④ 血潮の色は――1
男は女の無情をなじる。
抜けば珠散る氷の刃が敵の邪法と斬り結ぶ。
朱莉達と別れた紗仲は米彦を連れて船寄山まで行った。紗仲はここまで連れて来て、八重の家にも帰らない理由を説明しなかったが、米彦は別段聞くこともなく従った。ある種の迷いに胸を塞がれていた。
洞窟の前の草原は夜毎の紗仲の努力によって綺麗に整えられていた。茫々と生い茂っていたのが今では踝を覆うほどにも伸びていない。草原は山林に囲まれて、内にはぽつりぽつりと梅の木が植えられていた。不思議なことだった。それらの梅は真夏だというのに、彼女の肌のように白い花を点々と付けていた。
刈られたばかりの緑を踏みながら、米彦は独り言のように質問した。
「なあ、山吹のことなんだけど」
紗仲は可愛らしく小首を傾げて、
「なあに」と、彼を覗き込む。
「怪我がなくて、良かったよな」
「本当よね」
そう答えてクスクスと笑った。
「紗仲のお陰なのか」
しばしの間、鼻歌で誤魔化そうとする様子を見せながら、彼がもう一度聞いて来るのをうずうずして待っていたのだが、待ち切れず、
「ええ、そうよ」
と首筋を撫で、黒革から小壜を取り出して、
「ね、見て、これ」とニッと笑い、「万能膏って言うのよ。打ち身切り傷腫瘍骨折、虫刺されから内臓破裂まで、一たび塗ればあっという間に」
「それじゃあ」と、最後まで聞くのがもどかしく、「紗仲は山吹が無事に帰って来るって、わかっていたわけか」
「まあ、見付けられたら治せるとは思っていたけど」
「そうか」
それきり黙った。
何が何やら分からぬけれど、沈み込んだ彼を元気付けようと小声で唄を歌ってみたり、少し走って彼の前で回ってみたり、楽しそうにして見せた。刈られた草の切れ端が風に吹かれて、彼女の足元で舞い上がった。その緑の流れ動く様子、それらと一体になって踊る姿は、あたかも植物の精のようだった。
彼女の振る舞いは彼に対する媚態でもあったが、それのみというわけでもなかった。一つ、とても嬉しいことがあったのだ。直接見せるまでは隠しておくつもりだった。だからこれまで言わなかった。しかし、それも遂にここまで来れば我慢が出来なくなって彼に抱き付き、
「ねえ、貴方」と、桃色の掌を彼の胸に擦り付けるようにして、「この前、私、韋編の一冊を手に入れたのよ」
「そうなのか。いつ」
「貴方を洞窟の中まで案内したその夜に。直接ね、見てもらうまでは黙っていようと思っていたんだけど。ね、それから、一緒にいいものも手に入れたの。凄いものよ、私達がこれまで持っていたものと比べても、とても素敵なんだから。ね、早く」
そう言って誘うように駈け出した。
洞窟の手前まで来ると彼女は足を緩めて、入口の両脇の刈り残した長草の片方を掻き分け、大きく自慢するように、
「ほら、これよ!」
そこには大型犬の石像の、真新しく染みの一つも付いていないものが、一つぽつねんと鎮座していた。ピンと立った耳、射るような目付、引き結んだ口許の。胴の造り、脚の肉感はどうだろう、今にもこちらへ飛び掛かって来るような。毛並みまでも風にそよいでいるようだった。だが、これほど精巧な像だというのに、頭部だけは鑢で磨いたようにつるつるとして、成程よく出来た彫像ではあるものの、実在する犬種とは思われぬ。
米彦はこんな頭部だけ毛のない犬など知らないはずなのだが、それでもどこかで見たような気がしてならなかった。
「もう一つあるの!」
彼の惑いも気付かずに、火照った頬を輝かせ、もう一方の草を掻き分けて見せた。寸分違わぬ兄弟犬がそこにあった。
うっとりとして犬の頭を撫でながら、
「ねえ、見て、これよ・・・・・・。素晴らしいと思わない?」
返事も待たずに、
「石頭狗って言うのよ・・・・・・。ほら、前にちょっと、宝具って特別な道具があるって言ったでしょう? これがその宝具。・・・・・・それとも宝貝と呼ぶべきか知ら」
ふふふ、と笑い、
「いいえ、正確に言えば、これらは一種の神よ。付喪神はご存じでしょう、それなら無機物が神になっても可怪しくないでしょう? それから式神もご存じでしょう、それなら神が人に使役されても可怪しくないわでしょう? ――して、見ていらしてね」
小石を拾い、放り投げた。
「行け! ちょうでん、ちょうらい!」
