一九三六年までの概略
藤本喜久雄は元々水上艦艇の設計士を目指していた。彼の運命を変えたのは一九一七年、軍艦設計の権威である平賀譲の一言であった。
「空に軍艦とは新しいな。誰か見て来い」
軽口とも受け取れるこの言葉に、新しいもの好きな藤本は平賀の元へ行き「私が行きます」と直談判した。発言したという噂が流れただけにも関わらず、だ。実際発言していなかった平賀としては大変驚いたが、「八八艦隊計画」で忙しかった彼は大戦中の建艦状況を視察する命令のもとに、藤本を渡欧させることにした。そのわずか一ヶ月後藤本は同盟国イギリスへ渡り、ドイツ革命が起こるまで空中軍艦に熱中した。
一九一八年の終戦による帰国後、空中軍艦にもっとも詳しい造船士官となった藤本は行動した。日本における空中軍艦の建造を主張したのだ。当時「八八艦隊計画」で盛り上がる海軍において、藤本の主張は迷惑なものであった。これから一六隻の戦艦と巡洋戦艦を造るというのに、さらに技術的な土台が無い空中軍艦を造る余裕などなかったからだ。しかし陸軍で空中戦艦の計画案が出ると態度は一変した。上層部は空中軍艦研究室を創設すると、その室長に藤本を据えた。
藤本率いる空中軍艦研究室(のちに艦政本部第八部と改称)は新兵器への情熱をもって仕事に当たったが、その道は大変険しかった。最大の敵は用兵側からの無理な性能要求や批判であった。
藤本はイギリスの「空中軍艦計画」での混乱を目の当たりにしていた。当初混乱は兵器開発の常であると藤本は考えていた。しかし用兵側からの注文を取り入れていった結果、試作一号機はテストパイロットと共に轟沈した。藤本と親しかったテストパイロットの死によって、彼の考え方は大きく変化した。藤本は内心批判的であった、保守的かつ用兵側の要求を突っぱねる設計を行う平賀への評価を一八〇度変え、平賀の設計精神を学びとっていった。帰国後の藤本はたとえ相手が上官であっても、無理な設計を拒絶するようになっていた。「平賀譲らずと藤本聞かぬ」とあだ名されることもあったほどだ。
仕様に関する会議は空転し、空中軍艦は暗礁に乗り上げた。しかし会議が長引くうちに、陸軍によるアメリカ製空中軍艦の購入が決定してしまった。このままでは空中軍艦で陸軍に後れを取ってしまう。この知らせに恐れた海軍首脳部は、大慌てで藤本の要求する仕様を認可したのだった。ちなみに初期型では
・排水量:九八〇〇トン
・速力三三ノット
・航続距離:一八〇〇海里/二〇ノット
・主砲:五〇口径二〇.三センチ連装砲三基
であり、他国の空中軍艦に比べて小型で、攻撃力も低かった。これは藤本が日本の技術ではこれが限界だと判断したからである。
次に浮上した問題、それは造船場所であった。当時八八艦隊のために造船ドックの工事が行われていたため、戦艦を造るようなドックに空きはなかった。だからといって工場で建造するほど、空中軍艦は小さくも軽くもなかった。
藤本が選択したのは小さな民間造船であった。機密の塊である空中軍艦をそんな小さな造船所に任せるとはけしからんという批判をかわしつつ、民間会社である神奈川のドックで空中軍艦は建造が開始された。これは後年駆逐艦が各地の民間造船所で建造されたように、生産性を上げるために取られる手段だった。これを根拠として藤本が空中艦隊を創設を念頭に置いていたと論じる学者もいるが、実際のところは当人にしか分からない。
陸軍が購入した〈ロードアイランド〉を頭を下げて検分した結果を反映させながら、建造は進んでいった。動力は当初ディーゼルを採用する予定だったが技術不足により断念、小型のボイラーとタービンで推進用と浮遊機関用に取り付けた。艦形は飛行船の紡錘から抜け出し、通商破壊戦に活躍したUボートを彷彿とさせる精悍な胴体になった。潜水艦にしては太い胴から前甲板に二基、後甲板に一基の主砲が据えられた。この砲塔は重巡洋艦〈古鷹〉のものを改造し、俯角が三〇度まで取れるようになっている。爆弾槽には二トンまで搭載可能で、開口部には八〇ミリの装甲が施してあった。副砲として四〇口径八センチ単装高角砲四基が艦橋を守るように配置された。主砲が連装である以外は古鷹型の竣工時と共通であり、生産性を考慮した武装となっている。
