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空中軍艦  作者: ミルクレ
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1939

 ヘルマン・ゲーリングはドイツ空軍ルフトヴァッフェの大将である。現在はポーランドを攻撃する南部軍集団に所属する航空戦闘団の総指揮を任されていた。

 彼は第一次世界大戦で勇名を馳せたエースパイロットであった。終戦後彼は北欧で曲芸飛行をして暮らしていたが、カリンという人妻と恋に落ちた。ゲーリングはドイツへカリンを連れて駆け落ち、結婚する。

 ミュンヘンに定住したゲーリングは航空機や自動車の整備の仕事に就いた。友人のエルンスト・ウーデットがミュンヘン大学で学ぶのを横目に、カリンとの生活を優先させたのだ。この時期は彼にとって苦しくも幸せに満ちた生活であった。横に妻カリンがいるだけで幸福だったのだ。

 転機は一九二三年、ゲーリングの母が没した数ヵ月後の夜であった。その日ミュンヘンは血に塗れていた。ヒトラーによるミュンヘン一揆が起こり、ゲーリング夫妻も自宅で息を殺していた。

 突然扉の外から聞き覚えのある大声で呼ばれ、用心しつつもゲーリングは鍵を開けた。そこにいたのは身体を血で汚したウーデットであった。リヒトホーフェン大隊で共に戦ったエースで、ゲーリング以上の名声を得ていた彼は子どものようにとても怯えていた。ゲーリングは最後の出撃、キール軍港の反乱鎮圧任務で、錆色の浮遊する要塞に撃墜された時の自分を思い出した。

 彼を落ちつかせ事の次第を聞くと、彼は涙をこぼしながら弁明するように話した。

 ウーデットは大学の教授を介し、ナチ党で力を付けていたアドルフ・ヒトラーに出会ったのだという。彼への賛美を抜いて簡潔に要約すると、ウーデットはヒトラーの主張や立ち振る舞いに魅了され、ヒトラーの力になることを望んだらしい。ヒトラーも彼の願いを聞き入れ、突撃隊最高指導者という破格の地位に就けた。

 バイエルン州総督との反目の結果、ヒトラーは総督の身柄を確保しベルリンへの進軍を企図したクーデター計画を発動した。確保に成功しミュンヘン中心部へ行進していたが警察隊からの銃撃を受け、間一髪のところで逃げのびてきた、とのことだった。

 いずれ彼を逮捕すべく警察隊がここにも来るだろう。しかし旧友の危機を放っておけなかったゲーリングは、ウーデットを匿いオーストリアへ亡命させたのだった。

 一九二七年にヒンデンブルクによる恩赦の結果、ウーデットは帰国を許されヒトラーら政治犯の保釈も行われた。ナチ党は武力闘争から合法的選挙活動による政権獲得を目指し、翌年ヒトラーやウーデットを含む一二議席を得ることになる。しかし党金庫は空で活動資金は不足していた。ゲーリングはウーデットの友誼のため、社交界を通して上流階級の後援者を増やしていった。その甲斐もありナチ党は一九三〇年の選挙で大躍進、ウーデットだけでなくヒトラーの信頼も得た。

 翌年ゲーリングは悲劇に見舞われる。妻カリンの死である。彼は悲しみに暮れ隠遁生活を望むが、ウーデットや彼を評価する人間に慰撫されナチ党への支援を行った。

 一九三二年ナチ党は第一党へと躍り出る。ウーデットの薦めで立候補したゲーリングは議員として当選、政権を握ったヒトラーから森林庁長官に任命された。彼はカリンの悲しみを癒してくれる女性エマと共に暮らし、趣味の狩猟をするゆっくりとした生活を望んだ。しかし時代は彼の願いを聞き入れなかった。

 長いナイフの夜という身内の粛清を通じ、ナチ党への信頼を失ったゲーリングは政治闘争とは無縁な仕事を求めたが、再軍備に伴い航空総司令官となったウーデットから司令官の一人として軍への復帰を求められた。戦友の求めを断れずゲーリング森林庁長官はゲーリング航空大将となった。