小石が地面に接すると見るや、爆音が響き、それと共に濛々とした土煙が上がった。
――深沈とする。
米彦はよろけ、手を突こうとしたのだが、そこに支えがなかったために泳いでしまった。石像がなくなっていた。像の下で押し潰されていた草を見ている内に聞こえてくる紗仲の声、
「戻りなさい、晁田、晁雷」
土煙の向こうから、のそりのそりと現れる、二匹の大犬。それらは確かにあの石像だった。あの石像が生き物のように動いている。全くの石に見えた体毛も、今では茶色く、動きに合わせて靡いている。そして頭部には、よく磨かれた石の仮面を被っていた。
紗仲は大きく開いた目をキラキラさせて、
「ご覧の通りよ、見た? 見たでしょう? 主人があの子達の名前を呼んで石を投げると、その相手を攻撃するのよ。速度たるや正に神速! 神だからね」
諸手を広げて犬を迎え入れ、紗仲は一匹を抱きかかえ、猫可愛がりに可愛がった。一息吐いて、
「この子達のご主人様は私」
抱かれた一匹が彼女の肩に前脚を掛け、顔を嘗めようとした。
「あ、やめ、晁田!」
と、避けようとしながら嬉しそうにした。もう一匹は胴を彼女の体に擦り付けて、匂いを嗅いでいた。
「それでね、米彦さん、この子達には貴方のこともご主人様だって教えておいたわよ」
彼らの名を呼びながら、顎を撫で、手を嘗められて、きゃあきゃあと喜んでいた。その様子に米彦は、
「おい、こいつらって、もしかして・・・・・・」
「なあに」
「この犬って、もしかして、あの、杉田さんの犬じゃないのか」
あの暴力団の、目撃者もなく惨殺された、一匹などは胴を立てに裂かれていたという。一面血の海、掻き切られた首は未だ見付かっていないらしい。
「ええ、そうよ」
と、犬を遊ぶのを止めはしないで。
「そうよって・・・・・・。それが、どうしてここにいるんだ。だって、殺されたんじゃ。それに、その、つまり」
口籠る。紗仲は笑いながら事もなげに、
「だって、この子達はこういう法具だもの。持ち帰って直したの」
言葉が出ない。
「今回手に入れた韋編には、こんなおまけが付いていてお得だったわ」
「つまり、・・・・・・やったのはお前か」
「杉田さんの家から持って来たわよ」
「殺したのはお前かと聞いているんだ」
「いったん首を切り落としたわよ」
「それは、殺したってことじゃないのか。それに、杉田さん、可哀想だったじゃないか。やらなくたって分かるだろう、それくらい。それに、杉田さんの家に言った時に、お前が泣いていたのは嘘だったのか」
手を休め、色のない眼を細くして、
「私だってつらかったわ。あの人、いい人だったものね。とても残念。だけど、仕方がないもの。あの人の家にあって、この子達がそうだったんだもの」
「それにしたって・・・・・・。それじゃあ、杉田さんと知り合いになったのは、この為だったのか」
「当初の目的としてはそうね。危険な犬を手懐けておきたかったし。ま、手懐けるのは失敗したけど」
「そんな、可哀想に」
犬は二人の主人を見比べて、そして遣る方なさそうに紗仲の掌を嘗めた。
「だけど、せめて、それなら、こう言ったらなんだけど、こいつらが、お前の言うように、神で、道具であったとしても、せめて、こいつらを家族として可愛がっている杉田さんが亡くなってからでも良かったんじゃないか。そうすれば、少なくとも杉田さんは死ぬまで家族と一緒にいられて、悲しませずに済んだのに」
「いやよ、そんな人が死ぬのを待つような真似は。それにね、米彦さん、韋編を集めているのは私達だけじゃないわ。杉田さんの家にあったのを狙っていたのもね」溜息を吐き、「何度も私が急用だって貴方達と別れて知っているでしょう。この山だって、何故か知られて探られているのよ」
「それは、お前から聞いた」
「そうね。ね、米彦さん、気付いている? 気付いているわけはないけれど。今も奴はこの山にいるわ。ずっと朝から嗅ぎ回っている。探知網に引っ掛かりながらね。単に気付いていないのか、武闘派なのかは知らないけれど。戦うつもりで誘っているなら、一体どんな武術や秘術を身に付けているやら。・・・・・・ねえ、どんな事でも出来るようになる叢書だもの、何をしたって集めようとするわ。誰だって。私だって」
「・・・・・・それは、つまり、誰かを傷付けてもか」