日本で建造された初めての空中軍艦は、色々な困難の末にここに完成した。建造された地名にちなみ〈相模〉と名付けられたこの空中軍艦は、アメリカから輸入した〈千鶴丸〉の箱型の艦体と並んで厚木飛行場でほとんどを訓練に費やす日々を送った。
藤本の設計した〈相模〉はカタログスペックこそ平凡だが、その加速性能や攻防能力を高く評価された。〈相模〉以後の空中軍艦は、水上艦をそのまま浮かべたような形状のものばかりになっていく。〈相模〉は空中軍艦の母体となったのだ。
ワシントン軍縮会議において空中軍艦は補助艦艇として規制される。重量は一二〇〇〇トンを上限、主砲も八インチを上限としており、巡洋艦に似た扱いであった。日本は内南洋の島嶼を空中軍艦の基地にするため、第三国の査察を受け入れる代わりに航空基地の増設を決定した。
条約型巡洋艦の建造が白熱するなか条約型空中軍艦はほとんど造られず、アメリカが改〈ロードアイランド〉級である〈アラモ〉級を五隻、イギリスが〈グレート・ハリー〉級と〈ハーキュリーズ〉級を計六隻とアメリカから購入した〈ロードアイランド〉級一隻、日本が〈相模〉型を更に三隻とディーゼル駆動の実験艦〈神田〉だけという具合であった。
一九三〇年ロンドン軍縮会議において空中軍艦は米英の比率に対し八割という、高い数字が出された。これにより対米七割が実現され、軍令部の要求も一応は通ったことになった。この八割という数字は会議に直接参加した若槻禮次郎にとって想像だにしていなかった。統帥権干犯という切り札を持っていた鳩山一郎や枢密院にとっても青天の霹靂であり、巡洋艦保有量が要求に満たないことを弾劾するも、対米七割を超えたという事実の前に霞んでしまった。ロンドン条約を成功に導いた浜口雄幸内閣であったが金融政策の失敗と世界大恐慌により財政が悪化、関東軍による満州事変の解決に奔走するも一九三一年に退陣を余儀なくされる。
犬養毅を首班とした内閣は、大蔵大臣高橋是清の積極財政により経済を立て直した。世間に祝賀的空気が漂うなか、艦隊派と呼ばれる者たちは苦慮していた。彼らの主張としては海軍の主力はあくまで戦艦であり、対立する条約派が言うような空中軍艦や航空機のようにふらふらしたものではない、という具合であった。海軍分裂の空気は海軍内でのみ流れており、外から見れば分からないようなものであったが、当人たちは追いつめられた気すらしていた。暗殺を企てるほどに。
そして満州事変の翌年、一九三二年五月十五日。それは実行された。後の五・一五事件である。計画指導者である藤井斉の戦死をきっかけにして動き出した暗殺計画であったが、艦隊派が合流することによって規模が拡大する。犬養毅首相襲撃後、艦種を空中哨戒艦と改称した〈相模〉を占拠、帝都の変電所を砲撃した。首謀者たちの自首や自刃により決起自体は終結するが、これに連座して艦隊派と目されていた末次信正や加藤寛治らは予備役とされた。他にも海軍艦隊派と思われる人物が処分され、海軍大将で艦隊派でもあった伏見宮博恭は「海軍はもう終わりだ」と嘆いたという。しかし海軍序列が整理されたことにより海軍への天皇の信任は増した。政治的には世論が軍主導の政治に対する反発や民主主義へ流れていき、二・二六事件からの民主化に繋がることになる。
空中軍艦研究室はこの事件を、日本における空中軍艦による初めての戦闘と位置付け、決起メンバーに取材をするほどであった。問題点として浮上したのは、やはり射界の狭さと旋回速度の低さであった。半年後に藤本率いる設計班は改良案を提出した。艦首に下方に指向できる砲を装備、旋回補助として航空機エンジンを利用した側面プロペラ、偵察機迎撃に失敗したことから対空砲の改良などであり、これは世界的に先進的な設計案であった。型落ちになりつつある〈相模〉型をすべて練習艦に格下げし、新規建造で八割を達成するというものであった。
