ネイヴィーブルー
三式高射装置は電探との一体化により盲射撃が可能となり、大抵の場合は一台につき二から四基の機銃や高角砲の管制を行っている。九四式以来の自動追従機能も手慣れて、モーターの焼き切れは大分減っていた。それでも白い煙を吐き出して、旋回を停止してしまうのはよくあることだ。
今目の前で繰り広げられている惨状は、赤熱する砲身や酷使されるモーターを休ませる暇を与えなかった。
高速化し時速七〇〇キロに手を掛けた航空機は、二五ミリ機銃の射程八〇〇〇メートルを四〇秒程度で通り過ぎる。有効射程であればその半分だ。
空中雷撃で使われる噴進爆弾は「タイニー・ティム」で、ロケットモーターに点火すれば時速九〇〇キロメートル。航空機から発射され、母機より当然小さい。
新式射法や照準装置、高射装置の進化により、二五ミリ機銃の命中率は大幅に上がった。しかし航空機や対艦装備の発展は、それすら力不足に陥らせた。
九六式二五ミリの大量生産に徹した海軍であったが、優秀な性能であったが故に後継への移行は遅れている。
製造難度が高いボフォースの四〇ミリは、一部の防空艦の為に生産されている。射程と発射速度を鑑みるに、二五ミリを代替する蓋然性は高い。アメリカの主力であるのも後押ししている。
応急参謀の貴島掬徳の思考は、不意に訪れた振動に遮られた。
被弾し破損した対空砲があれば、その砲が担当していた空域は弾幕が薄くなる。
各艦の応急長が被害状況を纏めて、司令部の応急参謀に伝える。応急参謀は適切な対処を命じて、艦の保全に寄与するのが仕事だ。
だがこれは被害局限が浸透していない頃の、各艦の応急長を育成している最中であったことに対応したものだ。
高速化する戦場では、司令部と連絡を取り合う暇は無い。更には応急長自体が人気になり、被害局限の考え方に習熟した士官が増えた今では、設置から数年で陳腐化しつつある参謀職だ。
それでも〈筑紫〉の損害に耳を傾け、海兵の二期後輩の大森潤一の対応を見定めようとする。
「噴進弾命中、六番八番銃座破損!」
大森が艦内電話を手に怒鳴る。
「新山分隊を向かわせろ!風上から侵入するように念押ししとけ!」
現在〈筑紫〉は二五〇〇メートルの上空でマッピ岬を掠めるような針路で東進。折を見て同時回頭し〈相模〉を先頭に西進。これを繰り返す予定だ。
被弾箇所は左舷側偶数番の機銃座。救援に向かう応急分隊は、火災が起きていた場合に備えて、風上の艦首側から侵入する。空中艦は常に強風の中にいる。艦尾側から侵入しては、風に流された炎が隣の区画まで延焼しかねない。
「長官。間もなく」
「うむ」
大野竹二参謀長の声に、いつも通りの様子で草鹿任一司令長官が頷いた。
「三分後に一斉回頭。方位二七〇!」
マッピ飛行場から余りに離れていては、防空支援の意味がない。第二航空艦隊の戦力を上回る規模なのだ。空中艦隊が援護しなければ、サイパン島の航空基地など鎧袖一触だ。
「此方に向かう降爆、左前方!」
戦闘機の次に邪魔な空中艦を狙った敵は増えていく。急降下爆撃が来た以上は、艦の保全が優先される。先程の命令は履行されないはずだ。
「水平旋回、左ヨー一杯!」
「左ヨー宜候!」
対空射撃を出来るだけ妨げないよう、艦を水平に保ったままの変針だ。艦体を傾けるバンクを併用しエルロンで旋回する方法は、旋回半径が短くなるが、被弾時にバランスを崩し易くなる。
「投弾!投弾!」
当たるか当たらないかは、見張員の言葉からは推察出来ない。〈筑紫〉に向けて落下中なのか、それとも既に艦腹を過ぎ去ってしまったのか。
