初陣
関東軍撤兵と門戸開放に続き町田内閣が行ったのは、陸海の軍縮であった。
海軍はマル三計画は縮小、更に既存の旧式艦艇を整理。これにより扶桑型と伊勢型の払い下げ、廃艦が決定する。金剛型も空母への改装を目標に全艦を予備艦にし、代替としてマル三計画の戦艦を高速戦艦として運用することを決定した。なお次のマル四計画では金剛型に匹敵する大型巡洋艦四隻の予算が決定するが、これはマル三計画の戦艦を第一艦隊所属にするため、航空母艦の護衛が必要となったからであった。
陸軍は関東軍の規模を縮小、大陸戦略に使われるはずだった予算を兵器更新に一部流用した。この軍縮で機械化師団の設立は一時中断、のちの戦況に影響を及ぼすことになる。
「成金内閣」と揶揄されることもある町田内閣であったが、浮いた予算枠を国内の発展に利用したことは大成功であった。インフラが完全でない地方や、最新とは言い難い機材ばかりの工場などはこの政策を歓迎した。また中国に欧米の製品が流入することによる中小企業への打撃は、国内工業への惜しみない支援により最低限に抑え「亡国政策」との批判をかわした。
元々円安であったのが手伝い、大陸市場でも高品質な欧米製品とも対抗できた。門戸開放による国内経済の活発化は高橋是清大蔵大臣の予想をはるかに上回り、高橋のあだ名から「達磨景気」と呼ばれた好景気は、日本各地に長城工業地帯を生むことになった。真新しい工場が軒を連ねて連立する様子を、当時の文豪菊池寛が評したものが定着したものである。
一九三七年柳条湖で中国軍による師団規模の反乱が起こると、中国は軍閥内戦と呼ばれる全土を舞台とした戦乱の時代を迎える。軍事関係の企業は我先にと各地の軍閥に武器弾薬を売り込み、軍縮で予備役となった兵士たちは関東軍特務機関の手助けもあり、傭兵や軍事顧問として中国各地に潜り込む。
こうした動きは日本だけに限らず、ナチスによる独裁体制が確立したドイツは現役将官を国民党へ派遣、イギリスやフランスなどは租借地への被害を恐れ防衛への協力を日本へ働きかけた。アメリカは義勇空軍「フライングタイガース」を派遣、事実上の国民党支援に回った。
もっとも大々的だったのはソ連による共産党への軍事支援で、極東における共産党への弾圧を非難、堂々と最新兵器をばら撒いただけでなく張鼓峰周辺を占領するなど、間接直接問わず中国に介入した。中国は一九三六年のスペイン内戦に続く、列強諸国による代理戦争の様を呈し始めていた。内戦による特需で喜ぶ群衆のなかには、隣国で人を殺して儲かったと批判的な知識人もいた。がしかし、好景気の波に流され見えなくなっていった。
「藤本さん、やはりドイツはすごいですね。これほどのものを量産するなんて」
一九三八年、藤本造船中将は四部の江崎岩吉大佐ととある格納庫に来ていた。そこには中国の軍事顧問団から送られてきた各国の兵器が並んでいた。彼らが見ているのはラインメタル社製八八ミリ高射砲だった。
「うん。君の四部は陸さんの兵器なんて関係無いけど、僕のところは陸上で使うからね。一人じゃつまらないし、君を呼んで良かったよ」
陸軍技術本部長の久村種樹中将は中国で鹵獲した兵器を日本へ輸送、研究するための計画を開始していた。陸軍とも関わりの深い空中軍艦の責任者として、藤本も閲覧を許可されたのであった。
「見ろよ。M2とかいうの、軽くて弾も多い。まっすぐ飛ぶって三菱の設計士が褒めてたよ。次の飛行機じゃこれを載せるって計画もあるんだと」
「でもフネに載せるには小さすぎますねえ。せめて二五ミリ以上なくちゃ」
江崎は興味深げに横に並ぶボフォースの対空機関砲を眺めている。四〇ミリに比べれば一二.七ミリなんて確かに豆鉄砲だ。
周囲には各分野の設計士や技術士官が大勢いた。藤本はその大半に挨拶し、先ほど江崎のもとへ戻ってきたばかりであったので、まだほとんどの兵器を見ていなかった。鹵獲兵器は多岐に渡り小さなものは拳銃から、大きいものは重爆撃機に至るまで、世界各国の兵器博覧会のようだった。
藤本は格納庫を巡りソ連のI-16に差しかかったとき、それを熱心に見つめる男の姿に気が付いた。中島飛行機の設計士小山悌であった。彼は陸軍の主力戦闘機である九七式戦闘機の設計しており、新人の意見であっても取り入れることで有名であった。陸軍により藤本は彼と防空戦略研究会で知りあっている。
