西比利亜と緬甸
大陸派遣軍は関東軍解体後、中国にて活動する唯一の方面軍だ。司令官は岡村寧次陸軍大将。第九軍が租界地などを防衛し、第一〇軍が国民党や繋がりがある軍閥への直接支援を行なっている。また、作戦行動に不可欠な航空戦力として、田副登の第一航空軍も大陸派遣軍の隷下に位置する。
それらの正規戦力とは別に、各方面に軍顧問団が送られている。共産党系の軍閥にソ連の軍顧問団が派遣されているのに対抗したもので、共通の敵、例えば宗教家による蜂起では、赤軍士官と皇軍士官が共同作戦を行う事もあった。
更に第九軍が治安維持と村落復興を専門とする中、地方の抗日感情は薄れつつある。綱紀粛正を徹底する岡村の政策も効果を発揮していた。
四三年。師走も半ばであるこの日、第九軍の司令官である根本博は重大な任務を負っていた。中国共産党の周恩来との会談である。
周恩来は中国共産党の毛沢東を支える右腕だ。中国の共産党系は現在、中国共産党と中国人民共産党に別れている。人民共産党とは共産党の王明が、よりソ連に近付くために独立したものだ。
人民共産党は共産党と接近せず、ソ連からの支援の大半を獲得している。王が毛と不仲であったのが原因だが、国民党攻勢の前線である延安に居を構える共産党は、急速に継戦能力を失いつつあった。
人民共産党は満州里を拠点としており、鉄路を通じてソ連からの物資が直接手に入る。しかし延安は奉天派と国民党が支配する内蒙古に遮られ、物資も少しずつしか得られない状況だ。
そんな状況での周からの招きに、当初は第九軍内では反対意見が多かった。大陸派遣軍の多くは奉天派を支援しており、敵である共産党と内通するのは信義に悖る。会談のためというが暗殺目的ではなかろうか。
しかし根本は周と会う事を決めた。
大陸派遣軍は二個軍と一個航空軍である。九軍には四個師団、一〇軍には八個師団、一航空軍には三〇〇機ほどが含まれる。九軍所属の師団は砲が少なく、輜重兵連隊や野戦病院要員が主であった。
一〇軍こそが主力であったが、一個師団が哈爾賓に駐留している以外は、延安攻撃を奉天軍閥と共に行なっている。
ソ連がモスクワ失陥の後、スターリングラードに政府機能を移転した。スターリン書記長の居場所は不明だが、スターリングラードとウラル工業地帯が無事である限り、闘争を続けるとしている。
ソ連極東方面軍では戦力をスターリングラードに送り続けており、国境線の防衛力はかなりの弱体化が見てとれた。これを奇貨とし、奉天派では人民共産党の撃滅を企図している。哈爾賓の師団はその支援だ。
河北や江南では、上海などの旧直隷派が国民党によって駆逐されたが、広西軍閥と奉天派が国民党を南北から圧迫している。広西軍閥は国共内戦の隙を突き伸張していったため、純粋な戦力では他の軍閥には及ばない。しかし海南島などを日本海軍の基地として提供する等、日本へ接近している。旧満州国建国に関わった人々が暗躍しているという話もある。
更には西域や雲南に軍閥が跳梁し、国民党の腐敗が激しいこともあり、国民党の足場は頼りないものであった。
ソ連を撃つなら今だ。いや、支那支配こそ。
陸軍の強硬派は調子が良い事ばかり吹かしている。参謀本部では一〇個師団を包する第四軍を準備し、平沼騏一郎総理大臣に大陸派遣軍の拡充を訴えているそうだ。法曹界右派の重鎮平沼といえども、流石に関東軍の再来は防ぎたいらしく、今のところ第四軍は南方に転用される予定だ。
根本の主任務は共産党軍の殲滅。その首魁の腹心と会う決定は、根本にとって難しいものであった。
「根本閣下、ありがとうございます」
一式半装軌装甲兵車の荷台、一二人の完全装備の兵が入れる空間では、根本が端材で作った椅子に座っている。
隣で彼に話しかけるのは、男装の中華民国軍人であった。名を川島芳子、愛新覚羅の血を引く清の皇族だ。
「川島大佐。本職はただ、話し合うだけであります。共産党が何を要求し、何を切り捨てるか。場合によってはそのまま席を蹴る事も有り得ます」
根本の鋭い視線に気が付かないふりをしつつ、川島は書類に目を通す。