 一九三五年にはエマ・ゲーリングとなった女性を横に盛大な結婚式を行った。参列者は当時の政府要人が勢ぞろいだった。

 ナチ党のもっとも近くにいたにもかかわらず、ゲーリングはヒトラーを信仰せず一歩引いた目線から見ていた。彼が求めていたのは革命ではなく、愛する人との生活だったのだから。

 一九三九年、ポーランド侵攻においては空中艦隊司令長官の立場を推挙されていたが、陸戦に詳しくないゲーリングは固辞した。「私はパイロットなのだ」それが彼の信条であった。

 九月一日、ポーランド侵攻。ゲーリング揮下の航空機はポーランド空軍を一蹴、地上軍への大打撃を与えた。ベルサイユ条約で復活した東欧の共和国は、モロトフ=リッペントロップ協定により挟み撃ちにされた結果、一か月ほどで消滅することになった。


「我らが伍長はまだお怒りか?」

 ゲーリングは司令部の椅子に腰掛けながら、友人で副官であるブルーノ・レールツァーに話しかけた。

「総統府の外まで聞こえそうなほど、怒鳴り散らしていましたよ。ウーデット長官がかわいそうだ」

 レールツァーの苦笑いにくつくつと笑い、ゲーリングは手元の書類に目を通した。空中艦隊と航空戦闘団の合同演習についてであった。

 ゲーリングは思案する。これまでヒトラーの言葉は的中し続け、一種の予言として上層部では扱われていた。しかし今回ポーランドへの侵攻による英仏の宣戦布告は総統の予想外であった。総統府では独裁者を宥めるためにてんてこ舞い。

 予想外の事態に弱過ぎるのではないか。ヒトラーほどの人物であっても、やはり結局は人間なのだ。そこまで考えてゲーリングは、ヒトラーを信奉しかけている自分を見つけた。

 彼は無能な党幹部のような盲信を戒めつつ、不測の事態に備えるための演習の書類にサインを書いた。



 ベルリンではヨアヒム・フォン・リッペントロップ外務大臣と大島浩駐独大使が、日独技術協定締結を祝っていた。

 英仏の譲歩を引き出すために日独伊防共協定を結んだ一九三八年から数カ月しかたっていないが、諸外国からは日本とドイツは急激に距離を縮めているように見えていた。

 リッペントロップにとってこの協定は、予定通りの推移を辿っていた。

 大島はリッペントロップの薦めでヒトラーと会っており、ヒトラーの話術の虜になっていた。国家社会主義者よりも国家社会主義者らしい、と揶揄されるほどにである。そんな彼を誘導するのも簡単で、大島はリッペントロップの求めるように動いていた。

 ただしリッペントロップは大島のことを軽蔑せず、友人として可能な限り親しくしていた。大島とリッペントロップは同じ思想を持つ同志であったからだ。忌々しい杉原千畝のような日本人もいれば、大島のような素晴らしい人格者もいる。

 しかし友人だからといって調査対象から外れるわけではない。大島の予定は全てリッペントロップに筒抜けであった。尾行も付けていたが、それを知った大島は当然と考えていた。外交官とはスパイの役目も兼ねている、というのは常識であり、彼らとしても自分を例外にするわけにもいかない、と理解を示していた。それほどまでにドイツという国を好んでいた。

 リッペントロップは大島の悲しそうな顔に不安を覚えた。この後の大島の予定は、彼の好きなワーグナーのオペラである。大変楽しみにしていたのは間諜の掃除婦から聞き出している。にもかかわらず、この表情はどうしたことか。

「ヘル・リッペントロップ。申し訳ないが、私はドイツから去ることになりました……」

 リッペントロップは衝撃を受けた。そんな馬鹿な。数日前に日本大使館が未解読の暗号に変更したとの報告を受けていたが、その内容が大島の免官だとは想像していなかった。

「それは……とても残念です、ヘル・オオシマ。あなたと共に働けたことを光栄に思います」

 動揺するリッペントロップと固い握手をした後、大島は大使館へと帰っていった。

 大島の免官理由は独ソ不可侵条約を察知できなかったことであったが、それは酷というものであった。諜報技術に秀でたイギリスやポーランドでさえ察知できなかったのだから。

 後任として渡来したのは来栖三郎であった。


 ロンドンでは吉田茂が交渉に苦慮していた。親ドイツ派と親イギリス・アメリカ派が火花を散らす日本を海外から見ると、とても不安定に感じるからである。

 現に日英同盟あるいは戦時に軍事的支援を行う協定が水面下で進んでいたが、先に結ばれた日独技術協定により水泡と帰した。ソ連との関係修復を望む同期の廣田弘毅や親ソ派の松岡洋右による日ソ友好路線も、共産主義を恐れるイギリスの保守派から反発を受けてしまう。極東植民地における独立運動の本部が日本にあり、それを取り締まらないのも彼らの怒りに油を注いでいる。

