えそらごと!~姉妹のアトリエ~
前作『絵空事~姉妹のアトリエ~』のスピンオフ的作品です。作風は全く違います。
ほぼ掌編サイズですが、私の短編第十作目になります。
アルミ製の扉を開くと、油絵の具の匂いと、やけに甘ったるいような臭いがした。
締め切られた窓。うららかな日差しが舞い込む部屋の隅に、無造作に置かれたいくつものイーゼル。他にも絵を描くための小道具たちがところどころに存在していた。
春休み真っ只中の今日。あたしはお姉ちゃんに連れられ学校までやってきた。
今度の「新入生部活勧誘会」用の絵を描くため、そしてぜひ、あたしにモデルをやってほしいと頼み込まれたのだ。
モデルなんてしたことないし恥ずかしい。……と、はじめは乗り気じゃなかったんだけど、お姉ちゃんはいっつもあたしに優しくしてくれるし、たまには恩返しもいいかなぁと思い今に至る。
ちょっとまだ緊張してるけど、それは覚悟の上だからいい。
でも……
「これは……何なの?」
「彩矢、それはね。うっふふふふ……」
まるでサプライズでも仕込んだ時のようにもったいぶって笑う姉。いや、うっふふふ……じゃないよ。
入学してちょうど一年。初めて訪れる美術室。
どんなところかワクワクしながら中を覗くと、床には美術道具の他、大量のお菓子が散らばっていた。
そのほぼ全てが亡骸。辛うじて生き残ってる子たちも、みな日射に溶かされ異臭を放っている。
美術部専用の部室でもあるこの部屋は、今やお菓子のゴミ捨て場となってしまっていたのだ。イメージ総崩れだった。
「こ……こりゃあ酷ぇや……」
「彩矢……お菓子の国へようこそ」
「お菓子っつっても殻ばっかだけどね!?」
まさにお菓子の墓場だった。
偏見かもしれないけど、美術部ってもっと清楚なイメージがあった。その淡いイメージが一瞬で、バールかなんかでゲチョンゲチョンに叩きつぶされたような衝撃だった。
それに、よくもまぁこんな汚い部屋に自称大事な妹を招待したもんだ。さっきまでのワクワクドキドキ返せ。
「お姉ちゃん、仮にも部長なんだしちゃんと掃除しようよ……」
「ごめんなさいね、彩矢。ほんとはもっと綺麗にしておこうと思っていたのだけれど」
両手を胸の前で合わせて小首を傾げるお姉ちゃん。つられて、肩下まで伸ばした黒髪がサラサラと流れる。なんでかな。お姉ちゃんって普段はクール美人で、こういう仕草も絵になる。だけどいかんせん今の背景がいただけない。
「ほら私って、絵を描くのに行き詰まると、ついお菓子に手が伸びちゃうでしょ?」
「うん、初めて知った」
「よく部員の子たちに『先輩! お菓子ばっかり食べてないで絵描いてください!』って言われたものだわ……」
「そりゃそうだ」
てかこれはアンタ一人の仕業だったのか……。
「それに、その部員の子たちも今は全員辞めちゃったしね。コンクール用の絵も描かないといけないし、掃除まで手が回らなかったのよ」
「えっ、そうだったの……? じゃあ美術部って、今はお姉ちゃん一人なの?」
こくんと頷くお姉ちゃん。いつも優しげなその表情に、ほんの少し陰が差したような気がした。
「春休み前には全員……ね。みんな家庭の事情があったみたい。つい最近まで残ってくれてた子も、体調不良で辞めちゃった……。だから今は、美術部員は私一人だけなの……」
「そ、そうだったんだ……」
悲しげな表情でお姉ちゃんは笑った。
うちの学校はたしか、部員が三名以上いて初めてその活動を許可されたはず。なら今回の部活勧誘は、美術部の存続を懸けたイベントってことになるのか。
もし今回部員が二名以上集まらないと……廃部。よくても部費が入らない同好会になっちゃうのか。けっこう大変なんだ、お姉ちゃん……。
「でも、酷いわよね。その辞めた部員の子たち、退部理由が『臭いから』とか『独学でやった方がマシだから』とかばっかりだったのよ。美術を舐めてるとしか言えないわね」
