対策と対策
〈相模〉型空中戦艦一番艦〈相模〉。
藤本モデルと呼ばれる涙滴のような形状ではないが、二番艦の〈筑紫〉と共に、空中艦隊の主力たるべく建造された、空飛ぶ艨艟。
一番艦は実験的要素の強いディーゼル式浮遊機関、射撃盤と連動する電探、自動装填装置などを多く搭載している。
二番艦の〈筑紫〉が堅実なタービンボイラー方式、光学照準、人力装填なのに比べて、とても実験的であることは間違いない。
そのため各装備に不具合が連続し、これまで三度長期ドック入りしている。
主砲は〈長門〉のものを原型としたが、自動装填のために大型化した。
タンブルフォームのような膨らみには、一二.七センチ高角砲が並び、遮風用の覆いが付いた機銃が雛壇のように配される。
装甲は対一四インチ程度に抑えられており、水上艦なら巡洋戦艦に該当しただろう。ただし〈相模〉は空を進む。
三五ノットに抑えられていた〈筑紫〉に対し、出力の大きなディーゼル機関は、〈相模〉に四〇ノットの快速を与えた。ただし旋回半径は一〇〇メートルを超す、大変緩やかなものになった。
艦内は複雑だが合理的かつ移動の容易さを重視していた。
ある程度の重量増加に目を瞑り、蜂の巣鋼板などをしたので、対一四インチを達成できたのだが、設計者の藤本は甚だ不安であった。
「工藤さん。この艦は基本的に、零戦のようなものです。いや、もっと使いにくい。一撃離脱を心掛けてください。空中艦を撃ち合いを出来る艦に出来なかった私が、言うべきことではないかもしれませんが……」
「新鋭を任せていただいただけでありがたいです。ですが、空中艦の艦長に任ぜられたのは、何分初めてのことでして。本当に私で大丈夫でしょうか?」
工藤は敢闘精神や智謀に優れる訳ではない。大破した〈陸奥〉に数千人の漂流者を、敵味方問わず収容するなど、戦争を厭う節すらある。
にも関わらず、このような大任は果たせるだろうか。
「工藤さんだからこそです。〈相模〉を上手く使えるのは、応急長である貴方が適任だ」
「駄目だ駄目だ!これは零戦ではないのだぞ!」
坂井三郎が声を荒げた。生え抜きの航空兵は零戦から、ジャクと呼ばれる新人を鍛えていた。
新人が駆るのは初期生産分の雷電だ。旋回性能では零戦に劣るが、エンジンの噴き上がりが圧倒的だ。
「チックショ……ウ」
訓練生の声が漏れる。この跳ねっ返りは、自分と同じくらい暴れ馬だ。同期の関行男が「暴れ馬が暴れ馬に乗ってる」と周囲を笑わせていたことが、脳裏を過る。
「直進すると狙われるぞ。速度を殺さず尻を振れ!」
こなくそ。雷電は元々、一対一の演習には向かない。零戦が有利な条件で戦っているのだから、嫌味な教官の背後を取れないのは当たり前なのだ。
そっちがその気なら、とスロットルを最大まで開く。排気管から炎が伸び、動力降下によって速度計が勢いよく回る。
教官の罵声を聞き流し、時速八〇〇キロで突っ込む。高度が一〇〇になったところで速度を殺さないように、操縦桿を引きつける。
そのまま大きく円を描くと、インメルマンターンを使い坂井機に正対。
「見てろよ……」
どちらが先に避けるか度胸試しだ。
距離が詰まる。
零戦が少し揺らぐ。
だが雷電は猛禽のように突っ切る。
影が手元に差す。
ぐらぐらと機体が揺れ、二機は一〇〇〇キロ以上ですれ違った。
「どうだっ!これが俺のやり方だ!」
ジャク、管野直は操縦席で叫んだ。
「馬鹿だなあ、あいつ」
駐機している二式複座戦闘機屠龍の操縦席から、美濃部正は空を見上げて笑う。後席の大谷繁が不思議そうにしていると、
「周波数をな、あいつらに合わせてるんだ」
とスピーカーを指差す。
聞こえてくる叱責と楽しげな謝罪の言葉。
