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⑥ 流れつる紅の――3

比売(ひめ)神の(まさ)に今焼かれんとする時、大明神は顕現(けんげん)せり

 高緒は勝利の笑みを漏らしていた。優位の余裕ではない。既に勝敗は決していた。敵の手脚は封じ、技は総て見切っていた。紗仲はこの体勢から打って出る術を持っていなかった。手先足先を動かせなければ彼女に出来る事はない。高緒はそれを知った。


 単純な力量――むしろ先天的な、と言うべきか――では、紗仲は高緒に及ばなかったのだ。脚を使い、術を使い、道具を使い、それでようやく切り結べる程度のものだった。

高緒の手は既に炎熱を蓄えている。後は焼き潰すだけだった。


 彼女の背後では鴉の死骸が燃えている。斬られなかったものは糸が焼き切れた後には飛び去っていた。ちろちろとした炎は小さく、消えかかっているものもある。鳥一羽分の肉など瞬間的に焼き尽くせるほどの熱を持っていたということだ。残滓(ざんし)には僅かな灰。これが本当に先刻まで空を飛んでいたものの姿だろうか。巻き上がる火風はそれをも吹き飛ばす。


「やめろ! そこまででいいだろう!」


 高緒は背後に米彦の声を聞いた。


「もう勝負は付いている。後は、紗仲が諦めれば済むことだろう」


 紗仲の震える唇を眺めながら高緒は答える。


「諦めないでしょう。ねえ、そうでしょう?」


「俺が言い聞かせるから、諦めさせるから、だから、どうか、殺さないでくれ」


「だけど、ねえ、貴方は倫子を殺したじゃない」


「それは」息を呑み、「それは勝負の末だ」


「同じよ。諦めるくらいなら初めから戦いに身を置いたりしない。地を()い泥を(すす)っても、いざとなったら自分の命を手段にしてでも、叶えたい願いがある。激しい、燃えるような理想がある。


 たとえ何と言われる謀略だろうと、卑怯も、卑劣も、戦闘の中では褒め言葉よ。絶対的な目的の前には、たたが個人の汚名など、幾らでも被ってやる。それを嫌がるのは、その人にとっての願いなど所詮はその程度だったってこと。


 名誉は命に勝り、理想は名誉に勝る。それだけのものを持っている。この子もそうでしょう。だから、ね、死者を冒涜(ぼうとく)しないで」


「まだ死んじゃいないだろう」


「今、死ぬわ」


「どうしてもやめないか、自分も死ぬ覚悟の上か」


「くどい!」


「なら、高緒・・・・・・」


 自分は無力だ。何の力も持っていない。しかし俺は、かつてには、紗仲と共に数多の戦闘を繰り返し、向かい来る敵で死山血河を築いていた。俺は知らない、そんなものは覚えていない。しかしこの魂にはその記憶が眠っている。紗仲を助けるために、その記憶を、過去を、呼び起こさねばならない。


 米彦は倫子の首を拾い上げた。


 倫子が死んだ時の事は覚えていない。しかし彼女を、俺は自分の意識を失っている間に殺したのだ。倫子と戦った時のように彼女の光を浴びれば、同じように記憶はきっと蘇る。前世の自分が、きっと紗仲を助けてくれる、そのはずだ。


 そして自分は、この意識は、その後どうなるのだろう。もしかしたら二度と元には戻らないかも知れない。前世の人格がこの体のその後の人生を送り、自分自身のこの意識は闇の中へと消えてしまうのかも知れない。それは事実上の俺の死だ。だが構うものか。


 米彦は倫子の生首に顔を寄せ、その唇を自分の口で覆い被せ、大きく息を吸い込んだ。倫子の気管に残っていた光の粒子が彼へと流れ込んだ。


 脳に大きな打撃を受けたような感覚を覚えた。それと同時に表層意識は暴風によって吹き飛ばされた。彼の内面には何も残らなかった。そこからは、綾幡米彦としての思考も、記憶も、人格も、人生そのものも、総てが洗い流された。そしてただ、心の奥底に眠っている魂だけが剥き出しになった。


 ビクリとして高緒が振り返る。


 米彦は倫子の首を丁重に地面に置いていた。両腕が開かれ、手枷はなくなっていた。倫子の首を見下ろし、小さく頭を振っていた。


「綾幡くん・・・・・・?」


 呆然として高緒が呼び掛ける。彼は顎を撫で、


「ほう、この身は綾幡というのか」


 その手首には火輪が巻かれていた。そして腰にも、細い火の縄が巻かれている。それらは高緒の髪の束縛を焼き切った残り火だった。油の染み込んだ髪の毛だ、その火は中々消えなかった。


