為に、私達は何度も死に、また生まれてきた。今回だってそうよ。私達が生まれたのは、それを集める為。その為に私は貴方のことを知っている。その為に、私は前世の記憶を持っている。貴方だって、その為に前世の記憶を受け継いで、私のことも覚えていると思ったんだけど。記憶は戻っていないのよね」


 と、横目で見たが、彼はすっかり困っていた。前世、前世か。変な記憶を持っている自分が言えた義理ではないが、すぐには信じかねる言葉だった。しかし昨夜のことを思えば、互いに一目惚れをし合ったというよりは信憑性がある気がする。ような気がする。それに、彼女が何度も口にしている「思い出す」という言葉、それから自分の記憶、前世で知り合っていたのなら、整合性が取れる。しかしそれでも、そのまま納得するのは難しかった。妙な記憶を持っていること以外は他の人と変わらないのだ。


 紗仲は彼の様子を見て溜息を吐き、そして続けた。


万巻(まんがん)韋編(いへん)。聞いたことある?」


 米彦は眉をしかめ、首を振った。


「そう、良かったわ。ある一連の書物の名前よ。そんな叢書(そうしょ)があるの。全十万巻だから万巻とも、願いが満ちるで満願ともいうけど、どちらでもいいわ。ま、とりあえず万巻韋編、そう呼ばれている。それらを総て、十万巻を(ことごと)く集め切れば、どんな願いでも、どんなに大きなことでも、どんなに抽象的なものでも、どんなに理に適っていなくても、幾らでも、実現出来るようになる。それがどんな、本当にどんなことでもよ。全能の存在になれるの。


 例えば、そうね、韋編(いへん)の力をもってすれば、全能の自分でも持ち上げられないほど重い岩を創り出せるわ。そしてそれを、持ち上げられない重さのままで、持ち上げることも可能よ。四角い丸だって作れるし、黒い光を発するのも可能、泰山を水に浮かべることだって出来るわ。何なら青い薔薇を作ってもいい。わざわざそんなことはしないけどね。もっとも、幾らでも願いを叶えられるのだから、遊び半分でやってみてもいいけれど。


 世界を壊して再生させるなんて序の口も序の口。と言っても、天を落として地を割るだなんて、小さな方法じゃないわ。宇宙の根源から創り直すことが出来るの。反対に、この世界を永続させたり、永遠に凍結させたりもね。そして、新しい世界を生み出すことも」


 青かった空は透き通り、その半ばまで朱色が差していた。樹木が長い影を引き、地には闇が這いつつあった。凍結とは反対の、燃えるような、と形容すべき時刻が迫っていた。


「どんなことでも出来るようになるのだから、まさに全知全能。韋編を総て揃えた暁には、神に、いいえ、それ以上の存在になっていることでしょうね。だから私達はそんな存在になる為に、何度も生まれ変わり死に変わり、幾世を経てもどんなことをしてでも集めてきた。そう、どんなことをしてでもね」


 公園がやや明るさを減じてきたために彼女の相貌にまで影がおよび、すらりとした輪郭に死の面影が重なった。深淵へと足がつられて行くように、米彦の目もそれに吸い寄せられて行った。それに気が付き、紗仲はぱっと明るい表情を作って、


「私達が生まれ変わっているのも韋編の力の一部よ。万巻韋編は全巻揃って初めて真価を発揮するものだけど、それぞれ一巻ずつにも力がある。というよりも、普通の人が魔法だとか、超能力だとか、法術だとか、巫術だとか、そんな風に呼ぶ力を現わして、自在に操る方法が記されている。


 だから手に入れたら読んで学んで身に付けるのね。それを覚えなければ、宝の持ち腐れ。書かれた技能を会得しなければ、結局は何も出来ないの。何でも出来るようになるって言ったけど、全部自分の力でやるのよ。内容を勉強して練習するの。不思議な本みたいに言ったけれども、分かりやすく言えば、そうね、忍術の秘伝書みたいなものかな? 分かりやすいかな・・・・・・?」


 米彦は無言だった。


「速読術とか記憶術もあって受験には便利よ」


「なるほど」


「でしょお? 欲しくなったでしょ?」


 少年は眉根を寄せ、どこまでも遠い空を仰いだ。


「そういうことじゃなくて、ね」


 彼の心根は澄み渡り、本来であれば、たとえ自分の想像の及ばないものでも在り得るかもしれない、と不可思議な現象に遭遇してもそれを在りのままに受け入れるだけの度量があり、同時に彼女の言うことなら荒唐無稽なものであろうと受け止める決意はあった。だが、理知は心情の邪魔をする。近代物質主義に教育された彼の頭は、既に、それを素直に聞き入れるには固くなり過ぎていた。