嗚呼。司令塔ではなく艦橋なら、落下する爆弾を確認出来るのに。
貴島の煩悶を鎮めるように、艦橋に残った猪口敏平艦長の声が艦内スピーカーから響いた。
「只今の敵弾は回避!」
溜息が溢れた。貴島の口からではない。
彼が溜息の主を探すと、拳を緩めた草鹿と目が合った。
若干罰の悪そうな笑みを浮かべた姿に、貴島は場違いな安心感を心に浮かべた。
長官でさえ息を止めてしまうのだ。いわんや自分が緊張しない訳があるまい。
「右下方より噴進弾搭載と思われる機体!」
今度はスピーカーでも伝声管でもなく、司令塔の電測員の声が直接報じた。
重力に抗うロケットモーターならば、打ち上げることも可能だ。命中精度は酷く低下するが、それを距離で補う手段に出たらしい。
下方から接近するTBFは、戦闘後に聞いた話では、前方機銃を点射して距離を測っていたらしい。派手な曳光弾がションベン弾になるのを機銃手が確認している。
銃弾が艦の装甲に当たって跳ね返ったのを確認すると、大半のTBFがタイニー・ティムを放った。
半数近くが直進すら出来ずに、明後日の方向に煙と共に飛び去った。残りの半数は〈筑紫〉の手前で重力に負け、お辞儀をするように落ちていった。
射角を正確に保っていた二発が、〈筑紫〉の下腹部を抉った。
司令塔の床が跳ね上がったように感じた瞬間、貴島を含めた多くの乗員が転倒していた。呻き声が漏れ出す。
応急長時代の心得通り、いち早く立ち上がったのが悪かった。新たな衝撃に再び揉まれ、背中をしこたまぶつけてしまった。
しばらく息をするのも苦しく、視界が赤くちらついていた。
「貴島大佐!貴島大佐!」
自分を呼ぶ声がどこか遠くから聞こえるようだ。肩と背中を支えられて、やっと視界が明るくなる。
「貴島大佐、出血は見られませんが、骨折などの恐れが」
「大丈夫だ。背中を打っただけだ」
医療班員ではなく応急班員の装備を身に付けた兵が、心配そうに立ち上がる貴島を支えた。
目線を上げると、応急長の姿は通信機の前にあった。複数箇所に渡る被害が出たのは感じ取れるが、彼の言葉だけでは何が起きたか分からない。
「君、何が起きたか教えてくれないか」
先ほどから腕などを触診している応急班員は、視線を腕から離さずに語った。
「体当たりです。目測を誤ったのか、アヴェンジャーが被弾箇所に突っ込みました。火災発生中です」
タイニー・ティム自体は装甲が防げるが、同じ箇所に連続して命中したのはよろしくない。
「右舷三時方向より降爆、接近!」
アメリカ軍が応急処置を待ってくれる道理は無い。
むしろ手負いの熊に群がる狼の如く、数を頼みに喉笛を喰い千切らんと襲い掛かる。
貴島に出来ることは無い。
彼に許されたのはただ、司令塔で息を整えることだけであった。
初日の空襲で、サイパン島の航空基地全てに爆弾が落下した。
七〇〇機を超える攻撃部隊に対して、第二航空艦隊は二〇〇機の雷電改をぶつけた。結果、およそ三〇〇から四〇〇機を撃墜と報告。しかしながら、実際の戦果は半分程度と思われた。
被撃墜は一〇〇機程度。無事な機体はほとんど無い。
マッピとラウラウ、アスリートには多くの爆弾が落ちた。
マッピの滑走路は二本とも大きく掘り返され、埋設した燃料タンクは炎上を続けている。
ラウラウは爆撃機の掩蔽壕をしらみ潰しに叩かれた。二式陸攻「深山」を始めとした機体は、執拗な攻撃を受けて骸を晒している。