 アメリカでは野村吉三郎駐米大使がフランクリン・D・ルーズベルト大統領との直接交渉により、経済摩擦などの問題を解決しつつあるにも関わらず、軍備を整える日本への危機感が高まっている。アジア艦隊は増派され新鋭戦艦を派遣、日本政府は抗議しているほどだ。

 日本も「米英の主張は我が国への内政干渉である」と抗議活動が活発化しており、英仏と戦争状態に入った独伊への同盟論すら囁かれているのであった。

 宇垣外相の強硬論が裏目に出ている、と吉田は感じた。対ソ連では上手くいったが、イギリスでは宇垣一成の名は独裁者にも似た意味合いになっていた。

「幣原さんか、廣田が外相になれば収まるのになぁ」

 と嘆息する吉田であったが、ひとまずは目の前の仕事に集中することにした。

 今回の交渉は東南アジアの石油資源の売買についてである。戦争状態に入ったヨーロッパ諸国は、植民地が産出する資源を独占していた。日本の工業化発展は国力の増大に繋がったが、消費するエネルギーの増大も引き起こした。満州において油田が発掘されたが、中国は不安定な情勢でありいつ途切れるかわからない。やはり主な輸入先はアメリカと東南アジア植民地を持つイギリスやオランダなどであった。

 そんな状況で資源を売らないイギリスへの交渉だ。難航するのは目に見えている。

 尊敬するチャーチルと同じように葉巻を吹かし、吉田は自らを鼓舞した。

 結果は散々なものであった。交渉相手は植民地における独立運動の支援を日本が行っているとし、反乱がいつ起きてもおかしくない状況であり、輸出を行う余裕などないと主張。それに加えリットン報告書を重視し東南アジア侵略を目論んでいるのでは、と警戒されていた。

 外務次官重光葵の欧州戦争不介入という政策も、極東におけるモンロー主義ではないかと批判された。極東を自国の勢力圏に組み込もうとしている、と。吉田はそれを否定し、日本は平和であるからこそ発展できるのだと反論した。

 ちなみに近衛内閣の二代目外相に就任した松岡洋右は、世界を四つのブロックに分けるという四国同盟構想を公言しており、イギリスはこれを帝国主義の発現であると認識し、更に態度を硬化させる。


 アメリカにいる野村吉三郎はルーズベルト大統領と個人的な友誼を結んでいた。二人とも海軍出身で親近感を感じていたのもあるが、彼らは古くからの知り合いであった。日本人への差別感情を持っていたルーズベルトだったが、野村は例外の一人だった。

 野村はホワイトハウスでルーズベルトからの相談を受けていた。ルーズベルトは安定しない国内経済と日本との経済摩擦を抑えるため、日本との経済的結びつきを強化すべきと考えていた。しかし両国とも開戦論が蔓延り、ルーズベルト自身も落選しかねない状況なのだという。

 野村は日本国政府を代表し、戦争という選択肢は持っていないことを告げた。開戦論は一時的なもので、いずれ収まるとルーズベルトを励まし、野村は自宅へ帰っていった。

 野村がいなくなると、ルーズベルトは国務長官コーデル・ハルを呼びだす。ルーズベルトは日米間で戦争が不可避になった場合の対策を、ハルを中心に据えて考えさせていた。ハルは対日禁輸措置を取れば、日本経済は崩壊し、戦争という手段に訴えてくると推測した。しかしアメリカ経済と結びつきを強くしている日本が崩壊すれば、我が国にも被害を及ぼすとも忠告した。