「何て言ったらいいのか。君が言うのなら、きっと、それは本当なんだろう。君の言う通り、俺も、君も、そうして生まれ変わっているんだろう。俺の持っていた記憶は前世のもので、現実で。実際に、こうして、俺達は出会ったわけだし。だけど、何て言ったらいいのか、今すぐには」


「信じられない?」


「いや、そういうわけじゃないんだけど」


「いいのよ。別に。当たり前のことだもの。こんなこと、いくら貴方でも急に言われて信じられるわけないものね」


「そうじゃないよ」


「いいのよ、無理しなくても。駄目なものは駄目なんだから」


「違うって」


「駄目よ、嘘を吐いたり無理をしたりするのはね。こんなこと、いきなり聞かされて信じる方が無理があるもの」


 信じるつもりは有るというのに。信じたくて堪らないのに。彼は心情の周辺に繁茂する常識という雑草が忌まわしかった。これがなければ、彼女の言葉はすっと心の奥底まで届いただろう。だが、それは叶わなかった。たとえどんなに信じたくとも、現代に生きる彼には非現実に身を委ねるということが難しかった。


 紗仲は胸を反らして伸びをして、戻る反動で勢いよく立ち上がった。


「やっぱり、実際に見せないとね」


 四方を見回し、その一方に視点を定めると、じっとして身動きしなくなった。


 米彦には背中しか見えなかったが、もしも前に回って彼女を見たら、腰を抜かしていただろう。紗仲は両目を見開いていた。それはいいのだが、その瞳孔が拡大し、また縮小し、大きさが絶えず変わっていた。その上、虹彩を覆う水晶体が肉眼で分かるほどに膨らみ、また萎んでいた。おそらくは、外から見えない網膜のような部分でも、そうした奇怪な動きがあったのではないか。それに、目だけではなく耳朶もまた、前後に動き、上下に角度を変えていた。米彦の位置からでは、耳も長い髪に隠されて見えていなかったのだが。


「何をしているの」


「ううん、ちょっと待ってね。・・・・・・あ! いたいた!」


 はしゃぐような声を出し、


「さっき別れた貴方のお友達を見ているのよ。ええと、竿置(さおき)銀座? 商店街ね、そうアーケードに書いてある。そこにいるわ」


 米彦はぐっとした。彼らがあの後すぐに電車に乗ったのなら、確かに今頃は彼らの家がある竿置町に着いているはずだ。そして真っ直ぐに帰っていればもう家に着いている時間だが、寄り道しないでいるなんてことはないから、彼女が口にした場所をふらついているのは充分に考えられた。おそらくは彼らはその辺りにいるだろう。米彦はそう思い、


「そこにいるかも知れないけれど・・・・・・。何で知ってるの。俺達がそこに住んでるって」


「いいえ、知らなかったわ、たった今まで。今、見たから知ったの」


「見たって」


「言葉の通り、この目で見ているのよ。貴方のお友達をね。それで、今あの人たちは果物屋の前を通り過ぎようとしているわ。皆でお喋りしながらね。あら、自転車が停めてあるんだけど・・・・・・。ああ、やっぱり。さっき私に近付いて来た男の子が」和也のことだろう。「彼が自転車にぶつかって倒しちゃったわ。それで、私によく話し掛けていた女の子」八重だ。「彼女がからかっているわね。・・・・・・と、あ」


 そう言うと片手を頭に当て、


「帽子・・・・・・、あの人が持っていたのね。そう言えば、拾ってもらって、返してもらっていなかった。それを彼女に指摘されたわ。何で持ってんのよ。返すの忘れてた。馬鹿じゃないの。口がきついわね、あの子。あの人にだけかも知れないけれど。ふふふ。それで、ああ! やめて! 無理無理! 入らないから! 大きさを考え、・・・・・・折らないで! ちょっと待っ・・・・・・。良かった・・・・・・。あのね、今、あの人が私の帽子を折り曲げて鞄に入れようとしたのよ。寸前で女の子に止められたから良かったけれど。それで、もう一人の男の子に渡したわ。ふう、その方が安心ね。それで、自転車を起こして、果物屋の前を通り過ぎて・・・・・・」


