③ 苦界にたゆたう――3
乙女は地の底からも救われて、友人達に気遣われ気付けば懸想の相手と二人
憂き世に倣う色悪の、岐路に立っては救いを願う
「山吹はどうしたんだ」
和也はどちらに対してともなく問い掛ける。不吉な予感が声を震わせていた。
その言葉に高緒は震える指で、恐る恐るとガードレールの向こう側、緑の奈落の底を示した。
深沈とした深山の静まり。鳶が上空で輪を描く。妙に近くに感じるのは、七合目まで登ったからか、それとも真夏の日射の激しさからか。
焼けそうな日差の下で彼らは震えた。崖の斜面は目視ではほぼ垂直、草葉、枝葉に乱れはない。一体誰が、ほんの数分も経たぬ前、人が落ちたと思うだろうか。異常のなさが、何事もなかったかのような風景が恐ろしく、夢魔に囚われているのとも。
「冗談だろう」
和也の言葉に応える声はない。
嘘だと言う方が自然であった。事故の現場と思うには余りに静かで平和であった。何の騒ぐこともなく、ただ八重は、自然の日常としてそこに呑み込まれただけだった。
光琉はスマホの画面を睨んでいた。当然圏外である。どこのキャリアでもそうだった。
「急いで、駅まで戻って救急隊を呼ばないと」
朱莉が虚ろな声でそう言った。
「そんな時間あるの?」
ようやく我を取り戻した高緒が、色を失った目で、
「八重ちゃんが、どうなってるのか分からないのに。少しでも早く、助けないと・・・・・・」と、きょろきょろとして、「降りる道はないの?」
「ここにはないみたいだが。・・・・・・」と、和也は応える。
「じゃあ先にはあるの?」
「分からない」
「だけど、助けに行かないと」と、和也の手を取り、「先へ、探しに」
狂乱はヒロイックな色彩を帯びて伝播した。この場の誰もが救援を呼ぶのは念頭から離れ、自分達で探索しようと崖の下へと降りる道を探しに行くべく動き出そうとした。普段は冷淡とも言える冷静さを持つ光琉でさえもその気になっていた。その時、
「待って」
紗仲の声だった。和也達が着いた時と変わらぬ姿勢で崖の下を覗き込んでいた。
「米彦さん、皆をここに待たせておいてね」
それだけ言うと返事も待たずに、
ガードレールに片手を置いたまま、ふわりと地を蹴り、緑の闇へと飛び込んだ。
鮮やかな投身だった。止める隙もない。彼女の白い影が、霞のように消えてしまったようだった。米彦が腕を伸ばしても触れるものはなく、覗き込んでも、はや影もなく。
彼女の名を叫んだ。木魂も土へと溶け入った。
他の面々は愕然と、周章狼狽した。八重と紗仲の二人が、それも一人は目の前で断崖へと転落したのだ。自ら飛び降りるとは想像の外、喪神して倒れ落ちたのだと認識がすり替わった。
一刻の猶予もない。
「おい、早く!」和也は米彦の肩を叩いた。「下る道を探さないと!」
呆然としていた米彦だったが、その言葉に正気を取り戻し、
「待て!」
その大喝は木陰の鴉を飛び立たせた。
「待てって。探しに行って、お前らまで事故に遭ったらどうする。遭難したらどうする。しかもその時は、事故の場所も分からないんだぞ。ここで待って、紗仲が助け出すのを待とう」
「待つと言っても、その彼女が落ちたんだ」
光琉の冷ややかな声に被せるように、高緒が息を飲み込みつつ、
「間に合わなく、なったら。重症かも知れないのに」
「紗仲なら大丈夫だ。山吹を助けに行ったんだ。あいつなら、必ず助けられる」
その落ち着いた様子に友人達は、焦燥は残しながらも、狂乱は静まった。口を利く者、動く者はいない。納得出来ないまでも従ったのは、動揺など一抹も感じられない、彼のさも当然のような自信の故だった。
じりじりとしたものが背後から注がれているのを感じた。だがそれ以上に米彦は、彼女に対する信頼と取れる言葉を発した瞬間、とてつもなく冷たいものが背筋に伝わったのを感じていた。俺や山吹、高緒は知らん、しかし、紗仲ならば大丈夫だ。彼女は、こちら側の人間ではない。