どうやら雷電の操縦士は本気でぶつかるつもりだったらしい。紙一重で避けた教官もすごいが、真っ直ぐ突っ込む無謀さを持つ新人も、素晴らしい才能を秘めているのだろう。
美濃部は夜戦専門の部隊を錬成すべく、この厚木飛行場に来ていた。
彼の提唱した夜戦部隊は、夜間防空を指すのではない。夜間空襲である。
夜間防空の困難さは、複座による監視の目の倍増ですら、効果的とはいえない。
自分達がそうなら、敵も同様のはず。そこから生まれた考えであった。
それに賛同した第一航空艦隊参謀長が、その実現化を指導し始めた。
第一航空艦隊とは空母のみの第三艦隊とは違い、基地航空隊を一手に指揮する部隊である。
第一航空艦隊はマーシャル諸島、第二航空艦隊はマリアナ諸島、第三航空艦隊は混同を避けるために欠番、第四航空艦隊はフィリピンを基地としている。
美濃部自身も夜間出撃で敵の観測機を撃墜したが、出撃出来たのは美濃部の零戦二機と屠龍三機だけだった。
夜間防空の重要性は上層部も分かっているが、それを武器に出来ないか。美濃部は零戦を操りながら考えていた。
厚木飛行場では、夜間戦闘機として使われている屠龍に乗り換え、美濃部は研究を進めていた。
敵の夜間戦闘機を排除するための護衛は零戦を使うことにし、攻撃機の選定に入ったのはいい。しかしこれといって適当な機体が無かった。
夜襲に大型機では適さないので一式と二式陸攻は除外。九七艦攻と九九艦爆は防御に不安がある。命中精度は犠牲にして単座がいいのかもしれないが、今のところ屠龍が派遣されただけだった。
実際のところ、屠龍の運用結果は良好だった。二五番を積んだ屠龍は、機動力の低下もそこまで悪くなく、陸軍の襲撃機よりも被弾に強いことが評価できた。
美濃部の指揮する夜襲部隊は、ニューギニアで初陣を迎える予定だった。
一九四二年六月。ニューギニア。
ここでは陸軍航空隊が激戦を繰り広げていた。
ラエに基地を置く第三五飛行隊は、P-38ライトニングの攻撃を受けていた。
急降下性能に優れるライトニングだが、機体を強化した三三型の配備によって損害が減りつつあった。
二一型と三三型では気をつけなければならない点が異なり、ライトニングの混乱を招いたのだ。
二式陸攻深山の運用も進み、ポートモレスビーにある連合軍基地は瓦礫が常に転がるようになっていた。
この攻撃は実のところ、ニューギニアの連合軍を無力化することが目的ではない。時間稼ぎのためである。
現在、インドネシアでは敵潜水艦の無力化が進んでいる。ポートモレスビーで補給できず、ブリスベンまで戻る必要がある現状を、可能な限り長引かせるのが作戦目的だ。
しかし数日前、マダンの基地が狙われた。艦載機による攻撃で、延べ二〇〇機の空襲により、マダンの航空基地は壊滅。現在、大型水上機の二式大艇による撤退が行われている。
マダンを失ったことで、ラエの航空基地は空輸による増援を断たれた。
連合軍による南方での反攻とみた大本営は、軍令部へ艦隊の派遣を命じた。
〈御蔵〉型海防艦に守られながら、パラ一五号船団は南下していた。
航空機を積んだ輸送艦を中心に、約二〇隻ほどが喫水を大きく沈み込ませながら航行している。
海防艦の数は多くないが、船員の顔に不安はあまりない。美濃部にそう見えたのは、彼自身が感じているからかもしれない。
パラオから出航した船団の後方には、海軍第三艦隊の姿があるからだ。
〈翔鶴〉〈瑞鶴〉と新鋭艦を加えた威容は、根拠のない信頼感を感じさせた。
雷電と爆撃機型の屠龍、深山や一式陸攻を積んだ輸送艦に便乗する美濃部だが、彼自身は空母への発着艦は可能だ。しかし夜戦に特化させた夜襲部隊には、空母への発着艦を経験していない者もいる。