「ねえ、何を言ってるの。見たって、あいつらを見てるってこと?」


「ええ、そうよ」


「ここからじゃ」見えるわけがない。何せ彼らの住んでいる町は、この公園の最寄駅から六駅も離れているのだ。


「でも、実際に見ているのよ。貴方が私を見ているのと同じように。それじゃあ、貴方も確認してみて」


「俺は見えないよ」


 と、米彦は苦笑した。彼らがたった今、何をしているかなんて分からない。つまり、彼女は確認出来ないことを知っていて、そんなことを言ったのだ。それで、反論のしようがないのだから、自分の言うことを、友人がそんな行動をとっていることを、そのまま信じるしかない、そんな方向に持って行きたいのだ。まあ、いい。俺は彼女を信じるしかない。実際に見えていようが、いまいが、現状、俺は彼女を信じ、彼らが彼女の言う通りに動いていると思うしかない。今のところは、それで良いだろう。


 そんな風に考えていたところへ、彼女は事もなげに、


「スマホ。持っているでしょ? さっき着信か何かで震えていたし」


 ぞくっとした。俺にも確認は出来るのだ。それを、当たり前のように。確認出来ると知っていて、確認しろと言ったのだ。つまり――。


 米彦はポケットからスマホを取り出した。画面を見るとメッセージが来ていた。八重からだった。時間で言えばこの公園に向かっている途中だろうか。気付かなかった。


「それじゃあ、架けるよ」


「ええ、どうぞ」


 すらりと答えたが、米彦が通話ボタンに指を触れさせようとした瞬間、


「あ、待って」と引き留めた。


 米彦は、ほっと息を吐いた。やはり、嘘だったのだ。ハッタリだ。いくら彼女がよく分からない少女だからといって、本当にここから、あんな遠くを見通せるわけがない。ぎりぎりまで自分が不思議な存在だと思わせようとしたのだ。彼女は俺の夢に出て来たのだから、不思議な人であるのは変わりはないが。それでも、超常的なことが出来るまでとは。――米彦は無意識の内に、そんなことまで出来るのであれば、恐ろしい、と感じていた。


 彼女には不思議なところがあって、そして彼女のことは何であっても信じたい。それは本心だ。だが、それとは別に、彼女から本当に奇妙な能力を見せられるのは、それはそれで薄気味が悪かった。彼の生物としての本能が、居心地の悪さを感じさせるのだ。


 しかし彼女は嬉しそうに頬を緩め、


「あら、どうしよう、困ったな。あの自転車にぶつかった人が、私のことを、可愛い・・・・・・だって」


 米彦は愕然とした。


「ねえ、電話、架けるよ」


「あ、ちょっと待ってって。あら、あらら、うふふ。ねえねえ、聞いた? もう一人の男の子の方が、私のことを、可愛いというより美人なタイプだって。いやあ、あ、でも、・・・・・・うんうん、うふふ。悪い気はしないわね。あら、あ、うん・・・・・・。そんなに褒めてもらっちゃって。・・・・・・あ、でも。・・・・・・参ったなあ。ふふふ。よく分かってるじゃない。いい人達ね、貴方のお友達。私も好きになったわ。あ、だけど女の子達が不機嫌になって・・・・・・。どうしよう。私、あの子達に嫌われちゃったら。ね、貴方、私があの子達に嫌われて、いじめられたら、守ってくださる?」


「ああ・・・・・・」


「本当! 嬉しいな。あら、あのきつい子がバッグを振り上げて、自転車の男の子の背中を凄い顔で睨んでいるわね。もう一人の女の子が慌てて止めようとしているけれど・・・・・・。と、あら。きつい感じの子のバッグから音楽が鳴り出したわ。それで、下ろして、バッグを開けて、取り出して・・・・・・」