張学良にはノモンハンの際に世話になっていた。根本が行方不明になった司令部に代わり撤退の指揮を執った時、まだ敵対的であったはずの奉天派を押し留めてくれたのが、仇敵として帝国陸軍を怨む張だったのだ。彼の頼みである以上、根本には断る事は出来なかった。
ホハが止まったのは、兼好法師の住み家の如き東屋であった。土壁は穴だらけ、窓枠は取り払われて屋根板は捲れ上がっていた。
根本が砂埃を立てて荷台から飛び降りる。迎えに出てきたのは東屋に似つかわしくない凛々しい男であった。
「根本将軍。よくぞ来てくださいました。我々に会っていただくだけでも驚きました」
「旧知からの頼みでしたからな。周さん、初めまして。戦では何度も相見えましたが、話し合いで会うとは思いませんでしたぞ」
二人は手を握り笑顔を浮かべる。周の目は感謝を浮かべていた。
「周先生。ここは風が吹いて砂が舞います。中へ」
川島の勧めに応じて二人は東屋に入る。根本は己の目を疑った。
座っているのは奉天派の張学良、国民党の蒋介石の二人であった。対面しているもうひとりのふっくらとした頬の男は、顔触れからして周の上官だろう。
「根本将軍、また会ったな」
蒋はすっきりとした顔に笑みを浮かべ、悪戯が成功した童子のような調子だ。張は気品のある顔を歪めて同じく笑っている。
奥の男が立ち上がり根本の前に立つ。
「貴方が根本将軍か。私は毛沢東、共産党主席であり中華人民だ」
根本は急速に自信を失いつつあった。自分一人では無理かもしれない。彼の横にいる川島を恨む心地であった。
数週間後、延安攻略は失敗する。奉天派と国民党は粛々と撤退し、共産党は己が勝利を宣伝した。大陸派遣軍は留まり撤退する様子を見せない。
敗北しぼろぼろになった奉天派に対して、人民共産党が攻撃を仕掛ける。完全充足状態の奉天派と帝国陸軍によって敗北すると、いつも通りソ連領内まで後退した。
いつもならばここで追撃は終わり、人民共産党は再起を図るはずであった。ソ連領内への進撃はソ連の反発を受ける上、奉天派にはそれを可能にする戦力はなかった。
しかし今回の奉天派は止まらない。人民共産党は一部が共産党を頼り南進し、ソ連を頼る多数派は包囲された満州里から北進した。
北京方面の奉天派軍は全てを追撃に回され、その隙を国民党が攻撃することも、共産党が侵食することもなかった。
南下した部隊は共産党に吸収され、共産党と国民党の国共合作が為された事を知る。北進した部隊はソ連に吸収される前に捕捉され、海哈爾で壊滅した。これで中国の共産勢力は共産党に統一される事になる。
ソ連に人民共産党を復活させる余裕はない。スターリングラードでの決戦に敗れたクリメント・ヴォロシーロフが更迭され、ズヴェルドロフスクにはニコライ・ヴァトゥーチンの祖国防衛軍が立て籠もるが、生産拠点であるズヴェルドロフスクが攻撃されたことで、ソ連の工業力は急激に低下していった。
王は極東人民共産党主席を馘首される。同時に日本からの攻撃を恐れた指導者達は、極東ソ連軍の移送を止め、ゲオルギー・ジューコフの怒りを買う。ジューコフはアルハンゲリスクへの反攻作戦を無期限延期した上で、極東ソ連軍の移送を推し進めた。
中国、北京。ここで中華共和国の成立が発表された。奉天派は国民党に帰順。共産党は改めて国共合作の原則を守る条件で、中華共和国政府に参加した。
政府内の多数は共産党出身者であり、旧軍閥出身者は張学良が行政院のトップに座する以外は目立たない。外交部に周恩来、監察院に毛沢東が入るなど、かなりの譲歩がなされたのだった。
日本は北京での式典に参加。同様に参加したアメリカとパイプを作るに至る。この時北京に派遣されたのは吉田茂、対するアメリカ外交官はジョン・フォスター・ダレスであった。
四四年初頭、緬甸戦線。密林の中、島田豊作は指揮下の戦車中隊を窪地に潜ませていた。
指揮戦車を合わせて一〇両の一式中戦車が丸々隠れられる黒焦げの穴は、一トン爆弾が掘削したものだ。深い密林を根こそぎ吹き飛ばすべく蛇の目の重爆により行われた爆撃だった。出来た穴は戦車壕になる程度の穴だけで、鬱蒼とした密林はそのままであった。