 また欧州大戦に参戦する口実として日独伊防共協定は十分だが、派遣する兵器や物資を準備するには時間が足りないのが現状だった。

 自分の行った経済政策は成果を上げている。ルーズベルトはこれまでの経験と成功を武器にして、大統領選を戦う覚悟を決めた。


 藤本喜久雄は空中軍艦の設計に悩んでいた。最大の武器である艦載砲と速度の発展に限界を感じていたからだ。

 正確には攻撃力と速力の上昇が、命中率の致命的な低下をもたらしたのだ。対地対水上ならば目処はついている。しかし空中軍艦同士の戦闘は不毛なものに終始する可能性が高かった。

〈石見〉と〈佐渡〉の接触事故から電波探信機つまりレーダーの実用化も必要となり、藤本の問題は山積みであった。

「藤本さん。コーヒーでもどうです?」

 声をかけてきたのは八部の石井利雄であった。ブロック工法の導入により改〈浅間〉型の建造が早まったのも、彼のアイディアのおかげであり、藤本は彼を可愛がっていた。四部の牧野茂とも仲が良く、よく意見を戦わせてるのを昼食時に見かけた。

「うん、ありがとう石井君」

「やはり難しいですね。これだけ当たらないとなると……」

 演習結果の報告書を一瞥すると、石井は藤本が悩んでいる理由を理解した。

「頼みの電探も実際に使えるようになるには、あと二、三年はかかるとさ。電探を利用した射撃なんて夢のまた夢だね。困ったもんだ」

「こうなったら欧州式で行きませんとね」

 藤本は顔をしかめた。欧州式というのは八部での通称で、高初速で比較的小口径な砲を装備し、接近戦に持ち込むことであった。命中率は上がるが、大損害を受ける覚悟が必要だ。防御を上げようにも限界はある。

「……仕方がないか」

 防御はダメージコントロールで補い、我々はダメージコントロールを行いやすくする艦内配置をすればよい。藤本はそう踏ん切りをつけた。応急班が新設されたことを思い出しながら、設計案を具体化していく作業はまた始まった。


 海軍大臣山梨勝之進の下で働く海軍次官山本五十六の提言で置かれた応急長は、当初最も嫌われた部署であった。ダメージコントロールを軽視する風潮があったからだ。しかし第四艦隊が台風に突入した事故の時、応急長は艦の保全を一手に取り仕切り、緊急時においては司令部参謀長に匹敵する権限を持つ可能性が出ると、応急長も花形役職となった。巨大な戦艦になると応急長は艦内に熟知したベテランや秀才が選ばれたのも、人気の一因となったのだろう。


〈浅間〉〈常盤〉〈八雲〉〈吾妻〉の四隻と〈千住丸〉〈千鳥丸〉と改称された〈相模〉〈諏訪〉の二隻は、横須賀にある空中軍艦司令部横の停留地に並んでいた。第一空中艦隊総司令官として塚原二四三中将が赴任し一カ月経った今日、新型艦が艦隊に配属されるからだ。

〈松島〉〈厳島〉〈橋立〉と命名された改〈浅間〉型三隻と、新設計艦〈筑紫〉である。

〈松島〉ら三隻は五〇口径一四インチ三連装三基と主砲こそ〈浅間〉型と同じだが、航続距離が七〇〇〇キロと増大し、防御も〈浅間〉型の五割増しであった。旋回速度の低下を忍び最高速度を上げた結果、四一ノットと駆逐艦〈島風〉型を上回る高速を手に入れた。新型ディーゼル機関のおかげであった。

〈筑紫〉は対戦艦攻撃を念頭に置いた、当時の日本海軍の対米戦略である漸減邀撃作戦の要として建造された。

・排水量:三〇〇〇〇トン

・最高速度:三五ノット

・航続距離:七〇〇〇キロ/二九ノット

・主砲:四五口径一六インチ連装四基

 主砲は長門型と同様のものを用いたが対外的には一四インチとした。これは期限切れを前に有名無実化したロンドン軍縮条約、それを継ぐはずだった第二次ロンドン軍縮会議で発表される予定であった「空中軍艦特別枠」の要項であった。内容は「一四インチ以下の主砲を装備した総トン数三〇〇〇〇トン以下の空中戦艦(Frying battleship)の規制」であったが、これはアメリカが建造する〈コネチカット〉級の性能と目されていた。

