第7章・レット・イット・グロウ
Introduction.
少しずつでもいい、正しい未来へと成長していけるよう、コスモの背中を押してあげたいのだ。これは僕にしてあげられる、恐らく最後の手助けとなるだろう。
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毅さんから「ブラッキーを返して欲しい」との報告を受けてからおよそ一年が経ち、ついにコスモの結婚式の日が目前へと迫ってきた。
僕と由美は、羽田空港のカフェでコーヒーを飲みながら、アメリカ行きの飛行機が出発する時間を待っていた。
「最後にもう一度だけ念を押すけど、本当に、ほんっと〜にいいのかい? だって、元カノの結婚式に今カノを連れてロサンゼルスへ行くだなんて…」
「…前から何度も言ってるとおりよ…」
僕の話はただちに遮られた。
「…ロサンゼルスの海が見える教会で挙式なんて素敵じゃない、まるで映画みたい。せっかく招待されてるのに見に行かないなんてむしろ損。私は心からコスモさんを祝福する。辛い思いをして生きてきたんだもん。幸せを祝ってあげなきゃ…」
一カ月ほど前の事。コスモから、通算三度目のエアメールが届いた。中には結婚式の日取りについての説明が書かれた簡単な手紙、教会のパンフレット、二人分の航空機のチケット、そしてツーショットの写真が入っていた。当時の少年のような面影はすっかりと影を潜め、大人の女性へと変貌を遂げた姿が写っていた。耳には相変わらずガーネットを着けている。そして何より、とても幸せそうに微笑んでいた。由美はその教会のパンフレットに映る、目が覚めるような美しさの青い海と空を見て、大変気に入ったようだった。
「…不安がないと言えば嘘になる。でも、不安がない人なんているのかしら。例えば今、これから乗ろうとしている飛行機だって墜落して海に落ちちゃうかも知れない、先の事なんて誰にも分からないんだから。それに、そもそも日本とアメリカでどうやって浮気するって言うのよ。だいたい優ちゃんに浮気なんて隠し事はあまりにも大それ過ぎてて絶対に不可能よ。それとも何? 結婚式の式場に乗り込んでって花嫁を拐うとでも? 優ちゃんにはもっと不可能。あなたはそんなキャラじゃないわよ」
由美はそう言ってクスリと笑った。細い指が口を隠すと、左手のリングがキラリと光った。改めて、とても良く似合っていると思った。
「そういう風に言ってくれて嬉しい。俺、あいつの旦那さんに興味があるんだ。安心して任せられる人かどうか会ってみたい。嫁ぐ妹を見送る兄の気持ちってこんなものなのかもな。辛い思いをいっぱいした分、あいつには幸せになって欲しい、本当に、ただそれだけなんだ」
「私もコスモさんに興味がある。手紙に書いてあったよね、"世界のどこを探しても、あの日の二人はもう居ない"って。綺麗な言葉だな、って思った…」
由美が「コスモさんに興味がある」と言うのはこれで二度目だった。一度目に言われた時、僕は国際電話でコスモに断った上で、あのエアメールを由美に見せた。ちなみに、「あの日の二人はもう居ない」という言葉を綺麗だと言うのも、これで二回目だった。
「…普段から日本語に慣れ親しんでいる私でも、こんなに綺麗な言葉はなかなか思いつかないよ。コスモさんはきっと、感性の豊かな人なんだと思う。むしろコスモさんとは友達になりたいくらい。それにきっと、コスモさんの男を見る目は確かなはずよ」
「それは、誉め言葉と受け取っていいのかな?」
ふと、毅さんから言われた言葉を思い出した。「俺には英語は分からん。こんな事はユータ、お前にしか頼めない。形見のブラッキーを受け継ぐに相応しい男かどうか、俺の代わりに見極めて来い」。由美は質問に答えず、ただ涼しげに微笑んでいる。…誉め言葉と取る事にした。
「そう言えば、コスモさんのフィアンセって親日派なの?」
「だと思うよ。一度電話で聞いた事があるんだ。"What do you like about japan?"って。そしたら"Anime"って言ってた。"マジョタク・ガンダム・スラムダンク"」
「典型的ね」
と由美は笑いながら、
「海の見える神社ってないかな?」
と質問してきた。
「葉山にあるよ。森戸神社ってとこ」
「私達が婚約した事はまだ話してないんだよね。いっそコスモさん達に対抗して、結婚式はその神社にしない? それでコスモさん達を招待するの。もちろん旦那さんに宗教的な問題がなければ、の話だけど」
「まあ、相手が敬虔なクリスチャンという可能性は否定できないよな。でも、神社に来るぐらいは平気じゃないかな。宗教って言っても、広い意味では文化だし、よほど狂信的なカルト教団の人じゃない限り、"他の宗教はみんな間違ってる、正しいのは自分達の宗教だけだ"みたいな事は言わないと思うよ」