「随分と短い胴体ですね」
熱心に観察している小山はそこで初めて気が付き、藤本へ会釈する。
「高速性を求めた結果でしょうな。引き込み脚を採用したのもその為でしょう」
ただし、と小山は付け加えた。
「速度じゃうちの九七式と同じ、旋回性能じゃ圧倒的です。機体が重いせいで速度が出しきれてないんですな。降下速度で負けてるぐらいだ」
「なるほど、戦えば九七式が勝つと。でもそんなに難しい顔をして、どうなさったんですか?」
「いやね。こいつは九七式に勝てない。だが負けない方法を思いついちゃいまして……一太刀浴びせたら急降下して体勢を立て直す。それを繰り返されたらちょっときついかもしれません」
藤本は先日の演習結果を思い出した。同様の戦法を取られ、空中軍艦は戦闘機を一機も撃墜できなかったのだ。そのことを小山に話すと何か思いついたらしく、対策案を話し合う約束をして離れていった。
Bf109を見ていた川崎航空機の土井武夫は、愛知時計電機の社員と共に議論していた。川崎と愛知はBf109に使われている液冷エンジンの購入と研究で提携しており、この機体に注目していた。性能は航続距離を除けば、ほぼ全ての分野で国産戦闘機を上回っており、新型機の設計を急がねばならないというのが二社共通の考えだった。鹵獲機体には他にもホーカーハリケーンやモラーヌ・ソルニエもあり、彼らの議論はしばらく続きそうであった。
松田千秋大佐はじっくりと鹵獲兵器を見定めていた。彼自身は大艦巨砲主義を信奉しており、航空機や陸上兵器はお門違いであったが、将来航空機が難敵となることは想像していた。効果的な防空とはなんだ、という動機からここに来たのだが、ここにあるのは戦闘機ばかりで旧式爆撃機が三機ほどあるだけであった。そのどれもが洋上では脅威とならず期待はずれであった松田であったが、彼の興味をひくものがあった。それは対空兵装の数々であった。
四〇ミリ機関砲や八八ミリ高射砲を見ながら松田は思う。長距離から敵を発見後すぐに射撃を開始し、接近するまで持続した射撃が可能であれば、撃墜率は上がるだろう。その際対空砲は一元化された指揮で同一目標へ射撃し、命中率の増加を図ることなど、彼の頭の中では次々と考えが浮かんでいった。その後彼は防空戦略研究会へ出席、持論を披露する。これが山本たちによって「対空射撃ノ進メ」という冊子になり配布された。松田は大艦巨砲主義者でありながら航空の専門家という奇妙な立場になる原因は、この日の検分であったのだろう。
陸軍からは玉田美郎大佐が副官とともに、鹵獲した一号戦車とT-26戦車の検分に来ていた。一号戦車に関しては、歩兵直協を主眼とした戦車と位置付けたが、問題はT-26の方であった。この戦車の装甲こそ薄いが、装備する四五ミリの主砲は装甲を撃ち抜くためのものであったと玉田は感じた。そしてソ連が対戦車戦闘を主眼に置いた、という判断に至る。
現在生産中の九七式中戦車では遠距離から撃破されてしまう。対抗するには接近戦を挑むしかなく、九七式の三八キロという速力であっても被害が拡大するのでは、と懸念する彼は報告書をしたためた。対戦車攻撃力を重視した戦車の製作を提言した報告書は、陸軍上層部では否定的な意見が多く、また対戦車能力を上げた九九式対戦車砲の搭載も考慮されていたため、あまり関心を示さなかった。
その日の防空戦略研究会は大変白熱したものとなった。山本を慕う航空主兵主義者である三和義勇や源田実の戦闘機無用論は、鹵獲したBf109やハリケーンの高性能を目の当たりにし廃論、柴田武雄の主張する「援護機としての戦闘機」の必要さが確認された。また軍事顧問などの報告から、航空基地防衛には敵機早期発見が必須とされ、また既存の航空機では爆撃機護衛には航続距離が足りないことも証明された。これらの報告は纏められ、海軍航空技術廠へと送られた。十二試艦戦の設計はこの報告書に影響を受けたものであった。
また欧州で主力の爆撃機の高速化は著しく、例えばソ連のSB-2爆撃機に対し現在の対空火器では対抗しえないことが判明した。平賀の弟子である造船技師の牧野茂はこのことを重視し、牧野の報告を聞いた平賀は設計中であった艦艇の見直しを決定した。