「貴方・・・・・・。晁田、晁雷、お座り」
犬達は従い、座った姿勢で米彦がここに来て初めて見た時と同じように石像になった。
「ま、結果としてはそうなったわね」
「分かっていただろう」
紗仲は大袈裟に溜息を吐いて見せ、
「一体どうしちゃったのよ。それとも、私も貴方くらいの年齢まで記憶を取り戻していなかったら、こうだったのか知ら」
「こうだったとは、どういうことだ! こんなことをして、お前は、おかしい」
「こういうものよ。・・・・・・いい、貴方、感傷に酔って大局を見誤らないで。何か、大望を成すならね、私情なんて、個人的な感情なんて、そんなもの、捨てて然るべきよ」
「そんなことは、ない、だろう」
苦々しく、うんざりしたように、
「今の貴方には、まだまだ、何もかもが足りていない。覚悟も、大願も、知恵も、力も、意志も、精神も、全てを失ってしまっている。私の知っている貴方じゃない。ただ記憶を取り戻していないってだけで、こんなになってしまうのか知ら」
「紗仲!」
「とりあえず今は貴方と喧嘩をする気はないわ。彼奴がいて、私もここにいる。折角の機会だもの。倒しておくに如かないわ」
紗仲は両目を見開いて、
「昨日の崖の、ちょっと上あたりね。丁度いいわ」
跳躍し、剥き出しの崖に沿うようにして、これまでにない速度で飛び去った。
米彦は地面を殴り、暫く蹲っていたが、彼女を追おうと草原を駈け抜けようとした。
寄り添い合った二つの犬の石像が、薫風を浴びて草間に隠れた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「クソ、どこにある!」
この数日間、日常の雑務を終えるとすぐに此処へ来、深更になるまで探し回った。如何に万巻韋編の法力を得た侵入者であっても、全感覚を鋭敏にしながら山中を歩き続けるのは疲れも溜まるものだった。
――しかし、
深呼吸をし、気を落ち着けて、ニンマリ笑った。
――この山には随分と溜め込んであるようだ。誰だか知らぬが、せっかく集めてくれたのだ、見逃す手はない、その見返りに比べれば、この程度など、苦労ではない。
茂みを蹴り分け、手掛かりになるものがないかどうか、ジッと睨んだ。
ここだって、何度も探した。文字通り草の根掻き分け、蜘蛛の巣だって蟻の巣だって、どこにあるのか把握している。だが蛇の巣だけが見付からない。
目前、空中に法術で狐火を灯した。
――いっそ煙で燻してやろうか。
万巻韋編が燃えることはないだろうが、火事を恐れて山の主が逃げてしまえば元も子もない。転居の途中を捕まえられれば良いのだが。捕まえられる保証はなく。
火を消し、ハンカチで額を叩き、胸元を扇いだ。
「危ないわね。火気厳禁よ」
その声に、はっとして振り向いた。そこにいたのは、
どろどろとした敵意を発し、直立した樺に背を預け、白衣の女がこちらを眺めていた。口元には薄ら笑いを浮かべつつ。
その表情がふっと消え、紗仲が左腰に拳を当てると、ばっと水飛沫が吹き上がった。右手には水の滴る氷の刃が握られていた。そのまま切っ先を上げるのでもなく、下段に構えるのでもなく、ただやる気なく、脱力した腕の延長として、だらりと下に垂らしていた。もう一方の手を上げて、親しい友人に対するように、
「こんにちは、高緒さん。奇遇ね、こんな所で会うなんて。何か探してらっしゃるの?」
侵入者はまじまじと紗仲を眺めていたが、「そりゃそうでしょうね。早かったじゃない。待ち侘びたわよ」口の中で呟いた。
「こんにちはったら。可怪しいわね、声が届いていないのか知ら。ね、高緒さん、聞こえている?」
言葉を掛けて無防備に歩み寄る紗仲。戦闘態勢など取っていなかった。気迫というものもない。ただ無気力に、しどけなく、流れるように足を運んでいるだけだった。敵意など感じられなかった。
対して高緒は身構えた。間合に入られれば前後左右どこへも咄嗟に避けられる姿勢を取っていた。はずなのだ。だが気が付けば紗仲は既に目前にいた。刀身の充分に届く距離だ。
紗仲の腕が鞭のように跳ね上がる。
「チイッ」
高緒は反射神経だけで避けた。だがそれは正に間一髪、水気を発する切っ先は、こめかみを掠め、彼女の髪をざんばらに散らした。
――いつの間に! いや見えていた!