もちろん、コスモの問題もあった。いくら観光目的だとは言え、日本へ来る事に難色を示す可能性がある。彼女の親族以外では恐らく、僕と歌祈ちゃんだけが知るあの「真相」を、由美には話していなかった。話す必要があるとはとても思えなかったからだ。もし由美があの「真相」を知っていたなら、軽々しくコスモを挙式に呼ぼうなどと提案したりはしないだろう。それも含めて、コスモとじっくり話をしたい。親から受けた心の傷を、子どもに連鎖して欲しくないからだ。カウンセリングを学んだ者として、コスモに教えてあげたい事は山ほどある。不幸にも「彼」と似てしまった、カッとなると手が出やすいという欠点だけは、なんとしても克服して欲しい。そうでなくと子どもは女性にとって唯一の弱者なのだ。その事をきちんと自覚しなければ良い母親にはなれない。「自分は子どもの頃の自分を傷つけた親とは違う」、そう思い込み、自らを客観視できずにいるだけで、実は親と同じ過ちを繰り返している人間は決して少なくない、むしろほとんどの親がそうだと言っても過言ではないのだ。社会は親にとっての「不都合な真実」に対し、あまりにも無頓着に出来過ぎている。この問題は非常に複雑で根深い。だからこそ、少しずつでもいい、正しい未来へと成長していけるよう、コスモの背中を押してあげたいのだ。これは僕にしてあげられる、恐らく最後の手助けとなるだろう。
コーヒーを飲み終えるのとほぼ同時に、空港のアナウンスが聞こえてきた。
「荷物検査をしなくちゃね」
僕は立ち上がり、ブラッキーを収納している黒いハードケースを持ち上げた。もうじきこれは、僕の腕から離れてしまう。が、「未練」はもうこれっぽっちもない。もともとそういう約束だったのだ。そしてそれにしてはずいぶん長く、僕の胸に抱かれ過ぎていたというだけの話だ。
「ねえ、このギターって、メイド・イン・USAなんだよね?」
「そうだけど?」
「それがはるばる日本にやって来て、いろ〜んな人達にこんなに強く愛されて、そしてアメリカへ里帰り。世界って案外狭いのね」
窓の外を見ると、そこにはコスモと初めて知り合った日に見た青空と同じように、極細の飛行機雲が真横に一筋伸びていた。その青い空の向こうにはアメリカがある。そしてその更に向こうには、夢や希望や、素敵な未来が待っているはず…。
…前向きにいこう。改めてそう思った。
2019年に書き上げた、拙著「あの日の二人はもう居ない」を、各章毎に書き分け、加筆・修正した物を再投稿したのが本作です。
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僕の母は、非常に酒癖の悪い人でした。国語のテストで99点を取った時、酒瓶で頭を小突かれた事もありました。「そういうアンタは親として何点だよ」と思ったことは一度や二度ではありません。そういった体験が今作に影響しているのは言うまでもない事です。
アルコールを適度に嗜んでいる人がいるという事実を僕は否定しません。しかしアルコールが人々の心と体を蝕んでいる事もまた動かない事実です。それゆえ僕は今回、アルコール依存症という病を徹底的に悪く書きました。
コスモにはモデルになった人物がいます。しかし物語自体は完全なるフィクションです。僕は本編の主人公のような優等生なんかではありませんでした。優しくもなければ真面目でもありませんでしたし、本当の意味での勇気なんてこれっぽっちも持ち合わせていませんでした。そしてもちろん、こんなにモテた事なんてもっともっとありませんでした。むしろ逆にコスモと同じく、救いを必要とする側の人間でした。だからこそ解るのです、世の中にはコスモのように、地頭は良いのに親のせいで不利益を被って本領を発揮できずにいる子どもは確かに実在しているのだと。そしてそういった子の親に限って、決して自分の非を認めようとはしないのです。何故ならその親がまだ子どもだった時、親から同じような仕打ちを受けてきたから。親から愛して貰えなかった人間に、子どもの愛し方なんて解るわけがないのです。そして、たとえ世の親たちが何と言おうとも、子どもを正しく愛せていない親はこの世にごまんといるのです。
そうだとしても人間は、前に向かって進んでいかなければなりません。そしてエリック・クラプトンがその半生を通して証明し得たように、人間には本来、それだけの力があるはずなのです。こんな僕のメッセージが、少しでも多くの人に届けばこんなに素敵な事はないと思い、微力ながら本編を書かせて頂きました。
読んでくれた全ての方に心から申し上げます、本当にありがとうございました。
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・・・追記。
なお、本作に脇役として登場したボーカル&キーボードの歌祈ちゃんをヒロイン兼準主人公にしたスピンオフ的な続編、「真夏の風の中で」を書き上げました。ロサンゼルスでのコスモの結婚式の様子なども描いています。よろしければ是非ぜひこちらも読んでみてください。
真夏の風の中で
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