サイパン島最大のアスリート飛行場は、その価値に応じた大部隊の攻撃を受けた。「ル」の形に建設された三本の滑走路は、旧式とはいえ多くの対空火器に守られていた。米軍機は対空砲火を気にも留めず、次々と急降下爆撃を繰り返した。三式高射装置を地上に転用した対空砲陣地は、その威力を発揮しつつも、殺到するTBFやSB2Cの爆弾を受け、又はF6Fの執拗な銃撃により沈黙を余儀なくされた。
アメリカのシービーズに比べれば劣るが、急速造成が可能な工事車両は第二航空艦隊の指揮下にある。しかし迂闊にローラー車やバックホーを引っ張り出せば、空襲に曝される危険があり、夜間にこそこそと動かすしかない。
唯一、ススペ飛行場だけは使用可能だが、市街地に隣接した小規模な滑走路は戦闘機にしか使えない。
サイパン島を脱出した爆撃機はテニアン島の残機と合流し、捲土重来を期して耐え忍ぶしかなかった。
硫黄島からの補給は止まっている。硫黄島からマリアナ諸島の洋上に、アメリカ艦隊が屯しているからだ。グアムでの迎撃戦が激化するにつれて戦闘機の拡充は進めており、第二航空艦隊の戦闘機は定数二〇〇機から、三〇〇機程度まで増えていた。その増加分を今回の迎撃で丸々損失した形だ。
アスリート飛行場の近く。半地下となったベトンの建物は、第二航空艦隊の作戦指揮所となっている。煙草の煙は少ないが、滑走路周辺から漂う焦げ臭さが室内に渦巻いていた。
「午後」
小澤治三郎司令長官が命じる。
「偵察機が艦隊を見つけたとしても、攻撃はしない」
それを聞いた参謀長の山縣正郷少将が悔しげに呟いた。
「東海を除いた三〇機の陸攻では、余程の幸運に恵まれねば米艦隊に届きませんからな。よしんば空母の一隻や二隻叩いたところで、陸攻及び護衛機の帰還は厳しい」
ただでさえ戦闘機は足りていない。ここで投機的な作戦で損耗出来る余裕はない。
嫌な空気が室内に沈澱する。
「御再考を!」
突如上がった声に、司令部の意識が集中した。
声の主は七二一航空戦隊を指揮する岡村基春大佐だ。
「このまま、地上に張り付いたままの搭乗員が可哀想です。何も出来ないままの彼らの無念を、少しでも、少しでも慮ってくださるのなら!」
「だが、護衛機を出す余裕すら……」
山縣の苦言に岡村が胸元から紙片を取り出した。
「爆撃機のみ、かつ夜間爆撃とします。技量優秀の者を選抜し、彼らの血判状もございます!」
いささか常軌を逸した声色だ。目を爛々と輝かせた姿に、山縣らは気圧された。
信義を重んじる小澤は、岡村の上奏を断りきれない。山縣が壁となり、兵から恨まれようとも止めるべきだ。
そう思い直した山縣が、意を決し一歩前に出た瞬間。
「ならん」
最奥で仁王立ちした小澤が吠えた。
「搭乗員の士気が……!」
「ならんと言っている」
にべもなく拒否された岡村は、血判状をくしやくしゃに握りしめつつ敬礼。そのまま指揮所を出ていった。
「よろしいのですか」
山縣も出撃に反対してはいるが、心情として搭乗員の悔しさは分かる。それを一刀両断した小澤が、これまでの彼とは結び付かなかった。
「我々の満足の為に、戦を失う訳にはいかんのだ」
第一空中艦隊旗艦〈筑紫〉。司令塔の空気は重い。
外が見える艦橋と違い、装甲に囲われた司令塔であることも影響しているのだろうか。
〈八雲〉〈松島〉が沈んだ。
〈筑紫〉に比べて防御力で劣る〈浅間〉型と改〈浅間〉型の二隻は、対艦爆弾と噴進弾を猛射を受けた。
ラウラウ湾上空で〈八雲〉は全推機を喪失。ゆっくりと高度を落としつつ、砲台として留まっていた。しかし他の二隻が滑走路の上空へと離れたところを、一〇〇〇キロ級の爆弾を積んだTBFが襲撃。