彼は大事を取って輸送艦に乗っているのだった。
〈赤城〉の艦橋は狭い。そこに一〇人ほどが詰めるのだから、快適さは微塵も感じられない。
しかし表情一つ変えない男がいた。第三艦隊司令長官塚原二四三だ。
〈エンタープライズ〉〈レキシントン〉〈サラトガ〉から成るアメリカ艦隊を叩くべく、パラオ経由で本土から出撃したのだった。
旗艦を〈赤城〉に譲った〈加賀〉、二航戦の〈蒼龍〉〈飛龍〉とこれまでの四隻に加えて、新鋭空母〈翔鶴〉〈瑞鶴〉が戦力化された。
基準排水量二五〇〇〇トン以上、艦載機七二機補用機一二機、三四ノットを出す空母である。
その大きさ故に建造は遅れ、マーシャル諸島沖海戦には出られなかったが、これで空母六隻、艦載機は常用だけで三九六機だ。
周囲を囲う駆逐艦も陣容が変わっている。
第六航空戦隊を守る第四一駆逐隊は、新鋭の〈秋月〉型だ。雷装の全廃とボフォース製四〇ミリ機関砲を装備し、主砲に連射性に優れた長一〇センチ砲を採用した。
この長一〇センチ砲は正式名称を九八式一〇センチ高角砲といい、四秒に一発という当時としては十二分な発射速度を誇った。
また雷装を廃したため艦内に余裕が生じ、機銃の増設が容易だった。
一番艦〈秋月〉も機銃を二五ミリ単装を増設しており、針鼠のような様相を呈していた。
敵は空母を伴う快速艦ばかりだ。〈天城〉型を出すほどではない。
互いに空母を主力とした、空母同士の殴り合いだ。海軍が航空主兵に転換した成果を見せる時が来たのだ。
「おい、菅野!」
「鴛淵さん!真っ黒で誰か分からなかったですよ」
菅野が日焼けした男に、親しげに近付く。
鴛淵と呼ばれた男は、こちらに不思議そうな目を向けた。
「鴛淵孝少尉、私は美濃部正だ。同乗した菅野と仲良くなってな」
「はっ、美濃部大尉でしたか。お噂はかねがね」
優しげな顔の男は鴛淵孝。笹井醇一少佐率いるラエ航空隊の若き撃墜王で、菅野の二期先輩に当たる。列機を務めたパイロットから悪い噂を聞いたことがないほど、部下思いで知られている。
菅野とは厚木飛行場の練成部隊で出会い、すぐに意気投合したという。暴れん坊で有名な菅野と優男の鴛淵。面白い組み合わせである。
もう一人、菅野と鴛淵の間に林喜重という男もいるが、彼は現在クェゼリンで戦っている。
「夜襲部隊と聞きましたが、零戦と雷電だけですか?」
鴛淵は首を傾げながら聞く。確かに、攻撃機が見当たらないのを不審に思うのは当然か。
「どうやら大本営がニューギニア防衛に本気らしくてな。遊ばせるパイロットはいないと、引っ張り出されてしまったよ」
「なるほど、そうでしたか」
嫌そうに眉を顰める鴛淵。
「マダンから逃げてきたのが言うには、零戦でもかなり苦労したらしいです。何発当てても火を吹かないって。そいつの腕は確かですから、実際に落とすのが大変なんでしょうなぁ」
ポートモレスビーの戦闘機はP-39エアラコブラやP-36ホーク、P-40ウォーホークにP-38ライトニングだ。零戦ほどの軽快さも、ライトニングを除けば雷電ほどの健脚も持っていない。損害比もこちらに圧倒的優位であった。
しかしアメリカの艦戦は違うらしい。鴛淵が詳しく語ったところによると、装甲の厚さを勇気に動力降下で零戦を翻弄し、弾幕のような銃撃で雷電をボロボロにしてしまうという。
「ワイルドキャットは舐めてかかると痛い目に遭う」
そう結んだ鴛淵に、美濃部は底知れぬ不安を感じた。
「ラエへの増援、ありがとうございます」
基地司令の有馬正文は、陸軍航空隊の司令である有末次と共にとある人物に会いに来ていた。