『あれ、綾幡。どうしたの』


 紗仲の薄気味悪さから逃れるように架電したスマホを耳に押し当てると、八重の声が聞こえて来た。


『ん、どうしたの。綾幡? もしもし?』


 米彦は黙っていた。返事が一向に聞こえずに、不振の混じり始めた八重の呼び掛けをじっと聞いていた。が、紗仲の、


「あら、貴方、もう電話しちゃったの。あ、そっか。あのきつい子の電話を鳴らして、殴るのを止めたのね。優しい」


 との言葉で観念した。


「あ、ああ、ごめん」


 紗仲はこちらに背中を向けたまま、電話を架けたのが分かったのだ。そして、その相手までも。リアルタイムで言い当てられるのなら、これは、本当に見えているのだろう。


『何、どうしたの急に。あの子はもう帰った?』


「いや、まだだけど、ちょっと席を外してる」


『ふうん。で、どうしたのさ』


「ああ、いや、大したことじゃないんだけど」


『うん』


「そうだな。・・・・・・今、どこにいる?」


『え。竿置銀座だけど? それがどうしたの』


「いや、別に・・・・・・。他の皆も一緒に?」


『そうだね。まだ一緒にぶらぶらしてるよ』


 やはり、そうらしい。しかし、場所以外にも何か本当に確認出来るものはないかと考え、


「ああ、あのさ」


『うん』


「あの子、紗仲が被ってた帽子って、今そっちの誰かが持ってる?」


『あの帽子ね。佐倉が持ってるよ』


「そう。それなら良かった。いや、あの後ちょっと探して、見付からなかったから、どこかに飛ばされたのかと心配してて」


『ああ、それは悪かったな。藤岡があいつぼんやりしてるから拾ってそのまま持って来ちゃったんだ』


「あ、うん、あるならいいや。ありがとう。それでさ、あの帽子、気に入ってるらしいから、出来れば大事に扱ってね、汚れたりしてたらショックだろうから。ほら、白いし」


『ふふ、綾幡、あんた心配性だね。大丈夫だよ、・・・・・・て、あ、そうでもないか・・・・・・いやね、さっき、藤岡が鞄に入れようとしたんだよ、そのままじゃ入らないから折り曲げようとして。あ! もちろん止めさせたよ。それは安心して。それで心配して電話してきたんだ』


「まあね。・・・・・・ちなみに、折り曲げようとしたのは何処で?」


『場所? 樺沢フルーツの前だけど、それがどうしたの』


「いや、どうってわけでもないんだけど」


『ふうん。あ、そうだ、そう言えばその時さあ、藤岡がぼさっとしてるから停めてある自転車にぶつかって倒してんのね、マジ笑えた』


「それでお前がからかったのか」


『そりゃ、からかうでしょ、普通。あれ、何で分かった?』


 紗仲が言っていた通りだった。全てが当たっていた。恐怖心が体を一巡したが、その後はすうっと消えて行った。彼女の言葉への納得、彼女を信じたいという気持がそれに打ち勝った。彼女の言うことは信じるに値する。米彦は彼女を心置きなく信頼出来るようになって、気が楽になった。


「何となく」心が浮き立ち、声音もどことなく弾んでいた。「そうそう、山吹さ、お前、これから紗仲とよく会うようになっても、絶対にいじめるなよ」


『ちょ、何それ。私いじめなんてしないよ』


「ごめんごめん、いや分かってるんだけど、ちょっと心配になって」


『綾幡ぁ、あんた、ほんと心配性だね、彼女が出来たらそんな過保護になるなんて想像もしなかったよ。大丈夫だよ。・・・・・・あ、でも』と、クスクス笑い、『さっきみたいな大仰に過ぎる言葉遣いをしてたら、からかっちゃうかも。ちょっと、面白いかも』


 と、ふと米彦は面を上げた。紗仲はその言葉を聞いて身を硬くしていた。


「いや、そんな、おかしくないでしょ」


『いやいや、面白かったよお。綾幡、注意してあげなよ、結構笑えた。わお! 大時代的!』

 八重の笑い声を聞きながら、そっと紗仲の背中を見た。彼女は髪を蛇のように逆立ててぷるぷる震え、聞かれているとも見られているとも思っていない八重はいいだろうが、米彦は怖くて仕方なかった。


「そうかなあ、そうかなあ! とても丁寧でいい子だと思ったよ!」


『綾幡ぁ、それは惚れた贔屓目だよ。傍から見れば滑稽だったから!』


「あー、ああ、あー、いや、そうだ! 話を変えよ、それでさ、和也はさ、紗仲のこと、何か言っていなかった?」


『ああ? 藤岡があの子のこと?』


 と、笑い声がピタリと止まり、


『藤岡か。・・・・・・へっ! あいつは馬鹿だからね!』


 と、通話が切れた。


「さ、紗仲・・・・・・?」


 と、米彦は恐る恐る声を掛けた。紗仲は背を向けたままで、


「貴方! 私、あの子嫌い! 滑稽だなんて、非道い非道い! ほらほら、藤岡って男の子も馬鹿って言われて怒っているし! 非道い、非道いよ。何が非道いって私を可愛いと言ったから馬鹿だなんてさ。それってつまり、まるで私が」


