⑦ 涙を伝えしか
松とは尽きぬ言の葉の、栄は古今相同じと、御代を崇むる喩なり――世阿弥「高砂」より
「おお、久し振りじゃねえか」
和也がそう声を上げた。進学塾の一室。この日最後の講義が終わり、一緒に帰ろうと朱莉達二人が迎えに来ていた。朱莉の後ろに、ここのところ一緒に帰ることもなくなった八重の姿を見止めたのだ。その彼女は少し俯き加減になり、そわそわとして服の端を摘まんでいた。
「どうかしたのか」
「いや、別に」
怪訝に見詰める和也の視線を避ける面がほんのり赤く染まっているのは気のせいだろうか。親友である朱莉はふと気が付いて、
「そう言えば、その服、初めて見るね。買ったの?」
「いや、ちょっと。自分で作ったんだけど・・・・・・」
もじもじとして、ちらちら和也へ視線を投げつつ、
「どうだろう、今までの趣味とはちょっと違うけど、に、似合うかな」
彼はまじまじと観察し、妙に長く感じる間に朱莉が助け舟を出し、
「ええ、自作? 凄いね。デザインも可愛いし。藤岡くんもそう思うでしょ」
和也は長く唸った後に口を開いて、
「別に。何とも」
「な・・・・・・」
八重は驚き呆れ憤り、青くなったり赤くなったりしたのだが、これはまさしく先日見舞いに来た和也がファッション誌を指差して好みだと言っていた服を模して作ったものだった。
あれ以来は前日まで、生地の調達から型紙製作、裁断、仮縫い、縫い合わせまで、宿題ではない本格的な衣服製作の初実戦、何度もやってはやり直し、塾以外の時間は総てこれに費やして、寝る間も惜しんで睡眠時間は毎日四時間、惚れた男に気に入られようと苦労の結果が水の泡、怒りも過ぎて悲しくなった。
そこまでは知らなくとも八重の気持を知った朱莉は慌て、
「藤岡くん、そこは褒めようよ!」
「だって、見慣れない感じだし」
「見慣れないって。それじゃあ新鮮な魅力とか感じない?」
「新鮮というか、珍しいものを見た居心地の悪さ」
「それは、非道い」
批判を聞いても泣きはしない強気な八重は怒鳴り付けてやろうと口を開いたその瞬間、
「いや山吹はさ」和也は気付かずに続きの言葉を口にする。「普段のままが一番いいよ。趣味を変えたりするよりも」
「え、・・・・・・、」
「いつもの格好が一番だよ」
「え、嘘、」
「嘘なもんかよ。実際そうなんだから」
八重の顔は紅に。鈍感な男は気付きもしないが。
「あ、そう。そっか、そっか。それじゃ、明日からは、また、いつも通りの格好にしようかな」
「おお、そうしろ、そうしろ。つってもあれだぞ、毎日同じ服ばかり着てんなよ。破れた時くらい新しいのを買うんだぞ」
と、けらけら笑う。
「失礼な! 毎日ちゃんと着替えてるだろ。・・・・・・お前こそ何だ、ださい格好しやがって」
「な・・・・・・」と、不意打ちに和也はショックを受ける。
「だから、あれだよ、ほら、今度の土曜日、お前の買い物に付き合ってやるよ・・・・・・」
「いや、買い物の予定はないけど」
「うっさい、行くんだよ! そんな格好でうろうろされちゃ、一緒にいて恥ずかしい」
「は、恥ずかしい・・・・・・。そんなに・・・・・・?」
「そう、だから行くんだよ。待ち合わせはな、・・・・・・」
朱莉は親友がデートに誘うところを微笑ましく見ていた。濡れぬ先こそ露をも厭え。見舞いの日に少しだけでも心の内が漏れてしまった事で、八重は浅瀬ではあっても足を踏み入れられるようになっていた。実の一つだに無きぞ哀しき山吹も九重十重に花は咲くらん。
と、この遣り取りの間にも一人友人達の輪に加わらない米彦の様子に、朱莉は気付いた。
「綾幡くんは、まだこんな感じなんだね」
それは独り言のつもりだったが、和也が答えた。
「ん、ああ、今日も治らない」
米彦は先日から常に心ここにあらずといった様子で、ぼうっと頬杖を突き、窓の外を眺めていた。
