浮遊機関と空中軍艦の歴史
浮遊機関は協商と同盟の戦争である第一次世界大戦のさなか、ドイツの哲人としても有名な科学者ヘーゲル・ヴュルテンベルクによって発明された。彼は大学で講義をしている時に生徒が回すペンを見てひらめいた、と自伝で語っている。ドイツ、イギリスを介して日本に伝わった際は、ヴュルテンベルクの名前から武式機関とも呼ばれている。
第一次世界大戦では飛行船が各国の航空戦力の一角を成していたが、被弾に弱い致命的な欠陥があった。性能を上げていく航空機に対抗できなくなってしまったのだ。もはや飛行船には示威行為以外望めなくなり、廃れていくことになる。しかしヴュルテンベルクが発明した浮遊機関はガスを満たした気嚢を用いず、更には運べる重量も飛行船を遥かに上回った。
戦線の打通を企図したドイツ帝国はこの浮遊機関に目を付け、重装甲大火力の移動要塞として浮遊機関式飛行船の開発に着手した。浮力を浮遊機関に任せ、増大した積載量で推進用機関(大型の航空エンジンが使われた)と火砲が装備する計画であった。この計画には莫大な人員と軍費が投入され「イェール計画」と呼ばれた。しかしながら浮遊機関の欠点である建造費や機関の出力を維持するために大量の燃料が必要となり、また船体の燃料槽の関係で発生する航続距離の短さから、次第にドイツ帝国の興味は薄れていく。それでも参謀総長ファルケンハインなどの支援の下、既存の飛行船を改造し作られた。
この頃浮遊機関の情報が各国に広まり、イギリスは戦車開発のための「陸上軍艦(Landship)計画」に並行して、「空中軍艦(Earship)計画」が開始される。トラクターから発展させた戦車に対し、空中軍艦はすでに戦場へ投入されていた飛行船を改造したものであり、完成するまでの期間をそこまで要しなかった。そして一九一五年、ドイツにおいて塹壕への空爆用の〈ザクセン〉、同年イギリスにおいて強行偵察及び索敵用として〈キャンパーダウン〉が就役した。
当初は「見かけ倒しな飛行船」「油と鉄の無駄遣い」「政府の玩具」との批判が起きたが、前線の兵士たちへの心理的な衝撃は大きく、ヴェルダンの戦いに投入された〈ザクセン〉は要塞や砲兵からの攻撃を跳ね返し、当時大尉であったシャルル・ド・ゴールは〈ザクセン〉からの砲撃を受け重傷を負っている。その後〈ザクセン〉は一九一七年のカンブレーの戦いでイギリス軍の航空機により撃沈された。
一方〈キャンパーダウン〉の初陣は陸上戦ではなかった。それはユトランド沖海戦であった。彼女に期待された任務は長時間の偵察であり、その巨体と安定性から洋上索敵に使われたのである。〈キャンパーダウン〉の報告はイギリス艦隊司令長官ジョン・ジェリコー大将が座乗する〈アイアン・デューク〉へと送られ、これによってジェリコーはドイツ艦隊の規模が想像より小規模であることを知り積極的攻勢に出た。結果この海戦は当初の予想以上に激戦となり、両軍の損害の多さから「血の六月一日」と呼ばれることもあった。ドイツ艦隊は戦闘可能な戦艦が五隻にまで減り、無制限潜水艦作戦へと加速していくこととなる。
ジェリコーは〈キャンパーダウン〉を高く評価し乗員の表彰を望んだが、それが彼らの生前に果されることはなかった。〈キャンパーダウン〉は退避するドイツ大洋艦隊を追跡中、残存戦艦の撃ち上げる砲火により轟沈していたのだ。この戦闘は後々まで空中軍艦の水上艦艇に対する劣勢として、空中軍艦の建造理念に影響する。
イギリスは〈キャンパーダウン〉やドイツの〈ザクセン〉の戦歴を鑑み、空中軍艦の新しい建造を決定した。一説にはこの時期、空中軍艦という名称が定着したらしい。この決定に追従してフランス、ロシア、アメリカにおいても建造が決定し、ドイツも〈ザクセン〉単艦では効果が得られないとして、退役していた飛行船〈ハンザ〉と〈L11〉が空中軍艦に改装された。しかし大戦中に完成した空中軍艦は以上の四隻だけであった。ロシア革命、次いでドイツ革命により世界大戦は終結したのである。ちなみに列強の仲間入りを果たした日本は、パリ講和会議の賠償艦として〈ハンザ〉を要求したが反対され、アメリカから技術を輸入することになる。
終戦後は空中軍艦として、フランスではマジノ要塞線の一角を担う役割を与えられた空中軍艦が登場する。大戦のパイロットの名前を冠した制空艦〈アドルフ・ペグー〉と〈ジャン・ナヴァル〉である。特徴としては重装甲で機動力が低かった。
・排水量:一〇五〇〇トン
・速力:三〇ノット
・航続距離:一五〇〇海里/一〇ノット
・主砲:四五口径三〇.五センチ連装砲二基
というスペックであった。のちに複葉機を二機運用する能力も付与された。
アメリカは空中軍艦建造の計画を立てるがその航続距離の短さを嫌い、空中軍艦を局地戦用の兵器としてではなく航続距離を伸ばす改良を行い、傑作空中戦艦〈ロードアイランド〉級を建造した。〈ロードアイランド〉級は建造された七隻のうち一隻が日本へ売却され〈千鶴丸〉と命名された。
アメリカ陸軍航空隊に配属された〈ロードアイランド〉の性能は、
・排水量:一二〇〇〇トン
・速力:四一ノット
・航続距離:二一〇〇海里/二〇ノット
・主砲:四五口径三〇.五センチ連装砲二基
であった。
このように第一次世界大戦が終結したあと、各国は本格的に空中軍艦の研究を始める。それまで単純な大型化の一途を辿っていた空中軍艦も、対地攻撃を主任務とする航空駆逐艦や比較的長距離を移動し指揮を執る巡空艦、限定的ながらも航空機の運用が可能な制空艦などに分派した。中でも水上戦艦に匹敵する攻撃力を誇るものを空中戦艦と呼び、前弩級戦艦程度ならば撃破できる能力を持っていた。
空中軍艦の需要は高まった。しかし建造には高い技術力と水上艦以上の膨大な建造費を必要とした。各国の軍はあくまで予備戦力である空中軍艦に予算を割くことに否定的で、空中軍艦で艦隊を編成できたのは列強国家でも一握りであった。
大日本帝国の軍部も同様で、索敵用として少数を建造するだけのつもりであった。しかし空中軍艦の可能性を信じた者も少なからずいた。水上艦設計から空中軍艦設計へ転向した藤本喜久雄もそのひとりである。
もともと空中軍艦はツイッターで「空飛ぶ軍艦ってかっこいいよね」みたいな話から始まりました。なので設定もなにもないんです。可笑しな感じがしたらそれが原因です。総トン数を排水量に書き換えました。