 と、声を低めてごにょごにょ言い出した。


 紗仲はぶつぶつ言っているが、何はともあれ、彼女が遠くにいる彼らの様子を見聞きしていたのは証明された。米彦は彼女の能力に感動した。


 頭の中で精一杯の地団太を踏んでいたために、紗仲は背後に彼が歩み寄って来ていたことに気が付かなかった。それで、


「紗仲」


 と肩を叩かれると、


「うわっ」


 と大声を出して引っ繰り返り、彼を見上げて激しくまばたきして、目の色を実際に白黒させた。米彦は彼女の手を取って立ち上がるのを助けると、


「どうやって見てたんだ。あいつらを」


「うん、だから、万巻韋編の」


 と、そこまで言うと大粒の涙がぽろぽろと零れ始め、隠すように目をこすり、顔を覆って彼にしな垂れかかった。


「あー、眼が痛いよう。耳が痛い」と、彼の肩に耳を押し付け、「駄目、疲れちゃった。私、あんまり得意じゃないもの」


 と、彼の胸元に息を吐いた。米彦は彼女をベンチに促し、そして落ち着かせていると、


「千里眼よ」


 と、ぽつりと呟いた。


「千里眼という技術で見ていたの。聞いていたのは順風耳ね」


「その技術で、あんなに遠くのことを見聞き出来たのか・・・・・・。凄いね」


「ううん、こんなのは全然。初歩の初歩よ。韋編のことを知っていて集めている人なら、殆どが出来ると思う。基本的なものだしね」


「じゃあ、俺も出来るようになるのかな」


 紗仲はむっくりと頭を持ち上げ、霞んだ瞳で彼を見詰め、


「出来るどころじゃないわ・・・・・・。貴方は、凄いもの。記憶を思い出したら、その瞬間に私なんかよりもずっと・・・・・・。それにね、特に、二千年前の頃なんか、貴方のそれは、千里眼や順風耳の技の域を超えて、もはや神通力、天眼通や天耳通にまで達していたわ。・・・・・・見通せないものはなく、聞こえないものはなく・・・・・・」


 思い出したら。彼女が何度となく繰り返してきた言葉だ。その思い出すとは、彼女のことは元より、こうした能力も含めてなのだろう。そして、いま彼女がさらりと言った二千年前、その頃のことも。二千年前。つまりは少なくとも二千年前から彼女らは生まれ変わって来ているということだ。しかし米彦にはそうした長い時間の重さに実感を持てるわけもなかった。


 紗仲は彼に寄り添っている。彼女の頭髪は顔のすぐ近くを流れていた。夏の夕暮れ、木立から吹く湿り気を帯びた風は暑気を飛ばし、それに乗って白粉のような甘く粉っぽい匂いが彼の鼻先をくすぐった。


 少年は少女の髪に顔を埋めたくなる衝動を抑えきれなかった。


 気怠く甘く、幸福とも呼べる時間の中に彼らは浸った。


 それでも、米彦の心には、何かが引っ掛かっていた。彼女の言った言葉だろうか、それとも見せられた非日常だろうか。その何かが彼を不安にし、疑念を抱かせた。何に対する疑念かは分からない。だが、それは重要なことにも思われて、放っては置けず、焦りを感じた。それでも、具体的に言葉にはならなかった。不安定な心境に揺り動かされて、


「ねえ、紗仲」


 そう呼んで彼女の肩を揺すった。


「なに」


 彼女の眼からは涙が引いていて、千里眼を使う前の、輝く瞳に戻っていた。


 だが、その瞳を見ていると、漠然と感じていた不安などは何でもないことに思えて来て、


「何でもない」


 と唇の端を上げた。


「変なの」


 目元を緩めて彼女は、また身を(もた)せ掛けた。


 こうして米彦の不安が搔き消されたのも、どんな願いも叶えられるようになるという、そして彼女が既に一部を有している、強大な力の一端であったのかも知れない。


 夕焼空の低い位置には茜色の落日が()かっていた。雲の下部は光り輝いて、上部は闇に染まっていた。幾つもの浮雲は光陰を(とも)(いただ)きそれぞれの位置に留まっていた。そうしたものなのだろう。