それでも一秒一秒が重かった。絶え間ない重圧が石抱きの苦悶を味わわせた。この間ほど時間が連続しているのだと痛感したことはなかった。少し後にも続くだろう、更に後にも続くのだろうか。延々と続く時間を両脚の上に置き、神経を痛め、心神を消耗していった。息苦しく、いつ果てるとも知れぬ。永劫と呼ぶには大袈裟だろうが。それでも当の本人には同じことだった。
彼女の姿がいつまで経っても現れないのがじれったく、待ち遠しさや心寂しさ、脳裡に生じ始めた不安に悲しさが混じって腹まで立ってくるのだった。今か未だか、どうして戻って来ないのか。紗仲ならば一飛びだろうに。一体何をやっているのか。唇を嚙み締めた。
米彦の自信がどこから来るのか知らぬ和也は痺れを切らし、
「ここにいても無駄だ。探しに行くぞ」
「だから待ってろって」
そんな言葉をもはや聞いてはいられない。和也は黙って背を向けた。
高緒はその後ろについて行きつつ、振り返り、
「綾幡くんも探しに行こうよ」
光琉達もまた、米彦を一瞥し、それから二人の後を追う。
「待てよ!」
彼女の頼みだった。それすら自分には出来ないのか。友人達を引き留めようとした。記憶に残る彼女の姿、彼女の声、彼女の気配。それらを感じ、
待って。
そんな声が脳裏に響いた。
倫子が両目を見開いて、米彦を振り返った。彼も茫として見返したが、その視線は噛み合わず、彼女の目は彼の後方へ向かっていた。光琉も朱莉も、倫子の動作に気付かずに、和也達に追い付こうと歩みを速めていたのだが――
「待って!」
米彦の耳にもはっきり聞こえた。ガードレールに腰を押し付け、声の元へと体を屈し、目を凝らせば、
草葉が揺れて、白い手が黒い土を掴み、紗仲の顔が現れた。次の瞬間には米彦の視界は急にぼやけて、水面を通して見るように、彼女の目鼻立ちがはっきりとはしなくなってしまったのだが。
紗仲は八重を脇に抱え、胴を地に付け、身をよじって這い上って来た。手には土を塗り、乱れた髪を緑で飾り、唇は華麗なほどに真紅に染まり、薄く霞んだ彼女の瞳は夢想的とも思われた。
米彦は這い蹲ってガードレールの下から腕を伸ばし、どれほどの意味があったかは知らないが、彼女が登るのを助けるべく、肘を掴んで引き上げた。
八重を静かに地面に横たえると紗仲はそのまま座り込んだ。脚を投げ出し土泥に汚れて放心する彼女の姿態は、米彦が見る最も美しい姿であった。溢れる感情を抑えきれずに抱き締めると、ほのぼのと口の端が明るくなって、
「私は大丈夫だから、皆を呼んできて、ね」
◆◆◆◆◆◆◆◆
随分と先まで進んでいた和也と高緒を連れ戻す必要があった。光琉が任を受け、米彦と朱莉は転落した二人を気遣ったが、紗仲は何もなかったかのように八重の介抱を始めた。木陰で行われたそれに中学生が手伝えることはなく、ただただ彼女の手際に感心していた。ただ一人、倫子だけは身動きする余裕すら持てずに八重の様態を覗きもせずに、紗仲の凛とした横顔だけを見詰めていた。当たり前のことだった。自ら崖に飛び込んで、無事などころか助け出し、応急処置まで行っているのだ。驚愕せずにはいられないだろう。
光琉が和也と高緒を連れて戻って来た頃には一段落付いて、朱莉が紗仲の額の汗を拭いていた。暫く安静、そう彼女は指示をした。
「大丈夫よ」
と、断言した後、慌てて付け足し、
「見たところ怪我もないみたいだし、多分・・・・・・」
和也は八重の傍にしゃがみ込み、血色の良くただの寝顔としか見えないのに安心するやら心配するやら、どんな感情を抱いているのか自分でも分からないまま、
「本当に、大丈夫なんだろうか」
と独り言ち、
「そうだ」と紗仲を見返して、「紗仲さんこそ大丈夫だったの。というか、どうしてあんなことを・・・・・・」
「ええ、いや。その。思わず咄嗟に」