今回のラエ増援と第三艦隊、その相互の連絡をスムーズにすべく送られてきた人物。航空基地を不沈空母と見立てた戦略の立案者。
井上成美中将が立っていた。
ラエが航空艦隊規模にまで広がったため、それに応じた司令官が必要になったのだ。
有馬はラエ航空隊が第五航空艦隊となったため、ラエ航空戦隊司令へと鞍替えになった。負担は減るため、とても喜ばしい。
また、ラエにいる陸軍の第一〇飛行師団の司令である有末は、井上の管轄下へと移動する。
海軍ラエ航空戦隊の零戦一二三機、一式陸攻四〇機、一式大攻深山六四機。
陸軍第一〇航空団の零戦三三型五二機、雷電四〇機、九九双爆三六機、九九襲撃機二〇機。
更に海軍から増援の雷電四二機と屠龍二一機が到着。
合計四三八機が、第五航空艦隊の戦力だ。ここに偵察機として一〇〇式司偵や新鋭の二式艦偵、二式大艇が加わる。
「私は基地航空が万能とは考えていない。だが、敵機動部隊を捕捉するのは我々基地航空だと思っている。早速だが偵察機を二重から三重に展開させよう。攻撃力の低下も辞さない。敵艦隊は第三艦隊に任せて、その掩護に徹する」
ポートモレスビー基地では、急ピッチで修繕か行われていた。
マダンへの第三九任務部隊の奇襲により攻撃が緩んだ隙に、陸揚げされた重機が滑走路を平らにしていく。
ケアンズからポートモレスビーへのピストン輸送は、ジャップの潜水艦によりばれているはずだが、高速艦を使った輸送は被害を抑えている。
「ハルゼー提督は猛将だな。マダンに北から近付くとは」
ポートモレスビー基地で輸送任務を任されたアーレイ・バークは、旗艦である〈ソルトレイクシティ〉でぼやく。
彼は本来ならば〈ソルトレイクシティ〉ではなく駆逐艦を駆る、水雷部隊の司令官であった。
だがポートモレスビー航空基地を復活させるための案を上申したのが、運の尽きだった。
基地修繕の物資は、旧式駆逐艦を改装した高速輸送艦によって、少量ずつだが連続して送られる。
〈ソルトレイクシティ〉は低速だが大量に運べる大型輸送艦を守る船団を、いわゆる囮として守っていた。輸送艦には物資が積まれておらず、駆逐艦はトラップに掛かる鼠を狩る。
〈ソルトレイクシティ〉もまた囮の一隻だ。大型艦船ならば、潜水艦の餌としてはなんでもよかった。
自分を餌にして気分のいいはずがない。しかし指揮を執る以上は、最も危険な任務を部下に任せるわけにはいかないのだ。
高速輸送艦は三〇ノットの最大戦速で、ケアンズとポートモレスビーの間を駆け回る。
予定ではP-38が二〇〇機、B-17が一〇〇機、P-40が三〇〇機を超えた時点で、基地の補給が完了という判断だ。
そしてポートモレスビー基地の滑走路が回復したタイミングで、マスカレード作戦が開始される。それまでの辛抱だ。
第二艦隊の参謀長である松田千秋と航空参謀である源田実が激論を交わす。先手を取ってポートモレスビーを攻撃して敵艦隊を誘引する作戦を推す源田と、敵艦隊が動き出すまで待つべきという松田。
それを見比べる司令長官の塚原の顔は、どこか面白げだ。主席参謀である城英一郎がラエに行ってしまった今、止められるのは塚原しかいない。
「目標は敵艦隊の撃破ですが、ポートモレスビーが復活すれば困難の度合いは増します!」
「自ら第三艦隊の戦力その他を暴露するのは許容出来ない。空母は先手を取られたときが一番脆弱だ。目標を見つけるまでは、待機すべきだと考える」
「攻撃即位置が露顕するということにはならないはずです。攻撃後ただちに退避すれば、ポートモレスビーの無力化と位置の隠遁が可能かと」
「これまで基地航空だけで無力化が可能だったのだ。増援が到着した以上、ポートモレスビーはラエに任せて戦力の保全に努めるべきだ」