 実際の〈コネチカット〉級は

・排水量:二九五〇〇トン

・最高速度:三三ノット

・航続距離:九五〇〇キロ/二五ノット

・主砲:五〇口径一四インチ四連装二基

であった。

 日本が建造している〈筑紫〉の情報も漏れており、それに対抗するため再設計を行った結果だったが、主砲に関しては「〈浅間〉型と同じ口径を使用」という〈松島〉型の情報が混ざってしまったようだった。


 空中軍艦司令部は厚木へと移転作業の途中で慌ただしい雰囲気が流れていたが、新型艦が見えてくると誰しもがその手を止めていた。

〈扶桑〉型戦艦に匹敵する威容が空から降下してくる様子は、鎮守府にいた兵士からも見え、その重量感に腰を抜かす者もいた。横須賀に停泊していた連合艦隊旗艦〈長門〉から見ていた連合艦隊司令長官嶋田繁太郎は「山本はすごい艦を造ったのう」と感心し、同期の堀悌吉にその時の驚きを話している。

〈三笠〉記念公園の横を通り過ぎ予定着陸地点に到着すると、浮遊機関の出力を徐々に下げていく。新造艦でまだ操艦に慣れていないにも関わらず、見事に地面に描かれた着陸点を中心に捉えると、タラップがガラガラと降りてくる。塚原ら司令部が出迎えるなか降りてきたのは、艦長の木村昌福であった。彼は難しい着陸を成し遂げたことをいささかも気にしない態度で、着任した報告をした。塚原は木村のことを気に入り、塚原が第一航空艦隊の後継、第三艦隊司令長官へ転属したとき、木村を護衛の艦隊司令として駆逐隊司令だった彼を招いた。


 海上護衛総司令部は一九四〇年に山梨海相によって新設された部署であった。沿岸警備隊と航路防衛を一手に引き受ける、連合艦隊と同格の組織として創設された。初代司令長官に堀悌一、参謀長に大西瀧治郎が就いた。軽空母を正規空母の補助とするのではなく、輸送船団の護衛として使用する提案や、対戦戦力の拡充として駆逐艦と海防艦の増産を提案した。そうした行動は商船改造空母の海上護衛総司令部への所属、ブロック工法を取り入れた〈松〉型駆逐艦と〈占守〉型海防艦の建造となった。なお〈松〉型の防空能力を充実させた〈橘〉型も建造され、航空艦隊の盾として配属された。

 発足時には旧式の駆逐艦や軽巡洋艦を主力とした海上護衛総司令部だったが、〈天龍〉型軽巡洋艦を再設計した〈吉野〉型二隻の建造や上記の駆逐艦により、艦隊として十分な戦力を手に入れる。

 連合艦隊司令長官に就任していた嶋田繁太郎や軍令部総長であった山本五十六など海軍兵学校同期たちの協力のおかげでもあるが、本人の才に拠るところも大きい。そのことを本人は嫌がっていたが。


「山本。〈大和〉型の建造どうにかならんか」

 一九三九年月、赤坂のとある料亭で、嶋田は山本に愚痴っている。嶋田は大艦巨砲を信奉、対する山本は航空主兵の旗頭であるが、二人の仲は悪くなかった。意見が対立することもあったが、堀が間に立つことで関係を保っていたのだ。

「嶋ハンそりゃあ無理だ。〈大和〉をもっと造ったところで、航空機には良い的だよ。それに今はドックに余裕がない」

「四部のナントカって中佐が言ってるブロック工法じゃあ駄目なのか」

「ブロック工法は確かに優れてる。駆逐艦や海防艦の量産には向いてるな。しかし組み立てるのにはドックがいる。今ドックを埋めてる〈翔鶴〉が終わるまでは待ってくれ」

「そうか……お上が〈大和〉と〈武蔵〉だけでは不安だとおっしゃってな」

 お上とは海軍艦隊派の最後の砦で、皇族である伏見宮博恭であった。嶋田は皇族で大艦巨砲主義者である彼の言うことには、自分は逆らえないと考えていた。

「やれやれ。殿下も無茶をおっしゃる。〈金剛〉代替艦の時もぎりぎりだったのだ。〈大和〉型は二隻で打ち止め、残りは巨大空母を建造する。これは艦政本部とも話し合った結果だ」