口の中でごにょごにょ言っていたが、その時の光景を冷静になって思い返すのならばあの投身は衝動的というには程遠く、明確な決意を持っていたと分かったはずだが、騒乱直後の熱に浮かされた状態ではいっかな気付くことはなく、
「そうか、勇気があるんだな」
と、和也は深く考えることも出来ずに呟いた。
「だけど危ないじゃない!」
高緒が叫んだ。
「無事だったから良かったものの。あなたまで、どうにかなっていたかも知れないのに」
悔し涙を湛えた両目に猜疑心が溢れ出て、
「皆で、降りられる道を見付けたら、あんな、危ないこともなかったのに。皆で探せば、心配しなくて済んだのに・・・・・・」
紗仲は妙に冷ややかに、
「その心配って、私にもしてくれるの?」
「紗仲ちゃん!」朱莉が青褪めた。「それは非道いよ、確かに、綾幡くんのことで嫌な気持になってるかも知れないけど、友達でしょう? 朝に握手をしたじゃない」
「そうね。高緒さんが、私達を尊重してくれるなら。友達になれるかも知れないわね」
「それは・・・・・・、私は、もちろん・・・・・・」
「もちろん何? 嘘は吐かないでね」
常人ならぬ紗仲の眼力に射竦められて、高緒は震え、知らず知らずに己の身を抱いた。恐れと屈辱が芯の底で蠢いて、今にも叫び出しそうだった。
倫子は姉を宥めたかったが、凍り付く山気が手足を固めた。
静謐と呼ぶには荒々しい静寂が流れた。咳一つ許されぬ緊張の間、物音一つ聞こえなかったが、心地良い眠りは妨げられずにいられなかった。ただ寒く、背筋に染み入る冷気が樹下に満ちた。
その寒気に体が震えたか、
一つ呻いて、
八重がぼんやり目を開けた。
紗仲らの対立に耳も貸さずに八重を見守っていた和也が歓喜した。それを聞いて友人達も、彼女の周りに集まった。安堵のあまり泣き出した朱莉の肩を光琉が抱いた。意識を取り戻すや否や身を起こそうとする八重を紗仲がとどめ、もう少し横になっていた方がいいのではないかと柔らかく押し戻した。
横になった状態で、
「え、なに、どうしたの。どういうことさ」
と混乱している八重に、和也が、
「お前、崖から落ちたんだぞ。何ともないのか」
「なにそれ」
と、ちょっと思案顔、
「そう言えば・・・・・・。そうだったの!」
と驚いてから、
「ああ、そうか。そう言えばそんな気も」
まるで他人事。
「覚えてないのか。そんなに強く」
と歪む和也の顔に慌て出し、
「いや違う! 急なことだったから! ああ、そうそう、そうだったねえ」
と随分余裕のある様子。
「何ともないよ」と。「ああ、そうか。そうだったね。・・・・・・なんか、自分でもびっくり。そうだったね、段々と思い出してきたよ。ほら、急に突風が吹いて来てさあ。それでふらふらと、と言うか、ドーン、と?」
「お前、風に吹かれたくらいで転ぶのかよ。危ねえな。ちゃんと飯は食って来いよ」
「食って来たよ! それに、本当に強い風だったんだよ、何か、突き飛ばされたみたいに。藤岡、お前だって飛ばされるぞ。まったく人を」
と喚いていたが、誰かは知らぬが、
「だけど、良かった」
そう言って、しんみりとした調子に。気絶していてここまでの経緯を見聞きしていない八重だけはその調子に合わせられずに、気まずそうに、
「何でもないって」
と起き上がり、元気に見せようとはしゃいで見せたが、とてもそんな雰囲気ではなく、一人浮き立ち、なんだよ、ちくしょう、この空気・・・・・・、私が元気だってんだから元気だろう、ええ問題は私だろう、その当事者が言っているのだ、と不服に思い、・・・・・・と、私のことで心配してたのか・・・・・・、
「本当に、何ともないみたいだから。ありがとう」
それから少しの間は八重のために休憩していたが、あんな事があったのだし、見た目は無事で自覚症状がなくても、早く病院に行くべきだと紗仲が主張し、当然反対する者はなく、山を降りることにした。