空中軍艦も議論の的になった。藤本ら設計陣は対地対艦能力を減らしてでも、艦の対空砲を増やす発案をした。実際は重爆撃機による対艦攻撃は、命中率の低さなどからほとんど効果がないと山本たち海軍は反論したが、陸軍の飯村らは移動要塞としての空中軍艦を重視し、歩兵の上空護衛には防空能力が必要と主張した。制空権を長期的に保持できる点で、空中軍艦は航空機に比べて優れていた。
結果、副砲と高角砲を統一し両用砲とすること、制空戦闘機(海軍では局地戦闘機)は速度を重視すること、後に松田の案によって対空砲火を距離によって分けることが決定した。
藤本は帰宅すると妻の鶴と息子の友雄を抱きしめたあと、自室で思案していた。
現在就役している空中軍艦は現役復帰した〈相模〉〈諏訪〉と新規造船枠で造られた〈石見〉〈佐渡〉だけだった。〈相模〉と〈諏訪〉は陸軍の指揮下にあり、海軍は〈石見〉〈佐渡〉の二隻しか保有していない現状を、藤本は残念に感じた。本来ならばあと一四インチ砲搭載の〈浅間〉型が六隻造られる予定であったのだが、軍縮の結果四隻のみとなり、〈浅間〉型は就役間近である〈浅間〉〈常盤〉〈八雲〉と建造途中の〈吾妻〉で打ち止めとなってしまった。
第四次海軍軍備充実計画、通称マル四計画に提出する予定だった空中戦艦を急ぎマル三計画にねじ込み、どうにか空中艦隊の基礎はできそうだが、藤本の野望は果たされていない。彼の脳裏には、空中で艦隊機動を行う艨艟の姿が浮かんでいた。
その日、樋口季一郎少将は何度目かわからない難民への、入国手続き書類に署名していた。彼らはシベリア鉄道オトポール駅まで、はるばるドイツから日本へ避難しにきたのだ。外務大臣廣田弘毅による外務省大改造の結果人員が不足し、中華民国満州臨時政府の要請により出動した関東軍が外交部門を代行していた。同期の安江仙弘大佐率いる特務機関の行動もあり、ナチスによるユダヤ系の迫害から逃れるために日本を目指す難民が増えていたのだ。
外務省は身内意識が強く、コネや血縁で入省する者も多かった。廣田は以前外務省と衝突しており、その体制をひどく嫌っていた。業務に支障をきたすのを承知で、大勢の首切りを行ったのだ。握りつぶされていた報告も多数あり、廣田は陸軍特務機関を使ってまで責任を追求し、結果大分風通しが良くなった。樋口自身それを実感しており、以前より遥かに動きが早いと感心していた。
友人であり同期の石原莞爾が夢見た満州国の残滓に想いを馳せつつも、樋口はひたすら入国許可を出していた。突然扉が乱暴に叩かれた。樋口が部屋に通すと伝令兵は叫ぶように報告した。
「報告いたします!モンゴル軍が満州に侵入、中華民国軍と戦闘に入りました!第二三師団の小松原中将閣下は出動要請に従い、部隊を派遣した模様!」
「侵入した部隊の規模は?」
衝撃を受けた樋口であったが、すぐに冷静になる。以前からモンゴルやソ連との国境は係争地であり、満州国時代から衝突も珍しくない。しかし第二三師団を投入するほどの規模となると前代未聞であった。
「不明であります!中国軍及び先遣隊は壊滅、連絡が取れません!」
この時動いていた部隊はモンゴル軍と中国軍の国境警備隊、日本の第二三師団、ソ連の第五七軍集団の一部であった。モンゴル軍と中国軍の小競り合いが過大に報告され、指揮官小松原道太郎は進軍を決定する。それに反応した第五七軍集団は二個連隊を派遣、第二三師団の先遣隊を包囲撃滅する。徐々に損害が増すなか、小松原は大連の関東軍司令部へ増援を要請、そこで初めて司令部や参謀本部は、大規模な戦闘が起こっていることを知った。
関東軍は制度としては総軍であったものの、指揮下には第三軍と大陸航空軍を残すのみとなっていた。関東軍は航空隊による攻撃を立案、また前線の第二三師団へ増援を送ることにした。航空隊による越境攻撃に本国司令部は反対し躊躇するよう指令を出すが、関東軍参謀の辻政信らはこれを握りつぶし、同じく出撃したソ連航空隊と交戦する。