「タイニー・ティム」や五〇〇キロ級を耐え抜いた装甲を、自由落下する一六インチ艦砲並みの重量が貫徹した。主砲塔の天蓋を直撃した爆弾は、砲塔内の全てを爆砕した。四五口径長の砲身は押し出され、ラウラウ湾へと飛沫を上げた。対艦戦闘は無いとして空にしてあった揚弾機、砲塔側の照準を担当する測距儀などは、ただの屑鉄と変わらないものになった。
四基ある主砲塔のうち二基を抜かれた〈八雲〉だが、それでもしぶとく高角砲や機銃が応戦していた。彼女の致命傷になったのは、煙突基部を突き抜けた一〇〇〇キロ級爆弾であった。
〈八雲〉の浮遊機関が一部破損に加え、機関に蒸気を送るボイラーが半壊した。出力を維持出来なくなった〈八雲〉はゆっくりと偵察艦橋を水没させると、つんのめったように艦首からラウラウ湾に突っ込んだ。
満遍なく空けられた破口から浸水しつつも、〈八雲〉の乗員は多くが脱出したのが救いだ。
もう一隻の〈松島〉は、まさしくアスリート飛行場の「盾」となって沈んだ。飛行場の真上に滑り込むと、その身に多くの爆弾を受けたのだ。
対地用の即発弾を全身に喰らい、艦上建造物をずたずたに引き裂かれた〈松島〉。艦橋と共に艦長馬場良文を失い、応急長の指揮でアスリート飛行場の南側に不時着した。
浮遊機関を直接破損した訳ではないが、電路や煙路、送油管を切り刻まれた〈松島〉は、浮揚出来るだけの鉄の塊になってしまった。
応急班を主軸に突貫修理が行われているが、一ヶ月で浮揚出来るかどうかといった進み具合だ。
航空戦力が残るテニアン島、ロタ島、グアム島に対して、明日以降の空襲が予想された。
テニアン島の第一、第二、第三飛行場。これらは空母部隊による次の目標という推測だ。
平坦で広い滑走路を造成出来たテニアンだが、サイパンから避難した機体でごった返していた。第二航空艦隊はアスリート飛行場のみに復旧工事を絞り、第七軍通称号「沖」の陣地設定が主となった。上陸前にアメリカ艦隊を撃退出来れば良いが、最悪なことに備える必要がある。
B-29の襲来も続いており、グアムとロタはその戦力を削られている。第二航空軍はグアムのオロテ飛行場とアガナ飛行場の戦闘機で耐えている。新しい北飛行場の爆撃機部隊も、念入りな隠蔽により被害は僅少だ。
ロタ飛行場に隣接する広いトタン屋根の下では、グアムで損傷した戦闘機の整備が常に進められている。グアムが盾になっている間、後詰めのロタでは多くの機体が再びの翼を得ていた。
内地の工場も顔負けな機械が並んでいるそこでは、中島のハ45「誉」や三菱のハ42「木星」ハ43「水星」を重整備を余裕でこなした。川崎のハ60「マーリン」やハインケル愛知のハ61「アツタ」でさえ、稼働率を八割以上に保っているのだ。
ロタ島をやられたら、マリアナ航空要塞は瓦解する。それが第二航空艦隊と第二航空軍の共通認識であった。
「第二航空艦隊司令部からは、第一空中艦隊の後退を進言された」
草鹿は憤懣やる方ない表情を浮かべた。
同期の小澤に約束したにも関わらず、サイパン島の航空基地は壊滅的打撃を受けた。その上、空中艦を二隻撃沈されたのだ。残る空中艦が小破や中破と判断されようとも、戦場に残り戦いたかった。
だが、このままでは空中艦は馬鹿でかい的でしかない。後退すれば、空中艦補給艦〈秋津洲〉や〈八島〉で修理出来る。小笠原諸島まで挺身する工作艦〈明石〉と合流してもいい。
「必ず舞い戻るぞ」
拳が白くなるほど力を込めた草鹿は、未だ姿見せぬ米艦隊を睨み付けていた。