先行させた九七式軽装甲車がM4シャーマン戦車から一目散に逃げ出したのは、ここから八〇〇メートル程の位置だ。この穴は夜の闇に紛れ、戦車がいるようには見えない。統制エンジンの爆音だけは如何ともし難く、手動による砲塔旋回になっているが。
車両は撃破されつつも乗員だけで脱出し敵の位置を報告した戦車長は、もう一両のテケと共に連隊本部へ後送した。中隊規模のシャーマンに同数のチヘだけでは全滅しかねない。本部の尻を叩くように言い含めていた。
チヘの装甲に切られた隙間から、シャーマンの力強い履帯音が響く。一式戦車砲の四七ミリでは、側面や後部を至近距離から撃たねばならない強敵だ。
初期ビルマ戦線での敵戦車はM3軽戦車が主であったお陰でチハでも対抗出来たが、M3中戦車(米軍ではリー、英軍仕様はグラント)が出てきてからは苦戦していた。長砲身の四七ミリ戦車砲を持つチヘならば、機動力を活かしてM3にも勝てる。戦車第一連隊がビルマに送られたのはその為だ。
しかし七五ミリを全周砲塔に納め装甲も分厚く傾斜したM4は、奇襲以外では撃破出来ない強敵であった。これまで第一中隊はM4との交戦を避け、友軍の砲戦車の前に誘き出し処理を任せていた。今回は第二中隊の中戦車が砲戦車中隊に支援を求めているので、連隊本部か一八師団付きの野戦砲兵に助けてもらう必要がある。後者は間に合わないだろうから、本部の砲戦車が来るのを願うしかない。
「大尉どの」
副官が島田に耳打ちした。木々の間からオリーブドラブのM4を視認したのだ。視認する距離では交戦は避けられない。
それにこのまま進ませれば後方のマンダレーが脅かされる。マンダレーにはラングーンより運ばれた物資の集積所があり、攻撃されれば大損害は免れない。
「先頭を叩いたら一気に飛び出すぞ。止まるなよ、行進射だ。随伴は先頭への射撃と同時に煙幕を張れ」
歩兵第一一二連隊の随伴歩兵は黒く塗った顔を島田に向け、さっと軽く敬礼する。左腕で抱えているのはリー・エンフィールド銃、イギリスからの分捕り品だ。
歩兵第一一二連隊の装備は英国製や米国製が多い。昔ながらの兵隊ならば「小銃様」となるが、連隊長の棚橋真作は柔軟な思考を持った男だ。火力不足を補う為に、員数外の兵器を活用している。
陸海軍兵器統合の嵐のお陰か、鹵獲品のビッカース重機関銃に装填されているのは九六式軽機関銃の銃弾だ。日本陸軍の七.七ミリは所謂ブリティッシュ弾となっていた。旧来の六.五ミリからの一斉切り替えは困難であったが、ノモンハン事件を機に軍備更新が素早く進んでいた。在庫の六.五ミリの銃と弾は中国に渡り、奉天派の装備となっている。ここには無いが九二式重機関銃も同じ英国規格の七.七ミリ実包であり、イギリス軍が捨てていった銃弾は兵站改善に貢献していた。
「あの木に差し掛かったら撃つ。エンジン用意。歩兵は煙幕を撃ち掛けろ」
テケとの戦闘で警戒している車体正面には白い星が描かれていた。アメリカ陸軍だ。
島田は中隊指揮車に潜り込むと、咽頭式マイクで指示する。
「エンジン掛けろ!」
一〇両のチヘが一斉にがなり立てる一〇〇式発動機は、出力不足を感じさせない爆音を響かせた。同時に手動で指向させた四七ミリ戦車砲が、M4に向かって放たれた。
悪寒を感じさせる金属音が連続し、先頭のM4が停止する。見た所、貫徹した弾は無いようだが、衝撃で乗員を死傷させたのだろうか。
貧弱な排煙装置のせいで閉められないハッチから上体を晒したまま、島田は喉元を押さえて命じる。
「前進!」
履帯が泥水の飛沫を上げ、無防備な腹を晒す。反撃されれば確実に御陀仏だ。恐ろしいM4からの射撃は来ず、偽装網を引き千切るだけで済む。
濛々と煙幕が包み込む中、背の高いM4の影と索敵の記憶を頼りに発砲した。後方からは七.七ミリの力強い弾幕射撃が響く。随伴歩兵の突撃を支援しているのだろう。
破裂したような四七ミリとは違う、野砲のような射撃音が煙幕を切り裂いた。着弾したのは先ほどまで隠れていたクレーターだった。
当てずっぽうで撃った様子だったが、まぐれ当たりで一両が被弾。砲塔がぐしゃりと潰れた。