「うん、そうだね。原因はこの部屋とアンタの姿勢だったわけだねー」
たしかに、この甘ったるい部屋は長居厳禁だ。数分前に足を踏み入れたあたしでさえ、すでに身体が美味しい空気を欲している。
きっと最後まで残ってた部員の子だって我慢して我慢して、辞めると言うに言えないままついには体調を……ごめんね、こんな姉で。てか妹であるあたしも片身狭いなオイ。
「とりあえず……換気! お姉ちゃんはゴミを捨ててきて!」
「む、でも絵を描かないと……」
「この状態じゃ、まずイーゼル動かせないっしょ。まずは掃除! 綺麗になったらいくらでもモデルしてあげるから!」
「ほ、ほんとっ? どっひゃーい! 掃除頑張ろぉー!」
我が姉……可憐な容姿と清楚な仕草とは裏腹に、精神年齢はけっこう低めなのだった。おまけにシスコン……。
そのあと、あたしは生まれて初めて入った美術室で生まれて初めて美術室の掃除をするハメになった。
……。
約一時間後。なんとかアトリエっぽくなった部室で、いそいそと絵を描く準備を進める。そうして、お姉ちゃんはイーゼルの前に座り、あたしはモデル位置に立った。
「さあ、さあさあさあ! 描くでぇ! ミロのヴィーナス完成させたるでぇ!」
「うん、わかったから! 鉛筆折れそうだから!」
なんで関西弁!? それにミロのビーナスって彫刻だよね? 今から石掘るんじゃないよね? 絵を描くんだよね?
さっきからお姉ちゃんの右手に握られた鉛筆がミシミシ悲鳴をあげていた。どんだけやる気なんだこの人。
「じゃあ……描くわね」
その一言で、さっきまでのアホっぽい空気が一気に引き締まる。
専用の鉛筆を構えたお姉ちゃんの表情も真剣だった。
いつもはどこか抜けてるけど、さすが美術部部長。いざ絵を描くとなると、あんなカッコいい顔もできるんだ。
「よ、よろしくお願いします」
そんな緊迫感に気圧され、あたしはそう呟くしかなかった。
椅子に腰掛け背筋を伸ばすお姉ちゃん。時折、顔にかかる黒髪を耳のうしろにかけ直す。正面に掲げる腕は細く白く、今にも折れてしまいそうに見えた。
まるでお姉ちゃん自身が芸術のようだった。
お姉ちゃんの背後、部屋の隅の鏡にあたしが映っているのが見える。
邪魔だからって短く揃えた髪は、どこか少年っぽい。顔つきはお姉ちゃんと似ていて、それは密かな自慢だけど、その他においてはお姉ちゃんみたいな女性らしさは皆無だ。
これって、どう考えても立場逆だよね……。
必死に表情を作るあたしより、絵を描いてるお姉ちゃんの方がずっとモデルっぽい。
「彩矢は十分可愛いし、女の子らしいわよ」
「……え?」
いつのまにか床に向かってた視線をあげると、お姉ちゃんがやんわりと微笑んでいた。
「え、なんで……あたしの考えてること……」
「彩矢って、思ってることすぐ顔に出ちゃうから……」
「え……そうなの?」
「ふふ、そうなの。……でもね、いい? 私は、彩矢にモデルになってほしかったのよ。モデルなんて似合わないとか、私と比べてとか……そんなこと考えなくていいの。私はここにいる彩矢を描きたいから。世界にたった一人しかいない彩矢の魅力を、このキャンバスに描きたいの」
「お姉、ちゃん……」
「だから、彩矢は彩矢のままでいいの。私にとって貴女は十二分に可愛らしいし、凄く美しい存在なの……」
穏やかに紡がれる不意打ち的な言葉に、つい視界がぼやけてしまった。
自分のコンプレックスを慰めてくれた……そんな理由じゃなくて。お姉ちゃんがこんなにもあたしのこと思ってくれてたんだな、って心からそう思えたから。
……そうだよね。お姉ちゃんはたった一人、他の誰でもないあたしをモデルに選んでくれた。
だったらあたしもその期待に応えないと……。あるがままのあたしで。
うん、余計なことは考えないようにしよう!