「ラエの戦力が攻撃に向かっている隙に、機動部隊の攻撃を受ける恐れがあります。ラエ基地の負担が増して、損害が拡大するのでは?」
もっと見ていたいが、そろそろ決めねばなるまい。
「そこまでだ。参謀長、航空参謀」
塚原が手を打つと、二人がこちらを振り向く。
「ラエ航空隊は第五航空艦隊に格上げ。司令長官に井上君が就任したよ。彼からの連絡で、ポートモレスビーと敵艦隊の捕捉は任せてほしいと言われた」
「一〇〇式司偵と二式艦偵の数は足りるでしょうか?」
不安げな源田に、塚原は続ける。
「ポートモレスビーはほぼ壊滅している。陸攻隊から一部を索敵に回してくれるそうだ」
安心しろ、とばかりに、肩を叩く。源田も一応は納得したようだ。
二式大艇のラエ三号機は、ビスマルク海を哨戒していた。
乗員の目は海面の潜望鏡ではなく、太陽を背に突撃してくる戦闘機を探している。
そろそろ旋回して基地に戻ろう、と機長が操縦桿を握りなおした時、
「航跡見ゆ!」
の叫び声が響いた。
唯一対潜哨戒に専念していた前方機銃手の声であった。
機長はすぐさま現在位置と敵味方不明の艦を打電させる。自らは敵陣容を把握すべく、航跡に近付くコースへと機を誘導した。
「大型の艦影二、中型一、駆逐艦多数」
素早く見定めた情報を電信員に連絡。正規空母か否かを見定めようとした時、
「敵機!」
の叫び声と機体を叩く銃弾の音が重なった。
退避しようとした機長は、方向舵の反応が悪いことに気がついた。先ほどの銃撃が損傷させたか、ワイヤーを切断したか。
ヨーを駆使して緩やかに旋回する二式大艇に追い縋る敵機の姿は、樽のような胴体に中翼を生やした、群青色の機体だった。
尾部から曳光弾が伸びるが、翼を翻す敵機、グラマンF4Fワイルドキャットを捉えることはない。
最大火力を向けるべく旋回する二式大艇。その胴を下から突き刺す銃弾。
下方から突き上げるように上昇した2機目のグラマンは、二式大艇の主翼を痛打しエンジンを破壊。
さらなる機動力の低下に四苦八苦する機長の正面から、ワイルドキャットが襲いかかった。
ささくれだらけになった操縦窓を、真っ赤な飛沫が染め上げる。
力尽きたように機首を下げると、風切り音の絶叫を残し二式大艇は墜落していった。
「我被害甚大。これが最後の連絡です」
掘立小屋のようなラエの司令部で、井上は二式大艇の遺言を受け取った。
目を閉じ黙礼した井上は、恭しく電信の書かれた紙を読む。
「空母二、戦艦若くは重巡一、軽巡若くは大型駆逐艦三、駆逐艦一個戦隊ほど。針路一二〇」
有馬が唸る。
「ラエを叩かず南下するとは。欺瞞針路でしょうか?」
「決まっている。基地航空に邪魔されない珊瑚海まで移動するつもりだ。敵艦隊の目標は第三艦隊ではなく、ニューギニアの安全だ。第三艦隊の殲滅ではない。しかしアメリカは艦隊が捕捉されたと知ったら、足止めにポートモレスビーから爆撃を寄越すぞ。艦隊の邪魔させないつもりだ」
有馬と有末が迎撃機を急ぎ揚げるべく、飛行長や飛行隊長を呼び出した。
それとは別に井上は、同じニューギニアのウェワク基地に連絡を取った。
「おう、貴様の出番が来るやも知れん。うむ……オーストラリア経由で、ああ」
電話を切ると、井上は溜息を吐いた。
一九四二年六月二〇日。ニューギニアへの一撃離脱を繰り返す第三九任務部隊。
それを撃破すべく派遣された第三艦隊。
互いに空母を主力とした艦隊同士の衝突は、海戦史上初である。
それと同時に、航空基地が山脈を挟んでぶつかり合う。
連合軍にはオーストラリアからの増援が、日本軍にはパラオや本土からの増援が到着しつつある。
激戦の火蓋が切られた。珊瑚海海戦の始まりである。