目標のM4、前から二番目の車両、距離一〇〇メートル。砲手は車体側面に、なるべく直角に命中するように射撃した。傾斜している面に命中すると砲弾が装甲に食い付かず、あらぬ方向に飛んでしまう。
黒い弾着の跡を三つ作ると中から乗員が転がり出て、一瞬の後に菫色の炎がハッチと砲口から吹き出した。
同時に左側から金槌で叩かれたような衝撃と、顔を焼く熱が押し寄せた。
ハッチに肩を強打しつつも左を向くと、砲塔が空を舞いながら落下してきた。車体部分は子どもに踏まれたブリキ製の玩具の様相を呈している。
先ほど撃破した戦車の周囲に、やっと後方から七.七ミリの支援が始まった。逃げ惑う戦車兵が転ぶように斃れた。
「七号車より中隊長車!七号車より中タ!」
「ワレ中タ」
「第三小隊全滅、ワレ主砲破損!」
「諒解」
煙幕は撃破した車両からの熱で、高く薄く広がっている。これ以上は煙幕としての効果は見込めない。最右翼の第三小隊は煙幕が早く霧散し、砲火が集中したのだろう。
「中タより全車、後退せよ!」
島田のチヘがくるりと反転し、出し得る限りの速度で避退した。
撃破二は確認したが、それ以外はどのような結果なのか。少なくとも三両の損害だ。それに見合うだけの戦果が欲しい。
突然雑音が激しく耳を痛め、第一一二連隊から連絡が入る。
「一一二連より島田中隊、一一二連より島田中隊」
「ワレ島田、どうした!」
「自走砲による火力支援を行う、座標を」
尻に帆を掛け撤退中だ。送り狼を牽制してくれるなら有難い。島田は出来るだけ細かな座標を伝えた。
しかし、連隊に自走砲があるとは聞いていなかった。どういう事だろうか。
先ほどまでの戦場では撃破されたチヘの墓標が土煙で隠される。燃え盛る残骸を土砂が押し潰した。自走砲の間接射撃が、全てを揉み消すように着弾し続ける。
後方を圧する着弾は、明らかに重砲規模の爆音だ。灌木を超える度に大きく揺れるチヘにも、着弾の振動が響いている。
数分、一〇キロ程度後退しただろうか。マンダレー市街地が遠望出来る位置で、先ほどの砲撃の仕掛け人が判明した。
半分の五両に減った島田中隊は、よろよろと自走砲に近付き、言葉を失った。
M4シャーマンの車体から装甲を引き剥がして、強引に一〇糎加農を固定したものだった。射撃の度に大きく揺れ、着弾点がばらけているのが想像出来た。
自分の上に降ってくるかもしれなかったとは。恐ろしい支援砲撃だ。島田は戦車を止め、自走砲の傍らに立つ男に向かっていった。
「棚橋大佐殿」
第一一二連隊の連隊長の棚橋真作大佐は、自走砲を見て言った。
「予備弾が積まれている間はあれほど揺れなかったんだがな。床のを使い出してからはあの調子だ」
「精度は良好でありますか」
「直射で戦車なら二〇〇〇は軽く行けるな」
どうやら自分の早とちりのようだ。だが射撃が長引くときは呼びたくないな。
「それと、池田連隊長殿がお呼びだ」
ここ数週間の戦いは三歩進んで二歩下がるような、精神を削るものばかりであった。今回は中でも最悪に近い戦いで戦力は半減した。連隊長に報告せねばなるまい。これ以上はジリ貧になってしまう。
池田末男がいる連隊本部の天幕は戦車の群れに隠れていた。敬礼と報告に苦い顔をするが、池田は奇襲を防いだ事を褒めた。そして島田に告げた。
「戦車第一連隊はラングーンまで下がるぞ」
池田の発言に驚きを隠せない。機甲戦力に対抗出来るのは機甲戦力だけだ。イギリスもアメリカも戦車を投入している。ここで連隊が抜けては戦線を支え切れない。
「マンダレー正面はどうなさるのでありますか?」
「園田大佐殿の戦車第三連隊と交代だよ。三式を受領しに行くんだ」
三式中戦車「チホ」は昨年正式採用された戦車だ。ラングーンにあったのは海軍の高角砲を再利用した七六.二ミリではなく、新型の四四口径七五ミリ砲を搭載した三式二号中戦車であった。
日産製の高出力発動機はチホに四〇キロ弱の速度を与え、追加を合わせて七五ミリの装甲をもたらした。
チヘに比べかなり強力なチホだったが、残念ながら一個中隊分のみが到着しただけだった。代わりとして、チヘの新型砲塔が門型クレーンの周囲に積まれている。既存のチヘを、五七ミリ長砲身を搭載するチヘ改にするそうだ。