◆◆◆◆◆◆◆◆
八重を家まで送って行き、簡単に事情を説明すると彼女の両親は大いに驚き、病院で何の異常もないと告げられても心配は止まず、娘自身が元気だと言い張り駄々を捏ねるのを強いて寝かせ、その様子を見ていたが、本人の言う通り本当に無事なようでもあるし、医者のお墨付きもあるし、また本人が強く希望するので月曜日に塾へ行くのは許したが、代わりに週末はずっと自分の部屋で横になっているよう命じた。
翌日の朝、言い付け通りにベッドで横にはなっていたが、退屈で堪らず、不満の捌け口として朱莉に電話し、愚痴ったところ、朱莉は昨日のメンバーに声を掛け、見舞いに行くことが決定された。見舞客は朱莉を始め、和也、光琉、米彦、紗仲の五人である。山口姉妹も誘いはしたが、彼女の言うには、自分達だって行きたいのだが、この日はどうしても抜けられない、どうしようもない用事があるのだとか。
そう言われた朱莉は、高緒がよく忙しそうにしているので納得したが、この時ばかりはふと気になって、「どんな用事なの」かを聞いたが、「ごめんね、ちょっと・・・・・・」と、はぐらかされて、詮索するのも悪いと思い、姉妹の見舞いの言葉を伝えるだけにし、電話を切った。
さて、山吹宅に到着した見舞客一行。和也は呼び鈴をならした。
玄関が開くと、どことなくおっそりとした細身の中年女性が迎え入れてくれた。八重の母、奈々枝だった。彼女は揃えた指先を頬に当て、
「あら、皆さん、お見舞いに来てくれたの。ありがとう。それにしても、お久し振りね、和也くん、小学校の、・・・・・・五年生の夏以来かしら」
和也は苦笑し、
「よく覚えていますね」
「記憶力はいいのよう。和也くんもすっかり大きくなっちゃって。見違えちゃって。すぐには分からなかった」
「小母さんは変わりありませんね」
「お姉さん・・・・・・」
「・・・・・・」
「お姉さん」
「お姉さんは変わりありませんね」
「そう? うふふ。和也くん、お上手になったわねえ。そんな私はもうお姉さんなんて年じゃないわよう。すっかり小母さんになっちゃった」
「そんな事ないですよ。それで、山吹、あ、八重は上ですか?」
「そうそう。上で寝ているわ。どうせ漫画でも読んでいるんでしょうけど。部屋は分かる?」
「ええ、覚えてます」
「じゃあ、案内しなくてもいいわね。あの子、皆さんが来てくださって、喜ぶと思うわ」
「それじゃあ、お邪魔します。・・・・・・あ、そうだ、小母さん」
「お姉さん・・・・・・」
「おば」
「お姉さん」
「・・・・・・お姉さん、八重の調子はどうなんですかね。その、女医の目から見て、どこか可怪しなところはないか、とか」
「それは大丈夫よう。病院でちゃんとした検査をしてもらっても、何もなかったしね。ただ、変なところと言えば、崖から転落したって聞いたのに、全くの無傷だってことかしら。榊原先生も疑っていたわ。打ち身どころか、擦り傷だってなかったのだから。随分と頑丈に育ったものね」
ほほ、と笑い、
「それじゃあ、こんなところで長話をしていても仕方がないから、早くあの子のところへ行ってあげてね」
「ええ、それじゃ、小母さん、また後」
「お姉さん・・・・・・」
「・・・・・・お姉さん、また後で」
「ええ、また後でね」
ほくほくとした奈々枝に見送られ、廊下を進み、勝手知ったる様子で階段を上りつつ、和也は苦笑いして、
「山吹の小母さんは相変わらずなんだな」
と、朱莉に囁いた。
すると決して通った声でもないのに、遠くの方から、
「お姉さん・・・・・・」
窘める声が聞こえて来た。この地獄耳には紗仲もびっくりだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