紗仲の虚を突いた攻撃には二つの技術が組み合わされていた。
第一には特殊な足の運びである。緩やかな動きに見える一歩一歩が、その実長い距離を進んでいた。動きと距離との差異により、高緒の感覚は自ら知らずして混乱していた。そしてそうした場合、人は距離感よりも、見ている相手の体の動作、その速さこそを信じ込む。錯乱させられた高緒の感覚からすれば、刀の払われた瞬間には、そこまで近付いていないはずだったのだ。
だが、それのみならば韋編なる超常の知識を求める高緒である、所謂第六感により、裕に避けられたはずである。問題は第二の技術だ。高緒の優れた直感、もしくは俗に言う心眼は、僅かな殺気や覇気、気迫や敵意といったものを捉えることが出来る。最初に紗仲を目にした時、高緒は相手の強力な敵意を感知した。それは次の間に紗仲が気迫を消滅せしめても未だ心眼に残像として残っていた。次第に歩み寄って来る際であっても同様だった。目前にまで迫っていた時でさえ、高緒の心眼、もしくは感覚は、紗仲の位置を初見の場所に捉えたままでいたのである。
熟練した戦士の習いとして、彼女は肉眼よりも心眼に重きを置いていた。これこそが高緒をして危うきに置いた原因であった。紗仲によって危機に晒されたことこそが、彼女が優れた武芸者である証左となった。
それにしても恐るべきはこの相手の超感覚を逆手に取った達人殺しとでも呼ぶべき兵法だ。これは室町の剣豪、愛洲移香斎に端を発する陰流の水脈を引き入れたものであったが、詳細をここに記すべきや否や。今は割愛する。
高緒は敵の初手を受けて総毛立った。が、想念に浸っている暇はない。高緒の頭上へ向かった剣先が、肩の動きと手首の返しによって四半円を描き、初発の勢いを保ったままの二の太刀が横一文字に振るわれた・
深い踏み込みと相俟って加速度の増した胴薙ぎを、後ろ飛びで辛くも逃げた。
息吐く間もなく襲って来る三の太刀、四の太刀。後退する高緒に反撃の糸口はない。途切れることもなく、静止の瞬間もなく、矢継ぎ早に繰り出される五、六、七。
だが果たしてこれは、そもそも一、二、三と別けて数えるべきものだったか。刀身が高緒の身に迫った回数が十五を超えても動きの流れが止まらないのだ。一の太刀から十七の太刀まで、攻撃は一つの流れであった。それが二十に至っても、一度も剣筋に角が立ったことはなく、二十四から二十五へ移る際にも切っ先は止まらず、旋回して方向を変えた。勢いが死ぬことなど一度としてなかった。これらは全て一振りの途中だった。これは手首の返しによって向きが変わっているだけの、初太刀であった。
高緒は何度か法術によって眼から火焔を飛ばした。が、それらは悉く刀身の発する水気によって掻き消された。
打ち込みを避けるのは常に限々、距離など取れない。
紗仲のペースに呑まれていた。追い込められ、追い詰められ、いずれは王手。このままでは結果は一つだった。
高緒は両手を組み合わせ、素早く印を切り結び、寸勁と共に気合を発した。
掌底から、鮮紅の火柱が轟と伸びた。太さを増して、紗仲に真正面からぶつかった。
後ろへ跳躍して距離を取りつつ、数秒間、炎の車軸を浴びせ続けた。
寄っては来ない! 次の太刀はない!
