第一話 その④
「こ、怖かった…」
「琴音、大丈夫?」
一美が私を支えてくれる。
「あ、ありがとう…、もう大丈夫…」
私は一美の手を借りながら立ち上がった。
うう、まだ怖くて、膝の関節が軋んでいる…。
「ったく、あの男、何だろうね!」
一美は腰に手をやって怒りをあらわにした。
「あの八〇〇円は、琴音のものなのに!」
「う、うん…」
「絶対、新手のカツアゲだよ」
「そ、そうだろうね…」
あーあ、入学早々にカツアゲに遭うなんて、私もついていないな…。
「ねえ、癪だから先生に言いに行こうよ!」
「いや、もういいよ」
私は首を横に振った。
確かに八〇〇円は大金だ。エナジードリンクが四本も買えるもんね。
でも、先生に相談したところで、解決するとはかぎらないし…、あの怖い先輩に逆恨みされるかもしれないし…。
「八〇〇円は惜しいけど、諦めよう。それで丸く収まるなら…」
「琴音…、それでいいの?」
「いいんだよ」
本当は良くないけどね。
私は空っぽになった財布を鞄にしまった。
すると、私に誰かが話しかけてきた。
「ねえ、あなたたち…」
振り返ると、そこには、渡り廊下でトランペットを練習していた吹奏楽部の先輩が立っていた。
「あなたたち、大丈夫?」
「あ、はい!」
「災難だったわね。宮本先輩に絡まれるなんて…」
「あの人、宮本先輩って言うんですか?」
「ええ。三年の宮本優也先輩よ」
へえ、あの人、宮本って言うんだ…。
「ちなみに、私は二年の桜井景よ。吹奏楽部」
「ああ、はい」
見たらわかるけど一応返事をしておいた。
「ごめんね。本当は助けてあげたかったけど、あの人、全校の中でも問題児っていうか、恐れられている人だからね」
「いえいえ、とんでもない! お気持ちだけで十分です!」
私が慌てて首を横に振ると、桜井先輩はくすっとほほ笑んだ。
そして、声を潜める。
「あなたは正しいわ」
「正しい?」
「ええ。あの八〇〇円はあなたのもの」
「どうしてわかるんですか?」
「見てたからわかるのよ」
ああ、そうか。
桜井先輩は、ずっとこの渡り廊下でトランペットの練習をしていたから、宮本さんがエナジードリンクを買うところも、私がエナジードリンクを買うところも見ているんだ。
となれば、宮本さんが取り忘れた八〇〇円の行方が分かるかもしれない!
「あの、宮本先輩は本当に、エナジードリンクを買って、千円を入れていたんですか?」
身を乗り出して尋ねると、桜井先輩はこくりと頷いた。
「ええ、買っていたわ。今から五分ほど前。先に、サッカー部の男の子があの自動販売機で買い物をしていたら、財布の中身をぶちまけちゃってね、そこに宮本さんがやってきたのよ。大声で『ふわあ、眠い。エナジードリンクでも買うかあ』と言いながらね。そして、乱暴な口調でサッカー部の男の子を突き飛ばして、買い物をしていたわ。あまりのも大きな声だったから、思わず手を止めて、そっちの方を見たわ」
「で、宮本さんは、その、エナジードリンクを買った時のお釣りを取っていたんですか?」
その質問に対して、桜井先輩は首を横に振った。
「いいえ? 取っていなかったわ」
「じゃあ、お釣りはそこに取り残されたまま?」
そう聞くと、桜井先輩は突然眉に皺を寄せて、声をさらに潜めた。
「それがね。お釣りは出なかったのよ…」
「お釣りが、出なかった?」
って、どういうこと?
自動販売機で買い物をしたら、必ずお釣りが出るよね?
「もちろん、自販機と距離が離れていたということもあるし、じっと見ていたわけじゃないから確証は無いわよ。だけど、八〇〇円のお釣りが出るとき、必ず、硬貨と硬貨がぶつかり合う、『チャランチャラン』って音がするわよね? そう言う音に、吹奏楽部は敏感なんだけど、その音が、しなかったのよ…」
「音がしなかった…」
直接見ていないからはっきりとは言えないけど、それはつまり、「お釣りが出ていない」ことを暗示していた。
「もちろん、その時はまったく気にしていなかったわ。彼が千円札を入れたのかも怪しいし…」
桜井先輩は急に肩をびくっとさせて、細い腕にはめられた腕時計を覗き込んだ。
「そうだ! そろそろミーティングがあるんだった! ごめんね。これ以上は手助けできないわ」
「いえ、貴重な情報、ありがとうございました…」
私がぺこりと頭を下げると、桜井先輩はにこっとほほ笑んだ。
「知ってる? この学校に、隠れた名探偵がいることを…」
「た、探偵?」
「ええ。結構頭がいい男が、二年にいるのよ。いつもは、四階の部室に籠って、法律の本ばっかり読みふけっているけど…、いざとなれば頭のキレる男が…」
なにその学園ミステリの代表格みたいな設定は!
うーん、どうしよっかな…。
少し、気になってきた!
「あの、一応、その方のお名前を聞いてもよろしですか?」
私が恐る恐る尋ねると、桜井先輩は、その「探偵」の名前を答えてくれた。
「六法全書研究部の、三森俊って言うのよ…」