「貴方・・・・・・」高緒は口を開閉させるが、何を聞いたらいいのか分からない。「戦えるの」


「この国には武神と呼ばれるものが何座かあるが。乃公(だいこう)が戦えなければ、一座減ってしまう」


「随分と、・・・・・・背負(しょ)っているのね」


「まあ、昔取った杵柄か。そんな事よりも貴公はこの身を知っているらしいな。ついでだ。下の名は何という」


「・・・・・・米彦」


「綾幡、米彦か。なるほど、今はそんな名か」


「それよりも、貴方は」


「それよりも」と、彼は目をギロリと剥いた。「貴公の組み敷いているその女、それは乃公(だいこう)の女ではないか?」


 高緒は彼に気を取られて紗仲を疎かにしていたのを思い出した。改めて力を加えようとするが、彼女に抵抗する気力は既に尽きているらしかった。ただぐったりと、されるが(まま)になっている。


「それがどうした!」


 高緒は後ろに吹き飛んだ。草原を越えて反対側の林の樹に叩き付けられた。幹をずり落ちている間に、ようやく彼が飛び掛かり殴り付けて来た光景が視覚として認識された。


「大問題だ」


 耳鳴りで潰れた聴覚の内にその声が聞こえた。この言葉が発せられたのはどの瞬間だったのだろうか。殴られた時か? いや、それに拘っている場合ではない。


「貴様! 米彦!」


 血泡を飛ばして叫んだ。そして両手に火気を集める。が、ぞっとする。あの速さなら、このように火焔を発しようとする間にも、次の攻撃が来るのではないか。


 しかしそれは杞憂だった。彼は紗仲の傍に膝を落とし、彼女の様子を観察している。腕を持ち上げ、(ひね)ってみている。満足したのか、仰向けに倒れていたのを今度は俯せに引っ繰り返した。


「舐めやがって」


 高緒は自らの内に流れる血で顔を真赤にした。両手の内に火を集束させ、遂には白熱し轟音を発するまでに成長させた火焔球を二人に向かって放った。


 彼はそれをちらと見、片手で受け止めた。恐ろしい熱を持った火焔球は彼の掌の中で見る見る小さくなっていく。


 倫子や紗仲が空気を氷結させ、瞬時に空間に鏡を作り出した術、あれは本来熱を操る術だった。つまりは、彼はその術を使い、高緒の放った猛火の熱を吸い取り、奪い取っているのだった。


 目覚めてから彼がこの術を使うのは初めてではない。高緒による髪の毛の束縛を焼き切る際にもこれを使い、体内の熱を手首や腰の体表で発火させ、それで縛めを解いていた。だから正直なところ、彼の体は熱を失っていたのだが、この火焔のお陰で熱を取り込み、温まっていた。


 それでも高緒の火焔は人体を暖める程度のものではない。彼は左手で火焔球の熱を吸い込みつつ、右手でそれを放熱した。ただ放熱しているのではない、その熱を、高緒がやったのと同じように、軽く握った拳の内側に集束させている。


 その間、高緒は二人の元へと駈け寄っていた。途中で剣を拾い上げ、それでも勢いは何ら失せず、中腰に構えて突き込もうとした。


 高緒の目に映る彼の姿が、心眼で見えている位置より二歩、右に行った。


 彼女は紗仲が同様の術を使ったのを覚えている。あの時、心眼が騙されて虚を突かれた。それであったから高緒は肉眼で見える彼へと突進した。


 が、そこに彼はいなかった。彼は心眼に映っていた場所にいた。


「こいつはこの技が好きだったからな。貴公との戦いでも使ったのではないか? 貴公は素人ではないと見える。だから対策もするだろう」


 果たして高緒の耳にその言葉は聞こえていただろうか。


 彼は剥き出しになった高緒の臓腑に正拳を突き入れた。衝撃で彼女の腸の一部は液化した。そして拳を引き抜く際、拳の内に集束させていた熱を腹腔の中央に置いて来た。


 それは純然な熱だった。高緒の(はら)に溜まっていた液体は瞬時に蒸発した。腹腔は空になり、内壁は乾燥した。それでも熱はなおエネルギーを持っている。熱は光を放ち続け、高緒の胴体はランタンのようだった。


 高緒は翼を畳んだ。腹を閉じ、空気を遮断した。炎が中にあろうとも、これで体が燃え上がることはない。酸素が尽きれば火も消えるだろう。だが、体内にあるのは種火ではない、熱そのものだった。発火はせずとも、熱が体内を蝕んでいく。むしろ、外気と遮断したことで熱が籠った。熱が体の内側を焼いていく。


 ならば放熱すべきだったのだろうか。


 高緒は再び腹を裂き、翼を広げた。その瞬間、外気に触れた高熱はバックドラフトを起こした。爆発的に広がる炎は高緒の全身を覆い尽し、月夜の下に燃え盛る翼人を生み出した。彼女はこれを止める術を知らない。