安堵と共に更に火勢を強くした。このまま骨まで炭にしてやる!
法力の全てを注ぎ込んでも、蒸発させて・・・・・・。
はっと気が付く。相手の姿は炎の陰に隠れているが、その頭上に濛々と上がる水蒸気。
思わず緩める。
すると聞こえる風を斬る音、いや見える! 木漏れ日を反して光る剣先! 縦横無尽に走る太刀。見よ、彼女は水刀を以って炎を斬り、その熱までも冷気で遮断しているのだ!
炎は弱まる。次第に現れる彼女の全貌、靡く黒髪、真白いドレス、焦げ一つさえ、高緒の炎は紗仲にどんな傷みも与えなかった。
高緒の頬に伝っていたのは、彼女に浴びせられた刀身からの水であったか、それとも自身の汗であったか。
火炎の放射が途切れるや、再び紗仲は詰め寄った。眼は慈眼のように半ば閉じ、存在感は滅却していた。それは自ら動く無機物に他ならなかった。入力された目的に向かって途上の障害を打ち払う、自動運動そのものだった。
――だが、距離は取れた。
高緒は汗水でびっしょり濡れた衣服の襟口を鷲掴みにして一気に引き裂いた。胸と腹とが陽光に晒される。彼女は自らの喉元に手刀を差し込み、縦に割った。肉はもちろん胸骨までも、割腹の妨げになっていなかった。彼女の胴は綺麗に縦に切り裂かれた。
この行動には紗仲も足を止めざるを得なかった。自動運動はここで終わりを告げてしまった。彼女の肉体に意識が戻った。驚きに目を見張った。
紗仲の気配が現れて、一ヶ所に留まり動かないのを感覚しつつ、高緒は腹から手刀を引き抜くと、血に染まった自らの半裸体を抱きかかえ、側筋背筋に力を入れた。めりめりと音を立てて、彼女の胸腹は展開して行く。どうした訳か、新たな出血はない、既に出た血は早くも黒く乾いていた。
紗仲の肉眼は、相手の腹腔に捉えられた。高緒の腸は露わであった。いやそれだけならば未だしも良い、今は腕に隠れているが、覗こうとするなら彼女の心肺までも見えただろう。それでは、それらを覆う胸骨はどこにあったか。
腋を通り、背にまで回り、肩甲骨の延長として、それらは一対の翼と化していた。肋骨を骨とし、皮肉を羽とした、どす黒い翼を高緒は背中に負っていた。
紗仲が鉄錆臭さに噎せる中、高緒は羽搏き、宙へと舞った。
「化け物か!」紗仲が叫んだ。
黒い影から応える声が降り注ぐ。
「私は人間よ。残念なことに。貴女と同じように」
「人に翼が生えるものか」
「らしくないわね。貴女の知らない知識があることくらい分かるでしょう? それを実現する技術を私が身に付けているだけ」
「邪法か」
「意外と未熟ちゃんなのね。知識や技術に正邪はないものよ。それにね、仮に邪法であったとしても、清濁併せ持てなければ、叢書を集めたって無駄なだけ。そんな貴女じゃ全巻揃えたって意味がないし、揃えられるとも思えないし。だから、どう? 大人しく渡してくれない? そうすれば、全部忘れてあげる」
「ぬかせ、人外。その様だから男一人も落とせない」
「なにを」
「言葉の通りよ。私の男も横取り出来ないような女が、どうして私の韋編を手に入れられると思うのか」
紗仲は胸元から羽衣を取り出して肩に掛けると飛び上がり、真一文字に有翼人へと突き掛った。
高緒は剥き出しになった腹の中に右手を突き込み、そこから絢爛とした黄金造りの素環頭太刀を引き抜いた。その古の直刀にて風裂き迫る紗仲の突きをいとも容易く打ち払う。
打ち払われた勢いを以って紗仲はその位置で宙返りし、そのまま高緒の足元を薙ぐ。
だがその攻撃も地上であればこそ意味を成すもの、飛翔している高緒には、少し腿を上げるだけで避けられてしまった。体勢の崩れも僅かな隙も、空中の彼女には生じない。高緒は目の前の紗仲の足首を掴んで大きく振り上げ、地面へ向かって投げ付けた。