八重は律儀にベッドで横になっており、真夏のこととて掛け布もなく、ブランケットを足元へ蹴り押しぐしゃぐしゃにして、腹這になってファッション誌を開いていた。
友人達に気が付くと起き上がって歓待し、しばらくの間取り留めもない会話をした。学校であったり塾であったり駅前であったり帰り道であったり、どこであっても同じようにするいつもの閑談だ。
途中、奈々枝が飲み物を持って来、仲間に入りたそうにしていたが八重に追い出され、目元にうっすらと涙を浮かべた。彼女は娘と同年代の少年少女の友達には自分はもうなり得ないのかと厳然たる年齢の差を思い知らされて少なからぬ衝撃を受けたのだ。寄る年波には医者でも勝てない。とても悲しかった。
彼らが来てから時計の短針が一周もしていない頃だった。朱莉と紗仲は瞳を交わし、互いの心中を知った。別に来る途中でその話をしたわけでもないのだが、友人を思いやる乙女心というものだ。朱莉はさり気ない風を装って、
「私、これから買い出しに行って来るけど、八重ちゃん、何か欲しい物ある?」
「え、別にないけど」
「あ、私も」と紗仲が、「ちょっと買いたい物があったから・・・・・・。米彦さんも一緒に来て?」
「佐倉くんも一緒に。綾幡くん一人に荷物持ちをしてもらうのは悪いから」
などと、朱莉は荷物を持たないつもりらしい。
「そんなに買うなら俺も行こうか」
と和也が気を利かせたが、朱莉と紗仲は声を揃えて、
「「来ないで!」」
と。和也は目に見えてシュンとなり、
「何だよ、来ないでって、二人して・・・・・・。そんなに強く言われるなんて、もしかして俺、嫌われてる?」
悲しむ風情の彼を余所に、
「それじゃあ、佐倉くん」
「米彦さん」
「一緒に」
「買い物」
「「行きましょう?」」
手を握られた男二人は曳かれるままに、あれよあれよと連れ去られた。
出て行く四人を呆気に取られて見送る二人。
「何か、急にいなくなっちゃったね。買い出し・・・・・・?」
「椎名ちゃんも、紗仲さんも、にやにやして。何だったんだ」
気もなく交わす目線と目線。
八重は、はっと気が付いて、彼女らは自分と藤岡を二人っきりにしたのだ、と。轟々と血が体中を巡り、心の臓は早鐘を打つ。
真赤に染まったその顔を見て、
「おい! やっぱりどっか悪いんじゃねえのか! 真赤じゃねえか・・・・・・。まるで火が出るように、・・・・・・というのは使い方がおかしいか?」
◆◆◆◆◆◆◆◆
八重の家を出、竿置駅まで来ると紗仲は米彦を連れて電車に乗って朱莉達と別れた。交通機関を使ってまで、随分遠くへ買い出しに行くもんだと光琉は思い、朱莉に聞いたがにっこり笑って誤魔化された。
それで朱莉に付き添って、商店街をふらふらしていたが、彼女はどこの店へも入らずに、時間を潰しているようだったので、何を買うのか質問したが、うやむや言ってはぐらかされた。何もないなら見舞いに戻ろうと言い出したところで朱莉は慌て、実は見たい映画があったのだと伝えると、光琉は怪訝な顔をして、そのまま彼女に腕を取られてついて行った。
商店街のミニシアターでは題名も聞いたことのない外国のものが上映されていた。ポスターの印象からして、どこかの国の田舎の町を舞台にしたものらしい。横にあらすじの書かれた紙が貼り出されている。貧困層の荒んだ暮らし、そこから抜け出そうと足掻く青年を描いたものらしい。そして、あらすじには書かれていないが、この映画の結末は、主人公の唯一の希望が断たれ、この田舎町に囚われ、人生をこのスラムで擦り減らしていかなければならないものになる。
金を払って入館すると、次の上映開始まで後一時間あった。二人は自販機で飲み物を買い、ロビーの一隅、窓辺に並べられたスツールに腰掛けた。
日曜日の昼前、窓の外では商店街を楽しそうな人々が往来している。休日はまだ始まったばかりだ。