サイパン島の無力化に成功した第三艦隊の士気に比例するかのように、補給を担当する在エニウェトク司令部の忙しさは高まっていった。
ジョン・ヘンリー・タワーズ太平洋艦隊司令長官は、第三艦隊の戦果を大いに喜んだ。
「マリアナは三日で落ち、万全の態勢で帝国海軍を迎え撃てる」と司令部員の中には嘯く者もいた。
けちが付き始めたのは、航空機を補充する〈カサブランカ〉級の〈コレギドー〉が潜水艦に襲われた時だ。
損耗した艦載機が思いの外多かったが、その程度は事前に想定されていた。第三二任務部隊への補充の為、F6Fが飛行甲板に並べられた。
先頭の機体がカタパルトに乗せられた直後、護衛駆逐艦から「雷跡」の報が飛び込んだ。
小型の護衛空母とはいえ、満載排水量一一〇〇〇トンを超える船体と、最高速度二〇ノット弱のレシプロ機関を有している。潜水艦にとって美味しい獲物だ。
「哨戒機は何をやっていた!」
F6Fのパイロットは愚痴を吐き捨て、操縦席から飛び降りた。
第三一・一任務群の司令兼〈コレギドー〉艦長クラレンス・マクラスキー・ジュニア大佐の声が響く。
「発艦中止!取り舵一杯!」
〈コレギドー〉の艦首がゆっくりと振られる。雷跡は左舷前方から。魚雷と正対し面積を少しでも減らすのだ。
甲板の航空機が落下しないよう、乗員が主翼の上に登る様子が見えた。中にはプロペラを回している機もある。動くに動けないパイロットは、狭い操縦席で戦々恐々としているだろう。
不意に轟音が鳴り響く。
護衛駆逐艦〈ギルモア〉がいた辺りに、巨大な水柱がそそり立っていた。
マクラスキーは血の気が引いた。
回頭を続けるしかない〈コレギドー〉の狭い艦橋からは、海面がひどく近くに見える。床も大きく右舷側に傾いている。
そのためマクラスキーの両眼は、本来ならば見落としてしまうような、鈍く光る影に気が付いてしまった。
彼が声を上げる前に舷側に吸い込まれたそれは、〈コレギドー〉に大きな破綻をもたらした。艦橋を根本から圧壊させ、中の乗員ごと重油混じりの海に叩き込んだのだ。
〈コレギドー〉に併走していた同型艦〈ブレナン〉は、旗艦に訪れた破滅を目の当たりにし、急いで後進に転じようとした。
その艦尾を襲った酸素魚雷は、スクリュープロペラを大きく歪ませた。折れ曲がったプロペラ軸が艦内を暴れ回り、艦底のそこかしこから浸水が始まる。喫水を大きく深くした〈ブレナン〉から、海へと乗員が次々と飛び込んでいく。飛行甲板の戦闘機の間を縫うように、パイロットや整備員が逃げ惑っている。
〈ソロモンズ〉が〈ブレナン〉の惨劇を目撃し、最大戦速で舵を切ったのは当然の判断であった。斜め前を進む〈ラボール〉の右舷に、炸薬混じりの黒い水柱がそそり立った点からも正しい判断だった。
しかし〈コレギドー〉より早く発艦を開始していた〈ソロモンズ〉は、飛行甲板から乗員が既に掃けた後だった。航空機を固定する前に、面舵で艦体は大きく傾斜を始めた。
F6Fが横滑りし、機銃のスポンソンに転がり込んだ。機銃の操作員は大慌てで座席から飛び出すと、直後にそこを巨大な主翼が押し潰した。
横滑りし前後の友軍機乗り上げる機体や、主脚が座屈しプロペラが甲板を叩く機体が出た。
「潜水艦一隻撃沈」
護衛駆逐艦〈エヴァーツ〉が臨時の旗艦〈セント・ロー〉に報告した時には、護衛空母三隻が大破し、二隻が発着艦不能に陥っていた。〈コレギドー〉と〈ブレナン〉は非装甲の弾薬庫が誘爆し、「まだ浮いているだけ」といった惨状だ。