アメリカにおいても〈ロードアイランド〉級五隻の廃艦と大型空中軍艦の建造を計画していた。これはロンドン軍縮条約に違反するものだったが、極東における動乱に対するアメリカの返答として日本は受け取った。これ以降日本は対米八割の枠内で空中戦艦と呼ばれるような巨艦を建造することになる。
アメリカは〈コネチカット〉と〈オレゴン〉という空中戦艦を建造、さらに巡空艦と名を改めた〈アラモ〉級の改造型を量産し始めた。これは対米八割による日本の空中軍艦建造を引き起こすが、当時のアメリカは日本に空中軍艦を多数建造する技術を持っていない、という意見が主流であったためである。実際藤本により電気溶接を多用した艦が設計されたが、強風時に溶接部から破損し日本海に沈没している。
欧州の建艦状況は、イギリスとフランスは戦車と空中軍艦を塹壕戦の重要戦力と位置付け、歩兵戦車と巡航戦車のように分けて建造した。前者の代表的艦艇はフランスの空中戦艦〈アドルフ・ペグー〉級やイギリスの〈グレート・ハリー〉級、後者は〈ハーキュリーズ〉級などである。
ロシア革命後の動乱の末生まれた共産主義国家ソヴィエト連邦も、空中軍艦の建造を目指した。軍事力を規制されたドイツから技師を招聘し技術を取得、対空中軍艦戦闘を念頭に置いた空中巡航艦〈カール・マルクス〉級を建造した。なおドイツは〈カール・マルクス〉での結果を反映させ、貨物船として〈ヘーゲル〉を秘密裏に建造した。
遡って一九二九年、藤本が艦政本部第四部(造船部門)に共同設計を持ちかけた。これはいわば故郷に錦を飾る意味合いもあり、古巣である四部と改称された八部の交流により技術的進歩を狙う目論見でもあった。当時不遇であった平賀譲造船中将を顧問とし、集中防御や中央隔壁の採用など平賀設計を彷彿とさせながらも、リベットから電気溶接への転換、副砲の高角砲への転用、ダメージコントロールを重視した艦内構造などの藤本らしさも多く含まれている。この共同作業は藤本の後輩にあたる福田啓二や江崎岩吉、牧野茂への影響は大きく、頑固者で有名な「平賀譲らず」でさえ以後の設計において新技術を取り入れるほどであった。
海軍航空本部部長であった安東昌喬はこの動きを高く評価し、かつての部下であった山本五十六少将と藤本に、航空機と空中軍艦の戦術について研究させた。山本はロンドン海軍軍縮会議の直後であったため、航空戦力の拡充は必須と考えていた。藤本も設計に忙殺されていたが山本の熱意を汲み、時間を捻出した。空中艦隊が現実味を帯びてきたのはこの頃で、次第に海軍航空本部や陸軍航空本部からの出向者を含む大規模なものとなっていった。
またこの研究会は、悪化する日中関係や日米関係に対する防波堤としても機能し始めることになる。関東軍の暴走に反対する者や対中非戦論者も多く在籍した「防空戦略研究会」は、陸軍の強硬派に敵視され、これが後々禍根を残すことになった。しかし陸海航空機の規格統一や技術交流の場として、日本の航空機発展に大きく寄与した。
ドイツでアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が政権を獲得し、ソ連ではスターリンの大粛清が始まるなか、日本でも血生臭い空気が流れ始めていた。陸軍皇道派と統制派の反目が激化、対立する派閥への襲撃が多発する。三月事件と呼ばれるクーデター未遂や陸軍士官学校事件、永田鉄山暗殺未遂である相沢事件などだ。相沢事件で重傷を負った永田は予備役へと退き、後継者として東條英機を推す。東條も関東軍への転属を取りやめることになった。
そして運命の一九三六年。「防空戦略研究会」で意気投合した藤本と山本は、とある料亭で酒を酌み交わしていた。
非戦論を掲げる軍人や政治家も多かったのに、戦争へと転がり落ちる様は恐怖すら感じます。艦名が被っていたので修正。総トン数を排水量に変更。総トン数と排水量の差に驚いてしまいました。