 これ以上〈大和〉型の話はしない、と山本はそっぽを向いた。その様子を見て堀は苦笑する。

「山本。嶋田にも立場があるんだ。そう怒るんじゃない」

「しかし堀。塩沢(艦政本部長で同期の塩沢幸一)も何度も何度も言われると、さすがにうんざりすると言っていたぞ」

「殿下だって国を想われてのことで……」

「それが余計に面倒なのだ。殿下は正しいことをしている、と信じ切って行動するから、こっちとしても無碍にしにくいんだよ」

「山本、殿下に向かって余計とはなんだ!」

「あーあー、嶋田は黙っておけ。話がこじれる」

 話が一段落つくと、部屋の外から遠慮がちに声がかけられる。来客だという。

 山本が迎え入れたのは樋端久利雄中佐であった。彼は山本の懐刀として色々な部署に顔を出しており、理論的で隙のない口調は対応した士官に突き刺さったという。

 山本が忙しくなり顔を出せなくなった防空戦略研究会にも、山本の代理として出席している。

「樋端、よく来てくれた」

「いえ、山本大将が呼ばれるのならどこへでも行きますよ」

「おう、山本。樋端君を呼ぶというのは、何かあったのか?」

 樋端が来ることを知らなかった堀が聞いた。嶋田も知らない様子であった。

「ちょっとしたことさ。陸海航空隊の独立化だ」

 軽い口調で飛び出したのは重大な内容であった。二人が絶句するのを見て、山本は悪戯成功という顔で笑っている。

「山本!それはどういうことだ!」

 嶋田が激昂し大声を上げたので、堀は反比例するように冷静になった。

「まあ嶋田、どういうことか聞いてみようじゃないか。わけも聞かずに怒るのは良くないぞ」

 堀に諭されて腰を下ろす嶋田だったが、その眼は怒りに満ちていた。

 落ちつくのを見計らって樋端は説明し始めた。

「えー、まず現状の航空隊運用の無駄の多さから説明します。陸海軍の機体は開発を依頼する段階から、別々のルートで発注されます。別機種を採用するならば問題は少ないですが、例えば戦闘機などは任務が重複する場合が多いです。アメリカのような裕福な国家ならばそれでも良いですが、我が国はアメリカに比べ工業力で著しく劣っています。失敗する可能性を回避するにはいくつかの予備機体を用意する方法が取られますが、陸海で同じ用途の別の機体を採用するほど、我が国に余裕はありません。それで山本総長からの提案で、航空機開発の一元化を目的とした航空隊独立案を考えております」

「空軍を創るわけじゃないってことだよ、嶋ハン。少しは安心したかい?」

 樋端の説明を聞いた嶋田は、なおも疑問をぶつける。

「航空機整備が楽になる上に、航空隊の派遣がより楽になるのも分かった。しかし山本。空母航空隊や空中艦隊はどうなる?」

「それに関しても樋端は考えがあるようだぞ」

 眼で指された樋端は唇を開く。

「空母航空隊は現状維持。新設や補充を行う場合のための航空隊も残すつもりです。長距離洋上飛行に長じた者を選び空母へ移動させます。空中艦隊の乗員は我が国ではほとんど海軍所属で、人員不足に陥っている現状から見ても、陸軍から乗員を融通してもらえる独立案が最適かと」

「海軍の影響力が低下するではないか」

 堀が横から言う。低下することを懸念しているのではなく、どこからか文句を言われたときどうするか、それを聞きたいようだ。「軍縮条約締結による海軍の影響力」のために、海軍を追い出されそうになった条約派の堀だからこそ、言える意見でもある。

「空中軍艦は陸上支援兵器としての側面もあります。陸戦に不慣れな海軍が作戦の度に陸軍へ助力を請うのではなく、陸出身者が増える方が良いかと」

「うむ……」

 海軍の主流派が大艦巨砲主義から移ったのは理解している嶋田だが、やはり航空は補助戦力という認識が強い。航空機で損傷した敵艦を砲撃戦で沈める、という漸減邀撃から逸脱する方向へ進む同期たち。嶋田は少々悲しい気持ちになった。