これによりTG31・1は補給任務を全う出来なくなった。部隊には無傷の護衛空母が二隻あるが、これらは部隊直衛を任されているからだ。
五つの任務群の内、襲撃を受けたのはTG31・1と第三一・五任務群の二つ。TG31・5は〈マジュロ〉の喪失のみ。
三つの任務群はそれぞれ艦載機の補充に成功。補充を受けた任務部隊は再度の攻撃が可能になったが、第三二任務部隊と第三九任務部隊は二日目での補充が出来ずに終わった。
TF39はTG31・5の補充を翌日に繰り下げればいいが、問題はTF32だ。補充すべき艦載機はほとんどが海の藻屑となったのだ。
TF32のハルゼー司令官は激怒したが、これはいつもの事だ。憤然とした頭の冷静な部分が、TF32の攻撃力を計算し始めた。
喪失したのは三ダース超。一年前であれば、この程度の損害で撤退など決して選択肢に無かった。
「補給は諦め、攻撃を続ける!」
ハルゼーのガッツは攻撃を選んだ。
ただし二日目の攻撃は二個任務部隊を欠いた状態で、サイパン北部の掃討のみ。三日目に再度の総攻撃を行い、テニアンを撃滅する予定だ。
その後、ラエとグアムも艦隊によって撃破する。陸軍航空隊に一泡吹かせてやるのだ。
一度壊滅したマリアナならば、B-29の爆撃を継続すればいい。本命の連合艦隊が現れ、雌雄を決するのを手ぐすね引いて待てばいい。
ジャップが宣伝する航空要塞など、この程度だ。真実の姿を曝け出しその膝を屈するまで、そこまで時間は要らないはずだ。
樫出勇が「B公」と呼ぶB-29は、その細長い主翼も、段の無い機首も、壁のような尾翼も全てが酷く丈夫だ。二〇ミリが凪いだところで、全く堪えたような様子を見せない。
千夜一夜物語のロック鳥の如き怪物だが、二〇ミリを繰り返し発動機に喰らえばプロペラを止める。機首が変形するまで叩けば、操縦士を失い墜落する。
二〇日から続く戦闘により、搭乗員は交代する暇も少ない。少数による通り魔的攻撃は、樫出達の体力と気力を順調に削っていった。もしこれが狙いだとすれば、米軍には相当に意地の悪い奴がいるのだろう。
それでも樫出を始めとした陸軍航空兵は、未だにグアムを保持しロタへの侵入を許していない。
ロタ島から上がる機体は継ぎが当てられた機体が目立つ。樫出の乗機も、主翼を濃緑色と乳白色に加え、ジュラルミンの銀色が光を反射している。
「銀翼の撃墜王」と囃し立てる戦友と、「ほまれ」の紫煙を燻らせたのは数刻前。
これまでと違い、樫出が所属する飛行第一三戦隊は機首を南ではなく東に向けていた。
サイパンとテニアンの第二航空艦隊が昨日、全ての航空基地を破壊された。五〇〇機を超える攻撃隊は、海軍第二航空艦隊をあっという間に蹂躙したのだ。
空戦後そのままに、テニアンからロタへ退避してきた機体もいた。一個中隊程度ではあるが、陸軍の指揮下に移った彼らの雷電改は、樫出の右方で頼もしい快音を響かせている。
飛行第一三戦隊は他のいくつかの戦隊と共に、米軍最強の攻撃部隊とぶつかる。恐らくこれが自分の最期の戦いになるだろう。
彼が離陸する前には、ロタの航空基地の店仕舞いが進められていた。整備員が機械をトロッコに乗せ、地下壕へと押していく。駐機場横に出入りの邪魔になりそうな土嚢の高まりが築かれており、九三式重機関銃が据えられていた。
あたかも自分が帰還しない前提で動いているようで腹が立ったが、銃手が立ち上がり敬礼した瞬間に怒りは萎んでしまった。
「道風よりホトトギス」
戦闘機に混じって唯一、攻撃機である彗星から戦隊無線が飛んだ。
今日の符牒は花札。ありふれているが、それだけに覚えやすい。