第五中隊も新しい砲戦車を受領したようだ。くたびれた九九式砲戦車「ホイ」はなく、二式砲戦車甲「ホニI」を眩しそうに見つめる中隊長。
ホイと同じく九〇式野砲を基にした九九式戦車砲を搭載しつつも、亀のように平べったく構成された車体。開放型ではない戦闘室には、50ミリの装甲が傾斜して張られていた。チヘを原型としているようには見えない。
喜ばしい声で捲したてる中隊長に、「これまで以上に酷使されるぞ」とは忠告出来なかった。
島田中隊は六両のチホ、三両のチヘ改、指揮車のチヘ改、偵察中隊から二両のテケとなった。先日のM4中隊とも、これならどうにか戦える。そう確信出来るだけの戦力だ。
急にラングーンの港湾が騒がしくなった。島田は何気なく顔を向けて凍りついた。クレーンを掠めるほどの低空を、巨大な影が突き進んでいる。
島田達に舳先を突き出して輝く菊の御紋を見せつけながら、見える限り空を覆い尽くしてしまった。
「ありゃあ空中戦艦だな」
先ほどまでホニ1を見つめていた中隊長が、煩わしげに空を見上げる。
「あれが空中戦艦か」
「島田大尉殿は初めてでしたか。自分はフィリピンであいつを見ました」
ビルマ戦線に梃入れするつもりなのだろうか。島田は北へ去っていく空中戦艦を、期待と不安の入り混じった目に映し続けた。
草鹿任一大将率いるたった二隻の艦隊はラングーン沖の〈秋津洲〉から補給を受けると、イラワジ川を遡上するように北進した。
雲南軍閥と連携して北から圧力を加えるイギリス軍。仏領インドシナがヴィシー政府に帰順している中、イギリス軍がインドシナに攻め込み、南シナ海を脅かす事態に陥りかねない。
現にイギリスが東進する準備をしているのは、インドシナが頻りに出す国境侵犯への抗議で判明している。
大本営は雲南、インド、インドシナの分断を企図した作戦を取るよう陸軍に命じた。参謀本部では総長の阿南惟幾が主張する「イラワジ川に沿って進軍し、英軍基地フォート・ヘルツまでを電撃的に制圧する」甲作戦案と、第一部長である上月良夫の主張する「ミイトキナを攻勢限界点とし、チンドウィン川とイラワジ川の間を制圧する」乙作戦案が対立。上月が第二軍に転出される形で、甲案が採用された。
こうして第四〇号作戦が動き出した。
投入されるのは第八軍の第一一、一五、一八、一九師団と第一二軍の第四六、四七、四八、四九、五〇師団、戦車第一師団であった。
総指揮は第一二軍の河辺正三が執る。山下奉文は支作戦として二個師団でアキャブ攻略を命じられていた。
港湾都市であるアキャブ攻略では重砲などが四〇号作戦に重点的に送られる為、海軍の支援が要請された。インド洋で活動している第六艦隊には軽空母と〈伊勢〉がおり、対地支援には申し分ない。アキャブ作戦は第八軍と第六艦隊の協働作戦となる。
アキャブ作戦がにわかに陸海協働作戦として規模を大きくする中、第一二軍も海軍との連携を模索した。
内陸部でも使える戦艦を二隻、支援として借り受けたいという提案は、アキャブ作戦に対する対抗心もあるが、電撃的に占領する作戦には空中戦艦は丁度良い戦力だったのだ。
河辺はフォート・ヘルツ攻略を、第四〇号作戦成功を確信していた。マレー半島に続き、このビルマでも電撃戦を成功させるのだ。
マンダレーからイラワジ川に沿って北にある街、ミイトキーナ。マンダレーからの鉄路は既に破壊され、市街地も閑散としている。
ウィリアム・スリム准将は最後の仕上げとして、ミイトキーナを見て回っていた。
トラックから飛び降りた参謀が駆け寄り、口早に報告する。
「バオシャンの部隊は準備が完了しました。スティルウェル中将は義務を果たしましたね」
「この短期間でユンナンの弱兵を鍛え上げ、一線級の軍団へと仕立て上げた手腕は流石だよ」
「それと、そろそろフォート・ヘルツに戻らないと。日本軍が動き始めたそうです」
大きく深呼吸をするスリム。息を吐き出した所で、なんの感慨も感じさせない声を発した。
「カロネード作戦を開始する」