あの翌々日、米彦は眠そうな、そして疲れた様子で塾へ来た。和也が仲直りをしたのかと聞くと、憂わしげに頷き、それからずっとこの調子だった。
仲直りはおそらく事実だっただろう。しかしそれ以後に彼が紗仲と会っているようには見えなかった。それで和也が問い質しても、悲しそうにするだけで、何も話そうとはしなかった。友人達は詮索するのを諦めた。
彼が元気を取り戻すのを待つ、静かにそれを察せられないように、無理な干渉はしないようとじっと見守る、これが彼らの決めた方針だった。
米彦は彼らの心遣いに気付かなかった。それどころではなかった。彼の心はあの夜、あの朝に繋ぎ止められていた。
最後に唇を離してから、紗仲は言った。やはり私達は会わないようにしよう、私の心の弱さから、貴方を危険に晒してしまった。
それがどうした。米彦は言った。君と一緒にいられるならば、こんなもの、幾らだって望むところだ。
だめ、貴方を危ない目には会わせられない。
それでいい、君と一緒にいられるならば、どんな危険も甘んじて受けよう、艱難辛苦も降り注げばいい、どんなものでも耐えられる、ただ君の側にいられるならば。
だから駄目なの、いくら貴方がそうした気持でいてくれたって、肉体には限界があるのよ、首を斬られれば死んでしまうの。だからお願い、分かって、私、貴方が死ぬのは何度見ても慣れないの。いつでも心臓の破れるような気持がする。もう二度と耐えられない、次に見たらきっと、私も一緒に死んでしまう。だからどうか、そんな死に臨むような事は言わないで。思い出すまで会わないで。会いに来ないで。私もずっと、貴方が記憶を取り戻すまで待っているから。次こそは、何年だって我慢するから。
俺は強くなる。危険になど会うものか、俺だけじゃない、君にだって、そんな目には会わせない、敵がいるならどんな敵でも倒してみせる、守ってみせる。
ありがとう。今はその言葉だけで充分よ。
そう言って紗仲は羽衣を靡かせて飛び去って行った。
米彦は彼女の後を追い、山を駈けた。記憶を頼りに彼女の塒を探して歩き回った。しかし洞窟はおろか、あの青い花の咲く草原にまでも辿り着けなかった。確かにこの道、このように向かえば在ったはずなのに。それでも無い。見付けられない、辿り着けない。彼女は完全に結界を張ったのだ。彼にさえも発見されない、完璧なものを。米彦が見るのは夏日に輝く緑ばかりだった。濃さに眩み、匂いに噎せた。
翌日にも、更にその翌日にも彼は行き、山間を彷徨った。だがどうして結果が得られよう。次第に無駄だと悟って行った。それでも、それがはっきりとした後になっても、探さずにはいられなかった。あの天女にも紛う少女の姿を。あの白い衣の翻る様を。もう一度限りでも、視界の端にでも、見たかった。高い雲は白く、広い空は青い。広漠とした天下に彼はただ一人だった。
教壇では古典講師の松崎が講義の余談として能についての説明をしている。神能、修羅物、鬘物、四番目、切能、狂言。能はそれぞれの曲が世界の諸相を映し出し、五番を通して演じることにより、それらが一つの作品となって人生そのものが表されるという。だが、そんな知識を今の米彦が欲していただろうか。
松崎講師は「高砂」を朗読した。
しかし講師は一旦それを中断し、窓際の席で頬杖を突き、やる気なさげに窓外を眺めている生徒に注意をした。二度三度繰り返したが、生徒はそれに気付きもしない。溜息を吐き、朗読を再開した。
米彦は洞窟から持ち出した、松を模った文鎮を固く強く握り締めていた。裏には次の語句が刻まれていた。
松とは尽きぬ言の葉の。
視線は飽くまで遠い空へと向けられていた。そして夢想に耽るかのように目蓋を下ろした。
チャイムが鳴り、松崎講師は不真面目な生徒の耳にも届くように大きな声を出した。
「今日は是まで!」