空中管制から飛行第一三戦隊への命令は簡潔明瞭だった。
「敵編隊に対し上方より攻撃せよ。以上」
「ホトトギス、上方より攻撃。諒解」
「ホトトギスの後にはツバメがつく。留意せよ」
樫出の手に力が入る。
飛行第二二戦隊は四式戦闘機を装備した隊。つまりは後輩の木村貞光が率いている。
下手な姿は見せられない。
衆寡敵せずと油断しているであろう米軍機に、一泡吹かせてやろう。
先ほどまで感じていた悲壮さは最早消し飛んだ。樫出の背中を押すのは、先達としての矜持であった。
どこを見ても濃紺の機体ばかりであった。
半数が攻撃機だとして、直衛だけで二〇〇機は超えている。
対する第二航空軍が抽出出来たのは八四機。脱落も無く正面からぶつかって、勝てるとは思えない。
機動部隊が到着するまでに、少しでも数を減らすための捨て石。残置兵。捨てがまり。
「掻き回すぞ、西田!」
樫出は加速させた。水エタノール噴射と緩降下で、あっという間に時速七〇〇キロに達する。
高度は七〇〇〇メートルから六〇〇〇メートルへと急激に降り、単なる蒼海に見えた景色に、粒のような米軍機がちらちらと瞬いた。
五〇〇〇メートルで縦長の一塊となって進む編隊は、三々五々どうにか集まっている様子で、樫出が知る攻撃編隊とは程遠い姿だった。
「小隊は維持、一撃離脱に徹する。以上!」
動力降下で臓腑が浮き上がる中、F6Fの樽のような胴体が迫る。
強引に上向きになった濃紺の両翼から十二.七ミリが降り掛かる直前、樫出は雷電改を滑らせた。そのまま緩横転で敵弾を交わすと、敵二番機が慌てたように此方に機首を巡らせる。
樫出機と擦れ違う直前、視野狭窄に陥った二番機のエンジンカウルに二〇ミリが突き刺す。僚機、西田は初めから二番機狙いだった。
速度を殺さない程度に、操縦桿を手前に引いた。
「ジャクばっかりか?」
仲間が撃墜されてようやく、腹の下に抱えた増槽を投下する機体が目立つ。残余の燃料に陽光が反射しきらめくのが見えた。
対応が遅い。
油断大敵の敵地だぞ。
樫出は段々と腹が立ち始めた。
SB2C「ヘルダイバー」の巨大な尾翼が目に入ると、胸の内に湧き上がる熱をぶつけると決めた。
綺麗な四機編隊を連ねた降爆群は、突っ込んでくる雷電改に向けて火箭を飛ばす。軽く自機を揺すると統制された旋回機銃は、ただばら撒くだけの花火に変わった。
先頭のSB2Cに狙いを定め、真一文字に斬り込む。後部銃座は狂騒に駆られ、射程を無視して射撃を続けている。
軽く降下。増速して下方から爆弾槽を貫く。
誘爆こそしないが、主翼から炎が踊り出る。酔っ払ったように機体がふらついたところに、西田がとどめの二〇ミリを叩き込んだ。
「隊長!後方からヘルキャット!」
三番機の玉垣の声が受信機からこだまする。
「機織り戦法だ!第一分隊が囮、第二分隊で捕らえろ!」
樫出は西田と繋がったように、雷電改を左右に滑らせた。
雷電改が苦手な宙返りを避け、横転を繰り返す。小まめに僚機に動きを伝えてやれば、F6Fを翻弄出来る。
焦れた敵機が深追いしたところを、玉垣の二〇ミリが叩いた。弾薬が誘爆したのか、主翼を弾けさせたF6Fは破片を撒き散らしながら落ちていく。漫然と小隊長機に追従していた敵二番機もまた、煙を曳いて海へと吸い込まれていった。
だが樫出たちにはそれを確認する暇は無かった。頭の片隅で戦果確認を誘う声がするが、既に新たなF6Fが樫出小隊に切り掛かっていた。
二〇ミリの残弾はまだ余裕がある。
いざとなれば体当たりだ。