 四肢の腱は焼き切れた。皮膚は(ただ)れ、髪は燃え尽き、目蓋は焼け落ちた。その目で敵を()め付ける。敵は自分の様子を腕組みして眺め、焼け崩れるのを待っている。既に勝負は決まったとでも思っているのだろうか。


 冗談ではない。高緒の背筋、側筋はまだ表面が燃えているだけだった。つまりは、翼はまだ動く。だがこの状態で戦ったとしてどの程度の勝算があると言うのだろう。


 高緒は炎の翼を大きく羽搏(はばた)かせた。一面に火の粉が舞い散った。彼女の体は宙に浮いた。


――飛べる!


 そして彼女は有らん限りの力で夜空へと上昇した。紅蓮の炎を纏った翼人は闇夜への逃亡を計った。その影が月へ向かっている。


 男は地上で彼女の生命力と根性に感嘆した。彼とて飛翔の能力は有しているだろうに追おうとはしなかった。見逃すつもりなのだろうか。


 確かに彼女は逃げおおせようとも間もなく命が尽きそうにも見える。しかし高緒には割腹しようとも即座に出血が止まるほどの治癒力がある。それを考えれば逃がすのは再び襲われる機会を作るのと同義だ。


 そうしたことを考えたわけではないだろうが、彼ほどの男が敵をわざわざ逃がす筈がなかった。


 男は横たわる紗仲の背中に手をやると、その服を引き破った。彼女の半裸が月光の下に露わになる。紗仲の体には、あらゆる武器の形相(けいそう)を仕込んだ黒革が巻き付けられていた。


 男はその中の一本に触れ、愛用の武器を引き抜いた。握られているのは彼の身の丈ほどの強弓だった。弦を張った状態でそれである。別の黒革に触れて矢籠(しこ)を引き出した。


 そして矢籠から一(せん)の矢を引き抜き、矢筈(やはず)を弦に(つが)え、弓を引き絞る。


 ところで、拳銃が剣や槍などの武器よりも殺傷能力が高いのは何故だろうか。それは単純な話で、拳銃に使われる火薬の爆発力が人間の筋力よりも強いからだ。つまり、もしも武器を持つ者の力が火薬の爆発力を超えるのならば、その威力は拳銃に勝る。


 男の引いた弦が「く」の字に曲がった。


 この理屈は拳銃に限らず、別の兵器においても言える。彼の筋力が突撃銃に使われる火薬の爆発力を超えるのならば、その威力は突撃銃に勝る。狙撃銃の火力を超えるのならば、その威力はそれに勝る。


 弓は軋み、姫反(ひめぞり)が曲がった。


 もしもそれがロケットランチャーを超えるのならば、その威力はそれにも勝る。戦車砲を超えるのならば、それをも超える。


 弓は尚も絞られた。鳥打(とりうち)が曲がっていく。


 列車砲の火力よりも強い膂力(りょりょく)の持ち主が放つ攻撃ならば、その威力は列車砲よりも強い。ミサイルの推進力を超える力で打ち出される矢は、ミサイル以上の破壊力を持つ。


 弓は更にしなり、握りまでもが曲線を描いた。


 弾道弾を超えるのならば、それは即ち弾道弾より強かった。そしてもしもそれが兵器に限らず、ロケット以上の力を持つとするなら――。


 張られた弓は、満月の真円を描いていた。


 弓矢八幡。


 矢は放たれた。それは音速などは(ゆう)に超え、凄まじいとしか言えない速度で飛び立った。彼が弦から指を放した瞬間と、目標に達した瞬間にどれほどの時間差があったというのだろう。人間の感覚からすれば、それは同時だった。