辛うじて受け身こそ取ったものの、紗仲は肩の関節、腰の番が外れたように痛むのだった。その上、凄まじい勢いからの接地のせいで、首の筋まで傷めてしまった。
「つ、つ」
顔を顰めて立ち上がると、眼前には数多の光輝が降り注ぐ。咄嗟に転び避け、回り受け身の要領から再度起き、横へと走った。後を追うように次々と突き立つ無数の吹き針。それが一本の樹の根元から幹を上へと縫って行った。
針の煌めきが梢にまで達した瞬間、紗仲は跳躍し、重力を背中に受けながら、高緒に正面から打ち掛かる。
高緒は剣で発止と受け止め、
「刀で剣と打ち合って、敵うつもりでいるのかよ」
脾腹を蹴り上げ、鳩尾をどうと蹴飛ばした。紗仲は呻き、飛力を失い落ちて行く。
――地に着く頃には身二つだ。
自由落下の速度を超えて、高緒は剣を八双に構えて追い縋る。
――吹き針ならば避け得たろうが、胴を狙って蹴るんだもんな。
紗仲は朦朧とした眼で距離を縮める敵を見る。
――高緒奴が来る。だが一秒の時間はあるか。少し休んでおこう。体を休めて。休憩して。
八カウントまで寝転がっているボクサーのように。紗仲は距離を目測しつつ、行動を起こす時機を計った。
そろそろか。
高緒の一太刀は轟音を発し、紗仲の白い残像を斬った。剣風凄まじく、脇の小枝が音を立てて折れた。すぐに身構える。空振りの隙を狙って何かが来るかと危惧したのだ。
だが何も来ない。紗仲は逃げていた。
この刀で相手の剣と打ち合っても勝ち目はない。そう判断した彼女は他の得物が使えるもっと広い場所へと誘おうとした。自分は身一つで飛べる。高緒は飛ぶのに翼を使う。木立の狭い合間を縫って行けば、相手は遠回りをせざるを得ず、追い付けまい。
目論見は半分外れ、半分当たった。紗仲が通った幹の間を、高緒は同じように擦り抜けた。広げていればぶつかる翼を、通過の直前折り畳み、慣性飛行に切り替えていたのだ。結局のところ、紗仲は潜り抜けられて高緒だけが通れない場所はなかった。
しかしその手間、翼を開閉する一回一回の小さなロスが次第に積み重なり、紗仲は高緒を引き離していった。高緒は飛ぶのに精一杯で、追いの一手しか打てなくなった。
目的の場所に到着した。林立する木々は途切れ、周囲三百歩ほどの開けた空間に出た。
紗仲は地に足を着けるや左手一本で納刀し、同時に右手でうなじを撫でて、首に巻いた黒革から丈六尺の長柄の大鎌を引き抜いて、腰を入れ、がっしりと構えた。
最後の樹間を抜けて高緒が滑空し、迫る。
――刈る!
刀は畢竟、直線の棒に過ぎない。防がれればそこで止まり、刀身が相手に届くことはない。だが鎌であれば刃は鎌首で柄から曲がり、柄を止められようとも切っ先は相手に届く。「刀で剣と打ち合って敵うものか」と高緒は言ったが、鎌であれば十二分に適う。敵うどころか、こちらが有利! 次の一合こそが勝機!
しかしこれは高緒の能力を失念し、技量を見誤った計算だった。
石突の延長線を相手の眉間に合わせて大きく構え、高緒が射程に飛び込んだその刹那、鎌は真空音を発しながら半円を描き狙い違わず敵の首根に襲い掛かった。
紗仲が誤算に気付くのは次の瞬間である。
高緒は受けた。先の刀に対すると同じく黄金の古剣で。かち合ったのは切っ先と切っ先、刃は相手に届かない。紗仲は悟る、鎌の欠点を。鎌が鎌たる所以の刃と柄とが組み合わされた箇所は、刃を止められた場合、応力が集中して容易に折れる。だがこれだけならば元から知るところ、それだけならば元より強化は施してある。
しかし高緒は炎を自在に放出せしめる。つまりは――、
高緒は剣に火焔を纏わせ、炎の蛇は鎌を這った。それが鎌首にまで達すると、巻き付き、締め上げ、その鎌首を焼き切った!