 愛しい女を胸に抱き、天地と昼夜の狭間に身を置いていた。そんな米彦の耳に、


「あ」


 という紗仲の声が届くと、彼の体から彼女の体温が離れた。


「誰か来るわ」


 彼女の目線を追っても彼には誰も見えない。


「足音と犬の息が」


 紗仲は言うが、米彦にはそんなものも聞こえなかった。それでも暫くすると、彼女の見ている方角から、一人の老女が二匹の犬を連れてやって来た。米彦の目にもその様子がはっきりと見える距離まで来た。


 すると紗仲は老女の方へと軽い足取りで駈けて行った。その後を米彦も追う。


 老女は紗仲に気が付くと、二人は知り合いらしく、親し気に挨拶を交わした。


「お散歩ですか?」


「そうなの、今日はちょっと早いけど、この子達が急かすものだから。こんなに暑いのに、困ったものだわ」


 そう言いながら老女は楽しそうに笑った。


 二匹の犬は舌を出し、しゃがみ込んだ紗仲に遊び掛かろうとして、老女に窘められたが、犬の耳にはそんな言葉など馬耳東風で、紗仲もまた、


「でんすけ、らいた」


 と二匹の名前を呼びながら、顎を撫で、手を()められて、きゃあきゃあと喜んでいた。


「あら、紗仲ちゃんのお友達? はじめまして。杉田と申します」


 老女は米彦に挨拶をした。彼もまた挨拶を返して、紗仲と犬が遊ぶのを見ながら世間話をした。それから、


「ええと、すみません、今更なんですけど、紗仲とのご関係は。親戚の方でしょうか」


 老女は笑い、


「いいえ、違いますよ。私には家族も親戚もいないもの」


 はっとして謝った。


「いいえ、いいのよ。私には世話をしてくれる人達もいるし、それにね、主人が残してくれたこの子達がいるから。・・・・・・あ、そうそう、失礼しました、私と紗仲ちゃんの関係でしたね。そうね、一ヶ月くらい前かしら、私がこの子達と散歩をしようと家を出るとね、ちょうど通り掛かったのね、紗仲ちゃんが、『こんにちは』と挨拶してくれて、『可愛い犬ですね、触ってもいいですか?』って、目をキラキラさせて言うものだから。この子達、初めは紗仲ちゃんを警戒してたみたいなんだけど、私が言うと、ちゃんと(なつ)いてくれて。とても素直ないい子達なんですよ。それでもちょっと躊躇(ためら)ってたみたいなのね。だけど紗仲ちゃんがちょくちょく遊びに来てくれて、時々餌も持って来てくれてね。段々と。それ以来お友達」


 一匹が紗仲の肩に前脚を掛け、顔を嘗めようとしていた。


「あ、やめ、田助!」


 と、避けようとしながら嬉しそうにしていた。もう一匹は胴を彼女の体に擦り付けて、匂いを嗅いでいた。


「ご主人さんが残してくれた・・・・・・」


「ええ、そうなの」と、老女はうっそりとして、「あの人、背取(せど)りを趣味にしていたのね、あんまりいい趣味じゃないんだけど、珍しいものを見付けられると掘り出し物だって喜んで。宝探しの気分だったんでしょうね。それである日、あの人が帰って来ると、『捨て犬だ』って、あの子達を。死んだのは、それから(しばら)くもしない内だった。きっと虫が知らせたのね。あの人は自分がもうすぐ死ぬのを知っていて、私を寂しがらせないように、あの子達を残してくれたのだと思う」


 彼女が本当にそう思っているのかどうかは分からない。だが、彼女がそう信じたいということ、夫が死んだ後にもまだ想いを残していることだけは米彦にも分かった。


「ほら、田助、雷太、そろそろ行くよ」


 老女はリードを引き、紗仲に絡み付いている犬達を促した。


「紗仲ちゃん、いつも有り難うね。また遊んであげてね」


「いえ、こちらこそ有り難うございます。いつも遊ばせて貰って」


 そして彼女は犬を連れて、しとしとと歩いて行った。二匹は既に紗仲と遊んでいたことも忘れたかのように、飼い主の歩調に合わせてゆっくりと従っていった。


 紗仲はそれらの背に向かい、


「それじゃ、杉田さん、さようなら! 田助、雷太、またね!」


 と手を振った。老女は紗仲を見て軽く会釈をし、去って行った。


 老女がすっかり見えなくなると紗仲は手を下ろし、極めて小さな声で米彦に(ささや)いた。


「あの人の家にもあるわよ。万巻韋編の一冊が」


 何故かは知らない、彼女の静かな横顔を見て、米彦は背筋に冷水が流れるのを感じたのだった。


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