「……隅々までペロペロ食べちゃいたいくらいに、ね」
だから最後の台詞も聞かなかったことにしよう!
……。
「さて……描けたわよ。彩矢も楽にしてね」
「う、うん」
モデルってあんまり身体動かせないし、案外しんどい仕事なんだな。でも、お姉ちゃんの描写も早くて、十五分ほどで絵は完成した。
「えっと……お姉ちゃん。絵、見せてもらってもいいのかな?」
「ええ、こっちいらっしゃい」
さっきのシリアスな空気を無意識に引きずってるのか。ちょっとぎこちなく、あたしはお姉ちゃんの方へと歩み寄る。自分が描かれた絵を見るのってなんだか緊張するなぁ……。
満足げな表情で椅子に座るお姉ちゃんの隣に立ち、キャンバスに目をやった。
「わ、わぁ……」
「ふふ、どうかしら。これでもお姉ちゃんは、美術部部長だからね」
少し照れながら、それでも自信に満ちあふれた声でお姉ちゃんは尋ねてくる。そんな声もおぼろげにしか聞こえなかった。
すごい。
あたし、こんなの初めて見た……。
あまりの幻想的な絵に、あたしは思わず呟きを零してしまう。
「これって………………蟹?」
キャンバスに描かれた絵……。それはあまりにファンタジーですごい『蟹』だった。
「え、何言ってるのよ。それは彩矢よ。彩・矢」
「いやいや、おかしいって。なんで顔から手足が生えてんのさ」
たしかに、キャンバスの中央にはあたしの顔らしきものが描かれていた。その輪郭は一目でわかるくらいに上手だった。
でも……なぜか両目が『の』だった。ついでに鼻は『も』だ。
そして、なぜかそのあたしの顔(?)から手足がニョキッと生えていた。なぜか計八本。
「てか身体ないじゃん! あたしの身体どこいった!?」
「ああ、それね。顔は上手く描けたんだけどね」
「いや顔もぶっちゃけ描けてないから」
へのへのもへじだから。
「ちょっと、さっきの掃除で時間押しちゃったでしょ? だから身体はなしの方向でいこうかな~ってね。てへりっ」
「てへりっ。じゃねぇよ! 「身体ほったらかし」は千歩譲ってよしとしても、なんで頭から手ぇ生やす必要が!」
「あら、メデューサみたいでかっこよくない?」
「メデューサの方がマシだよ! こっちのが千倍化けもんだよ!」
しかもよく見たら全部ピースしてるし。への顔でフォースピースしてる化けもんだよ。
「うっふふふふ……。これは今年一番の出来だわ。大好物な妹をモデルに渾身の作品……。これで来年度の美術部員は百万人は堅いわね!」
「この学校そんなに新入生募集してないよ!」
これで今年一番の出来って……。
やっぱり、お姉ちゃんはどこまでいってもあたしのお姉ちゃんだった。
お姉ちゃんの実力と美術部の未来を同時に知ったあたしは、その場にくずおれるしかなかった。
◆ ◆ ◆
――時は廻り、「新入生部活勧誘会」も無事(?)終了した。
他の部がさまざまな催しで順調に部員を確保するなか、あの美術部部長はなんと、この前の絵を全校生徒の前で披露してしまったのだ。
そのタイトルはシンプルに……
『妹』
あたしはその後三日間寝こんだ。
ただ、その絵はあたしの予想に反して(お姉ちゃんの予想どおり)大反響だったらしく、とある条件とひきかえに我が校の美術部は廃部を免れることになったのだ。いやはや、世の中わからんもんだ。
そうして、部員三十人の大所帯となった我が校『美術部』……改め『ギャグ漫画研究部』は、校内一の人気文化部となったのだった。
「なんでオレの妹がギャグ扱いされにゃならんのじゃぁぁぁぁ!!」
そしてその陰で怒れるうちの姉がいた。
こっちがキレたかった。
掛け合いの練習にと、前作とほぼ同時期に書いた作品でした。