ソ連の動きは迅速であった。戦力で劣る第五七軍集団に就任したゲオルギー・ジューコフは、スターリンに大規模な増援を約束させ、大規模動員を行った。そうと知らない関東軍は紛争規模を見誤り、兵力の逐次投入という愚行に走る。
関東軍の一部はこれを機に第二の満州国を企ていた。後にノモンハン事件と呼ばれる戦いの終結後、予備役に退いていた石原莞爾が司令部へ直接出向き、彼らを面罵するという事件も起こった。彼らの思想は石原の理論に立脚していたものだったからである。
閑話休題。最初の戦闘から一月後の七月初旬、第三軍の大半がハルハ川東岸へ到着し、同時にソ連軍の主力もハルハ川西岸に陣取ることになる。日本軍は制空権の確保を確信し、南から渡河し敵の退路を断つ作戦を立案した。臨時編成された戦車連隊を投入し電撃的に包囲することを企図したが、兵力に勝るソ連軍は十分な増援を南方に配置しており攻撃失敗。しかも北から渡河、側面を突いてきたソ連の攻勢により大打撃を被った。突撃してきた戦車に対し歩兵による肉弾戦の結果、北部の戦車部隊を半壊させることに成功するが、その勇戦もソ連軍による砲撃には歯が立たなかった。
重砲の砲撃で壊乱した北部の歩兵連隊は後退。戦闘は長期化すると判断した関東軍は越冬に向け陣地構築を開始するも、八月ソ連軍が攻勢をかけ全戦線で後退を余儀なくされた。戦車による大規模夜襲を行い戦果を上げるが、やはり戦況を押し返すほどではなかった。
制空戦においても九七式戦闘機はI-16の追加装甲型により撃墜数が減少、被撃墜が目立つようになる。爆撃機に追いつく速度もないため、陸上部隊は砲撃だけでなく爆撃にも晒されることになっていた。ここにきて陸軍は虎の子の空中軍艦投入を決定した。
飛行巡航艦〈相模〉艦長阪匡身大佐は不安を感じていた。なにしろこれが日本軍所属の空中軍艦としては初の戦闘なのである。〈諏訪〉艦長の西田正雄大佐とは艦隊機動について話し合っており、現状出来る限りのことをしたつもりだった。しかしいざ出撃となると、まだやれることがあったのではないか、と疑心暗鬼になってしまった。
弱気になりかけた阪は自らを叱咤し、横に立つ遣満艦隊司令長官古賀峯一中将へ報告する。
「間もなく作戦空域です」
「速いな。さすがは空中軍艦といったところか」
腕を組む古賀は微笑む。〈相模〉と〈諏訪〉はこれまで二度の大改装を受けており、二〇ノットであった巡航速度が三〇ノットまで上昇している。航続距離も四〇〇〇海里と倍増しているため、大連からハルビンまで無給油で来れるようになっていた。主砲の五〇口径二〇.三センチ連装砲は三基全てが快調で、両用砲として搭載された一二.七センチ連装高角砲も5基全てが敵機を落とさんと待機している。艦首に装備した五〇口径一四センチ単装砲も意志軒昂である。
「航空機見ゆ、三時の方向!」
対空見張りからの報告に古賀は双眼鏡を向ける。どうやら混戦状態のようで、引き込み脚の機体とスパッツを装備した機体が入り乱れている。
古賀は少し悩むと阪に下命した。
「取舵一杯、針路三三〇度」
「針路三三〇度、宜候」
復唱とともに艦橋が左舷へ少し傾く。右舷から旋回用プロペラの轟音がガラスを震わせる。ソ連軍も巨大な浮遊体を認めているだろうが、攻撃する様子はない。機銃程度では損害すら与えられない、と感じているのだろう。
やがて正面に黒い火災煙が立ち上るのを、古賀は双眼鏡越しに認めた。
(そろそろか…)
艦長の阪が弱気になったように、古賀も不安であった。初めて空中軍艦が戦場に現れてから二〇年近くの時が経っている。その間に兵器は威力射程ともに飛躍的に進化している。この艦はその攻撃に耐えられるのだろうか。
いくら考えても不安は消えず、確かめるには実践しかないと古賀は自分に言い聞かせた。
「地上軍との連絡を密にせよ」
同士討ちを防ぐための命令を出し、参謀たちとの作戦を反芻する。敵部隊は火力で我が方を上回り、特に砲兵の差は大きい。我々は地上援護のためにも敵後方の砲陣地を攻撃し、しかるのち特に攻撃の激しい北部の支援に回る、との作戦であった。これは関東軍から〈相模〉へ連絡員として乗り込んでいる有末次大佐も了承済みであった。
「目標重砲陣地。右舷砲撃戦用意」
「了解。目標重砲陣地。撃ち方用意!」
「撃ち方始め!」
轟音と振動が〈相模〉を震わせた。