 炎を纏った翼人の頭部が月鏡の中心で弾け散った。


 男は満足そうに頷くと、弓をしごき、それと矢籠を紗仲の背中、そこに巻かれた黒革に納めた。


◆◆◆◆◆◆◆◆


 紗仲が目を開けた時、彼女は彼に抱きかかえられていた。体に痛みはない。きっと顔にも火傷などはないだろう。


 彼は暁色に染まり行く地平線を眺めながら、片頬に微笑みを浮かべていた。


 紗仲の心臓で凝り固まっていた何かが溶けて行き、血流に乗って全身を巡った。彼女の目からじわりと涙が溢れ出た。


「貴方ぁ・・・・・・」


 彼女は彼が記憶を取り戻したのを知った。久しい夫が総てを思い出して自分を支えてくれている。


「おお、気付いたか」


 そう言って見下ろす彼の眼差しは堪らなく優しかった。


「はい・・・・・・、紗仲は、紗仲は・・・・・・」


「安心しろ。あの敵はもう追い払ったぞ」


 彼が記憶を取り戻したのだ、どんな相手だろうと勝てるだろう。そうだ、その彼がここにいる。


 紗仲は彼の腕の中で身動ぎし、むずかった。


「それにしても今までよくやった。我御前(わごぜ)には苦労を掛けている」


「そのような事は・・・・・・、どうでも良いので御座います・・・・・・。紗仲は、寂しゅう御座いました」


 彼女はしゃくり上げ、


「ようやく貴方に見合えましても、貴方は何も覚えていらっしゃらない・・・・・・」


「うむ」


 彼は紗仲の頭を大きな手で撫でた。彼女は声を張り上げて泣いた。涙を拭い、


「でも、これで今生にてもずうっと一緒で御座いますね」


 男は彼女の濡れた顔を愛おしそうに見詰めながらも、それでもきっぱりと言い放った。


「いや」


「え」


「今のこれは、この身本来の人格に記憶が戻ったのではない。米彦という人格は失われておるわ。ならば一度記憶を失わせ、この身の人格を保ったままで総てを思い出すのを待つしかない」


「そんな。・・・・・・それは、いつで御座います」


「さあのう。全く見当も付かぬわ。まあ良い、いずれは戻るじゃろうて。人生は長い」


「長すぎます。・・・・・・ねえ、貴方、いっそ、このまま・・・・・・」


 と、彼の袖に(すが)り付いた。


「そうは行かぬ。この身にはこの身の人生がある」


「嫌で御座います! 嫌で御座います! また紗仲をお忘れになるなんて・・・・・・」


「駄々を捏ねるな、()(いも)よ。すぐに戻るわ。人生は短い」


「短いからこそ、今生にては戻らぬ事も・・・・・・」


 その言葉には答えずに、


「それでは、(しばら)く」


 と、彼は脇に置いていた倫子の首を拾い上げた。


 紗仲は耐えた。彼の邪魔は出来なかった。じっと、彼の行いを受け入れざるを得なかった。それで最後に、


「貴方。ねえ、貴方? 吾が()は、いつまでも吾が()で御座いますね?」


「言うには及ばぬ」


 男は倫子の鼻を咥えて、一気に息を吸い込んだ。


 言葉を聞いて紗仲は嬉しそうだが、ちょっと恨めしそうに、


「及んで頂きたく・・・・・・」と。


 彼は笑い、


「言わせるな。が、その目に負けたわ。吾が(いも)は、永久に吾が(いも)じゃ」


 彼の意識は遠退いて行った。身体から力が抜けて行った。紗仲の髪を梳いていた手が、彼女の頭から離れて行った。上半身の支えが崩れ、胸に抱く女に覆い被さった。記憶は遠くへ消え去った。


◆◆◆◆◆◆◆◆


 米彦が目を開けた時、彼は座り込んでいた。隣には紗仲が身を凭せ掛け、じっと彼の手を(いじ)っていた。


「気が付いた?」


 俯いたままで問い掛ける。米彦は頷いた。それを彼女は感じ取った。


「貴方、私のために自分自身を投げ捨ててくれたのね。ありがとう」


 彼女は尚も彼の手を弄っている。大きく息を吸い込んで、


「ごめんなさい。私が、守るって言ったのに。貴方を、危険に晒させたくなかったのに。貴方が、こんな目に会うなんて」


 紗仲は面を上げた。目元が湿り、腫れていた。


「やっぱり」と、彼女は喉を鳴らした。「私達は、まだ会うべきじゃなかったのね。こんな事、貴方に、危ない目に会わせてしまって」


「そんな事。それより、紗仲、紗仲は大丈夫なのか」


「ええ、無事よ。何ともないわ。何事もなく、終わったわ」


「よかった。それじゃあ」


「ええ」


 紗仲は遮るようにそう言った。そして何かを思い悩んでいた。じっと考え込んでいた。米彦には彼女のその様子が心配で仕方がなかった。聞こうにもそれが出来ない程に彼女は沈み込んでいた。


 意を決したように彼女が言った。


「ねえ、貴方、無事って言ったのは、少し嘘よ。お願いがあるの」


「なに。どんな頼みだって聞くよ」


「それじゃあ、目を閉じて」


 紗仲は彼の首に腕を回し、口付けた。唇を合わせ、甘く噛み、舌を吸った。米彦は彼女と自分の望むままにした。紗仲の(まなじり)からは、涙が細く長く筋を引いていた。


 いつしか空は曙を迎えていた。彼らのいる地上は灰燼(かいじん)で惨憺たる有様だった。しかしそれが何であろう。上天は瑠璃色に光り輝いていた。二人の輪郭は溶け合って、ぼんやりとした一つの影になっていた。つかの間の喜びに満たされていた。


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