缶コーヒーを傾け、それから朱莉はちらっと光琉の横顔を見た。抜けるような肌をして、鼻筋の通り、唇は薄く赤く、目元は愁いを帯びて、双眸は光り輝いている。眉間にちょっとした険があった。しかしその皺は女に嫌われるものではなく、それどころか、彼の心理を表しているようでもあり、そして彼が肉体を持った人間であることを強調し、蠱惑的な匂いを漂わせてもいた。
なるほど、つくづく眺めても色男だ。――朱莉は思った。初めて見た時からそのように感じていた。だがそれだけだ。彼女は彼を異性として見たことはない。
八重と朱莉が光琉達と一緒にいるようになったのは、八重が、朱莉は光琉に惚れていると思ったからだった。しかし朱莉が八重に言っていたのは、光琉の見た目が格好いいと、芸能人に対するのと同じ感覚で言っただけだった。生身の人間に対するものではない。朱莉はこの勘違いを迷惑にも思ったが、八重の和也への感情に気が付くと、なるほど、そういうことか、と親友の恋路を応援しようと決めたのだった。
――鑑賞物にはいいけれど、男としてはどうだろうね。
しかし、これはあくまでも彼女の感性に従った言葉だ。他意はない。彼女としても彼の噂は何度も耳にしたことがある。同じ学校のお行儀の良い家庭の女生徒は、彼に近付くなと親から言われているのも知っている。
彼だってご近所さんからの評判は重々承知だろう。そして彼はそれを気に病んでいるのだろうか。恐らくは、ないだろう、――朱莉は思った。
光琉の家はこの辺りではちょっとばかり有名だった。そうなった理由は彼の母だが、端緒としては何処になるだろうか。
◆◆◆◆◆◆◆◆
佐倉家は代々狂人の生まれる家系だった。生まれる子供の二人に一人が狂って行った。祖父母の代では長男、次男、長女、三男、次女の内、長男と次女が発狂した。光琉の祖父は次男だった。彼と妻は子供を一人しか作らなかった。それが光琉の母だった。
この時点でも極々近辺の住民から佐倉家のことは知られていたが、この程度はよくある話だ。特筆すべきこともない。だが、その家の一人娘である光琉の母には辛い現実だった。
彼女は高校を卒業すると同時に蒸発した。二十年前の事だ。結果だけを言えば、その五年後、彼女は身籠って帰って来た。
その間に何があったか。
彼女は自分を知る者のいない都市へ、誰にも告げずに出て行った。伝手もなく、仕事も簡単には見付からなかった。住居もすぐには定まらなかった。彼女は美しかった。即金を得られる仕事に手を出した。
その仕事を続ける内に、ある男と知り合った。路上で営業する彼女を見染めた。彼は彼女に住居と、その時よりもよほど割のいい仕事をもたらした。
客は老人が多かったが壮年もいた。未成年に見える者もいた。パーティに呼ばれ、自分と同様の境遇にある女達と一緒に複数を相手にすることもあった。
ある時、一人の客が彼女を気に入った。彼女はテレビや新聞を見ない。だから彼が誰なのかを知らなかった。その客は彼女をより良い部屋へ引っ越させた。彼女は豪華な食事をするようになった。高そうな酒を一緒に飲んだ。
彼女の体には傷が増え、肌から血の流れ出ない日はなくなった。首筋から痣が消えることはなかった。
白かった肌が赤く青く黒くなったからだろう、男は次第に会いに来なくなった。だから彼は彼女が孕んだことを知らなかった。
突然に彼女は部屋を追い出された。身籠っていては以前の仕事は出来なかった。行くところもなく彼女は帰郷した。
数ヶ月後に光琉が生まれた。それから九年後、彼女は死んだ。外から目張りされた部屋での一酸化炭素中毒だった。警察は自殺と断定した。
光琉は母の死を受け入れた。全てが分かった。これが社会だとはっきりと認識した。それならば、自分も社会のルールに従って生きようと決めた。
彼には母譲りの美しさがあった。それは周囲の人々を魅了した。彼には父譲りの嗜虐心があった。それはある種の女達を刺激した。社会への憎悪があった。彼の風貌に影を落とし、深みを出した。