 黙りこくった嶋田をよそに、堀は樋端への質問の嵐であった。予算は、司令部は、トップに就任するのは、所管は、陸軍側の了承は、などである。

 樋端は全ての質問によどみなく答え、堀もその回答に満足した。

 この試案は陸海軍首脳部に提出され、侃侃諤諤の舌戦になったが、結局否決されることになった。しかし陸海の航空隊の連携は強化されることが決定した。



 フィンランドとソ連の国境で発砲事件が起こる。死傷者が出たソ連は、これをフィンランドによる攻撃だと声明を出す。フィンランドは否定するも、ソ連軍がフィンランドへ侵攻。ここに冬戦争と呼ばれる戦いが勃発した。それを迎え撃つのはフィンランド建国の父、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム。彼は元ロシア帝国陸軍士官で、ロシア革命で独立を果たしたフィンランドの軍を率いた歴戦の勇士であった。

 衝突が起こる数ヶ月前からソ連の度重なる領土要求に反対していた政府は、引退していたマンネルヘイムにフィンランド国防軍総司令官への就任を求めた。彼による国防軍の改革や、反共産主義を掲げるヨーロッパ各国や隣国からの援助、ソ連と近しいはずのドイツからの軍事的支援は、フィンランドのような小国には力強かった。しかしマンネルヘイムは軍事的見地から見て、ソ連との戦いでは相当な被害を免れないことを予見していた。冬戦争を生き抜くにはより多くの助けが必要だと。

 しかしあくまで対岸の火事である諸国は、本腰を入れた支援を行わなかった。マンネルヘイムはあらゆる伝手を辿り、あらゆる相手に働きかけた。遠く離れた極東にまでである。

 フィンランド政府は当初、大日本帝国政府からの支援に期待していなかった。日本もソ連と隣り合った国ではあったが、如何せん遠過ぎる。フィンランド支持か中立を引き出せれば良い方だ、という考えであった。

 だがソ連の南下を恐れていた陸軍は政府内の反共派と連携、フィンランドへの大規模支援を決定した。親ソ派の反対もあったが、二・二六事件以来影響力を失った陸軍は驚くべき政治手腕を発揮した。旧関東軍の伏魔殿で活躍した士官たちを利用し、根回しや賄賂、議論や説得などの手段に出た。宿敵であった海軍へ助力を求め、輸送の手筈まで整えた。

 新兵器の実地訓練、フィンランドと日本の連携による対ソ包囲網、同じ立場に立たされたフィンランドへの同情。理由はいくつも挙げられるが、陸軍内部ではフィンランド救援が大半であった。永田鉄山ら統制派の一部は反対したが、関東軍解体や対支一撃論の衰退もあり、同期の小畑敏四郎や岡村寧次ら一夕会メンバーが説得し賛成派に回った。

 親ソ派も今回のフィンランド侵攻に危機感を覚えていたことも追い風となり、フィンランドへの支援決定は素早かった。

 その成果は今、マンネルヘイムの目の前で戦闘態勢を整えつつあった。中国各地で経験を積んだ日本軍の下士官たちが、フィンランド軍の新兵たちに操作方法を伝授している。

 送られたのは練習機となっていた九七式戦闘機三〇機、九七式中戦車チハを改造した九九式砲戦車ホイ三〇両、その他の火器や弾薬であった。

 フォッカーD-21を主力としていたフィンランド空軍だったが、フォッカーを超す数の戦闘機に不安を覚えた。極東の島国で生産された戦闘機が本当に戦えるのか。その心配は模擬空戦で消し飛ぶ。速度でも旋回性能でもフォッカーより優れていた九七式は、派遣された熟練搭乗員の腕も相まって完勝したのだ。

 九九式砲戦車ホイについては、その装甲の薄さを危惧した声も多かったが、対戦車戦闘も可能な七五ミリ加農砲は高評価であった。なお寒冷地でも使用可能にするため改造を行ったため、速度はかなり落ちている。

 マンネルヘイムは思わぬ援軍を頼もしく感じたが、同時に底知れぬ不安を抱いた。このような高性能な兵器を作れる国が、ノモンハン事件では敗北を喫した。日本より国力が劣る我が祖国に、ソ連の赤い津波を耐えることができるのか。そして耐えられるかどうかは私の両肩にかかっている。その重責に押し潰されないだろうか。老将は黙考していた。十二月に入り、すべてが凍りつく季節のころであった。


排水量に書き直し。あ、基準排水量ですので。

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