高緒の足が顔面に飛んで来る。顎を上げ、かろうじて避けた。
飛翔する翼人は通り過ぎ、向こうの林の前で旋回し、二撃目を狙って襲い来る。
紗仲は刃の取れた鎌を見て舌打ちする。大鎌でも彼奴には敵わなかった。刀と鎌との二刀流も瞬時脳裏をよぎったが、鎌は長柄で刃は重く、片手では扱い切れない。鎌の柄を投げ捨て、抜刀、正眼、
襲い掛かる黄金の剣と炎の放射を、刀の峰と水の飛沫であしらいながら、反撃の機会を待つ。
十合、二十合、実力伯仲、決め手はなく、体力も尽きず、いつとも果てぬ剣戟の音、林間を騒がせ、天上に響く。
両虎深山に覇を競い、双龍宝珠を争う時、天地鳴動し風雲湧き立つ。ぽつりぽつりと移ろい易い深山の空は狐の嫁入り驟雨を運んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆
銀の雨脚は斜に走り、枝葉に撥ねて靄を編む。よく晴れた空の日光は明るく、景色は白金に光り輝く。鮮緑の木々が額縁となり、二つの影がぶつかり合っては離れ行き、再び相打ち縦横に流れて躍動する一幅の光景を目にすれば、たとえそこに遭遇したのが誰であっても足を止めざるを得ないだろう。
空中から力強く襲い掛かる翼を得た黒虎が高緒であれば、地上にて雲に似た雨霞に乗りつつ鎌首を反し迎え撃つ白龍は紗仲であった。
米彦は暫しその光景に見惚れていた。が、
――こうしている場合じゃない。
竦んだ脚を叱咤して、絵巻の世界に踏み込んだ。
吹き荒れる殺気、顔面を打つ。息が詰まる。叫ぼうとするも、空気が喉を通らない。喘ごうとするも、ただ気管が引き攣るばかり。呼吸も出来なくなっていると気付くのは次の瞬間。ここは山林、驟雨の中ではなかったか。まるで深海、極寒と水圧に潰されて、魚のように口を開閉するばかり。
火花が目を焼く、旋風が頬を切る。そんな感覚が身を刻む。恐怖が全身に満ち満ちる。吃音が漏れる。
◆◆◆◆◆◆◆◆
――揃った!
紗仲はこの時を待っていた。高緒の軌道がぶれ始めたのだ。幾ら彼女が法術を身に付け、常人を遥かに超える体力を有していると言ったとしても、こちらも同じ、集中力も気合の張りも同程度なら、可能な限り動きを少なくしている紗仲こそが有利であった。
高緒の体には疲労の兆候が表れていた。しかし真に集中している本人はその変化に気付かない。一合一合、最大の力を振り絞る。
紗仲は大股を開き、大地を踏み締める。次の合こそ勝敗の決する時。瞬時気迫は没滅する。次の一振りに、その後の隙もあらばこそ、全てを賭ける気概であった。
が、果たしてそれは正解であったか。
目標への遮眼帯が外れたことにより、周りが見えた。視界の端に茫然と佇む米彦が映った。
「な」
思わず鎌を取り落とす。
◆◆◆◆◆◆◆◆
泡を噛み、ぎろりと剥いた両目には敵たる紗仲の大きな隙が見えていた。
体は前へ進もうとするが、心は惑う。
隙にしても余りに大きい、誘いの隙でもありはしない。
武器さえ落とした仇敵の視線を追った。
米彦を見付けて息を呑む。
援軍か否か判別もせぬ間に、
即座に反り、林の中へと姿を消した。
◆◆◆◆◆◆◆◆
高緒の気配が遠退いて行くのを感じつつ、紗仲は余りにも無防備な米彦の姿を茫然として眺めた。