中学に上がる前には既に何人かの女と関係を持ち、可能な限り彼女らを傷付けようと努めていた。何故ならばそれが社会なるものだからだ。自分の行いは社会的に正しいものでしかない。
ただ一つ不安なのは、彼の母が死ぬ間際まで正気を保っていたことだった。佐倉家では二人に一人が狂気に陥る。祖父の代では五人中二人しか発狂していない。母の代は一人しかいないとは言え、ゼロ人だ。ならば、確率から言って、自分が狂う可能性は高い。彼は堪らなく恐ろしかった。救われたかった。その気持が、女達への加虐心を増さしめた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
今はまだ、法で裁かれるようなことはしていない。和也や米彦が逃げ場をくれるからだ。彼らは自分の噂を知っているだろうが、きっと信じていないだろう。しかしそれも潮時か。彼らに迷惑は掛けたくない。自分は社会に従って生きて行く。
そのように思っていた頃、クラスの女子二人が自分達に話し掛けるようになった。和也の幼馴染の八重とその友人の朱莉という。八重の振る舞いからして、この朱莉というのは俺に惚れているらしい。それでは、友人達との別れの記念に、こいつに愛欲の苦しみを与えてから去ろう、そう考えていた。
だが、陰に陽に誘惑してみても全く乗って来ない。秋波を送っても何の反応もしない。この女は馬鹿なのではないか。頭の働きが極端に鈍いのではないか。そう疑ったが、どうやらそうではないらしい。自分に魅力があるのは知っている。幾つもの例で証明されている。俺に求められれば、女は何でもするだろう。窃盗と売春までならもうやらせた。示唆はしていない。眼差しで伝えただけだ。それなのにこの女は、瞳にどんな感情を乗せても靡きはしない。どんな言葉を囁こうともへらへら笑っているだけだ。
頭の悪そうな趣味をして、浮ついた喋り方をしているが、心の底は冷静そのものだ。俺に対する態度もそうだ。愚物そのものの女達と同じようなことを言う癖に、瞳は透き通り、その奥は凍っている。
俺はこの女が恐ろしい。この女は全てを知っている癖に、あえて軽薄に振る舞っているだけだ。この女は社会を知っていて、それでいてなお平然としている。彼女は社会の外に生きている。
俺は躍起になっているのかも知れない。必ずや、この女を社会の内に引き摺り込んでやりたい。この女が啜り泣き、身悶えする様が見たい。そう思って情愛の技巧を凝らしても、この女は何事もなく躱してしまう。是が非でもこの女に社会の厳しさを教えなければ。
だが、もしかしたら、この女は俺を救ってくれるのではないか。この悍ましい社会の外、彼女のいる場所へと連れ出してくれるのではないか。そんなことを思わないでもない。そしてもしも彼女のように生きられたなら、それは素敵なことだろう。
俺はこの女に惚れているのだろうか。いや、そのような話ではない。そうではない。こいつは俺にとって、女ではない、何か別の存在だ。女などという俺という者に憐れみもし、惹かれもし、惑わされもするような容易い相手などではなかった。
俺には彼女が贄にも天女にも見えている。地獄にも落としたい、ここから救い出しても欲しい。手を取って引き上げて欲しい、手を取って引き下ろしたい。
しかし、もしも俺の誘惑が成功したら、どうなるのだろう。こいつに俺を愛させることが出来たのならば。
きっとこれが最後のチャンスだ。彼女が俺を受け入れてくれるかどうかで、俺の人生は全く別のものになる。彼女が俺を受け入れてくれたなら、俺はこの社会から抜け出すことが出来るだろう。彼女が俺を受け入れてくれなければ、俺はこの社会の中で生きて行かなければならない。それは。どうか、助けて欲しい。
光琉はそう願いつつ、窓の外で休日を謳歌する人々を眺めた。




