其一 天竺葵の女御
その昔、いづれの御時にやありけむ、帝のおはしましたる邸、女御更衣らのいと美しうてはべる中に、ひときはときめきたる女ありけり。名をば、天竺葵の女御となむいひける。
その清らなるかたち、かれにしくものゆめゆめあるべうもなけれど、さばかりならましかば、かのごとくときめくことぞなかりてまし。女の才、その手、ひとつをとるとも、勝るものかはありける。ことにその歌、ひとたび口をいづれば、聞くものどもを、春の花道、夏の蛍、秋の紅葉、冬の雪、かれの思ふがままの世へといざなひければ、心奪はれざるものぞなかりける。
その父、左大臣なりけり。母もまた、さうなき歌詠む清華の人なり。裳着をしける日より、帝の隣につかふまつれともかたはらいたからざらむべく、夕と朝だに分かつことなく、母にいろはをまねび、父大臣に礼を習ふ。黒き梢までまぶしくしなやかなる髪を長く伸ばし、白粉を雪の如くやおらにつけ、眉をそぎて歯を宵闇の如くし、襲の色をその身にまとひ、漢籍を鈴のやうなる音にてそらんじ、三十一文字を編み、十三の弦をその指ではじくこと、ただのひとときも休まざりけり。
いまだいはけなき頃より、その美しきに男女にかかはらず惹かれざる者なし。かさねてその音を聞かば、直ちに虜となりぬべし。続きて女の歌に触れたる刹那、男はその目にいと艶かしき歌詠みの影を見、女は悔しき心さへ忘るる。あまつさえ、かの女の優れたるは、その才のみにあらず。いとこころうつくしかれば、いかなる上臈下臈に話すも等しく優し。我こそはと勇みて、めやすき男が恋文を奉らば、微笑みて、しかるに鮮やかにも冷たく、いみじき歌をかへしつつその手をしてさながら退けしむ。
全ては、ふた親が願ひを叶へ女御となりたてまつらむがためなれど、学をしんから楽しみ帝を慕ひ奉りにければ、つゆ苦しからざりける。されば、女御になりてのちも、あまねく書を読みて新たなること学ぶを止むことなければ、女の歌はいよいよ輝きを増し、琴の音は踊り、深き造詣はいよいよ鋭くなりぬ。帝は来る日も天竺葵の女御を召させ給ひ、他のいづれの女御更衣にも語らざる契りを交わさせ給ふ。
ひむかしより新参者の来ざるうちは、帝とその字のごとく枝を重ね翼を並べるひと、天竺葵の女御の他になかりけるなり。
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