其九 かるる人とみだるる心
またの日の夜、帝、天竺葵の女御を召させ給ふに、女御、とく帝の御顔に迫りて、おほきく開きたる両の御眼をむずむずとうちまぼりて、驚かせ奉る。まことに末の世まで、いや黄昏の刻までだに、逢瀬の道ははかばかしきなりや、御身と並ぶる妾の影は長きかとぞ、せめふすがごとく問ひ聞こゆ音に、例のくつろかに緩びたる女の優なるこわ遣ひは見えず、暇なきさまなりけり。
帝、女御をしばしまもらせ給ひけるのち、いとゆるるかにうち出させ給ふ。
――あかきはな ひととせもゆと きこゆれど かるるひのあと あだなるらむぞ
女御、うけたまはりて、たちまちさぶる心地して、かへし歌するいさみさへうせにけり。
かかることのありけるのち、帝、野茨の更衣ばかりを召させ給ひつべくなりぬ。女御、彼を嫉み、またかのごとき心地おこしつるみづからの心を怒り、かつまた来し方ときめきたる我が身を思ひて、うちうつろひたりし帝の御心をみそかに恨みければ、安らかなる心、つひに跡はかなし。
荒ましき心地の源は野茨の更衣なりなむ、かの歌合の日に更衣を褒めざりせばと思ひければ、女御、いとつらくあたりけれど、更衣、わびしと憂ふるさまも、女御を厭ふさまも、つゆほども見せで、つねのごとくふるまふ。あまさへ、女御よりかうぶりしめぐみを忘るることゆめあらじとて、なほ女御を仰がむずるめれば、なかなかにかはゆく、あさましく思ゆ。
女房ども、既に野茨の更衣を優れたる人とののしり、彼をそねみたる女御のおぼえも立ちぬ。さるをりも、更衣の女御を称ふることのみ、やむことぞなかりける。女御、いよいよみづからの心悪しかるを思ひて、ことならば我を嫌はまほしとの心地、むね塞がりけれど、かひなし。
女御の帝をもてなし奉るも、夜ごとにつれなくなりゆきたりけれど、また帝が契りのなみになりぬれば、苦しきことどものいたづらにならむをおそれ、たちまちからくおもねりて、まかりてのちに、あさへたりしをうち嘆きぬ。
うたてなる心騒ぎを忌々しく思ひて、つひに、つねなくはかなき憂き世を捨てまほしとの本意、出でぬべくなりぬ。
和歌の意図:
あかきはな ひととせもゆと きこゆれど かるるひのあと あだなるらむぞ (帝)
天竺葵は赤〜ピンクの四季咲きの花で、暑さには強いのですが陰には弱いそうです。「(天竺葵の)赤い花は一年萌えると話には聞くけれど、日が離れてからは、儚いようだね」
帝自身の気持ちが移ろいゆくのを暗示する歌です。また、日光によって帝を表しており、帝が女御に飽き始めて以降、心の余裕がなくなって会うたびに自分の魅力を損なっている女御を批判する歌でもあります。「赤」「もゆ(萌ゆ)=燃ゆ」「ひ(日、陽)=火」が縁語のつもりです。また、「かるる(離るる)=枯るる」と「花」も縁語です。
さらに、これは古今集の紀貫之の歌を本歌取りしています。
我はけさ うひにぞ見つる花の色を あだなる物と いふべかりけり (紀貫之)
尤も、この歌は「さうび(=外国産の薔薇の一種)」の赤色の儚さを詠んでいまして……。野茨も薔薇の仲間なので、これを踏まえた歌となると、野茨の更衣への気持ちが色褪せているかのような意味合いになってしまわないか少し心配です。ただ、野茨と呼ばれた薔薇は在来種で、「さうび」とは別だそうです。(なら大丈夫かな?)
久々の和歌です。ここまでに何度かあった歌合のシーンで(具体的な)歌を詠まないとはどういうことだと言われそうですね……サボってごめんなさい。ご指摘お待ちしています!




