ハッピー
(0)
延々と拡大を続けると思われたバブル景気は終わりを告げた。だが、それは若い世代の僕らにとっては、決して悪いことばかりでは無かったように思われた。
当時、異常なほどに高騰を続けていた地価が、大きく下降していったからだ。会社の、僕の同期の同僚たちが、皆叫んでいた。
「今が買いだ!下落した今こそが、その時だ!」
それは、まるで流行語のように僕の周囲を満たしていった。皆、我先にと買いに走った。手ごろな値段のマンションが次々に販売され、たたき売られ、奇妙な不動産ブームがそこに花開いていた。
僕も思った。特に必要ではなかった。それまでの自分には無縁とすら思える話だった。だが、考えた。今、この流れに取り残されることは、自分を逃げることではなかろうか?人生には決断を必要とする瞬間の、チャンスというものが必ずある筈だ!
それを見逃すのは、実に愚かな行いだ!と。
僕は独身だった。その時点での必要性など、なにも持たなかった。そもそも、社宅に居れば、それで済んだのだ。でも、時代の流れには逆らえなかった。
(1)
やはり、小規模とはいえ、自らマンションの一室を購入するのにはを勇気が必要だった。だが、めげなかった。仕事への励みになるのだと信じてみた。
そもそも、仕事先の仲間は皆そうして精力的に働いていた。あの頃は、「24時間働けますか!」なんて言葉が、テレビに流れていて、そんな残留思念が、皆の心に染みついたままだった。
僕が買ったのは、当時はまだ珍しかった「ペット飼育可能」なマンションだった。実は、僕という人は、不思議なほど動物好きだった。
かつて住まいし、自分を育んでくれた広い敷地の中にポツリと建つ実家には、いつも犬がいた。彼らは来る日々をまったく同じように、長い鎖をズルズルと引きずって庭を走り回り、来客に吠え、そして父が作ったであろう、小汚い歪な形の犬小屋を寝床にして生きていた。
僕は幼いころから、そんな、なんの遠慮も知らない彼らが大好きだった。そして学校から帰ると常に屈託のないその犬たちは、こんな小さくなんの力も持ち得ない僕の存在を心から喜んで迎えてくれて、泥で汚れた尻尾をブンブン振って、クンクンと甘えた声を投げかけて、いつも僕の弱い心を慰めてくれていたのだ。
僕はそのことが凄く嬉しくて、帰宅すると同時に彼らのもとへ走って行った。頼まれなくったって、自分ですすんで散歩に出かけた。彼らは僕の数少ない、心の許せる友達だった。兄弟だった。だから、いつもそこに居てくれることが、僕にとっての幸せだったのです。
彼らは僕に凄く懐いてくれた。飛びついて顔をペロペロと嫌な位に舐めてきた。体を摩ってやると、お腹を上に開いて僕に預けた。擦ると、その手は黒く汚れて、とても臭い匂いがこびり付いた。でも、それでも僕はそんなひと時が、未だにまったく忘れられないでいたのです。
(2)
あのマンションの購入を決めた日以来、僕まるで、その魂を引き抜かれたように、その存在に心を奪われていた。帰宅の道は、決まって同じルートとなった。
飲み会の後の、例えその店がシャッターを降ろしているであろう、そんな時間であっても、僕は必ずその前を通過してから帰宅していた。
そのペットショップの展示ガラスの向こうには、いつまでもその犬は、まったく買い手を持たないまま放置されていた。その小さなか弱い命は、それでも少しずつ、確実に身長を、その肉体の大きさを増していた。
だが、その物の金銭的価値は、日々、虚しくも無情にも、下降するばかりだった。もはや、僕の心はその決断を迫られいた。もはや躊躇する理由など、そこには何もないかと思われた。
僕は震える鼓動を必死に抑え、店員に言葉を掛けた。すぐに店員は体を走らせ、その少しばかり育ち過ぎてしまった、その子犬を閉ざされた世界より解放した。
ヨタヨタと、まるでぎこちない歩みだった。フラフラとして、一向に前進できない足取りだった。これまでの彼の有り様が想像できて、涙が潤んだ。
僕の胸に抱かれた、その小さな魂は小刻みに震え、そして失禁をした。店員があわてて床を拭いながら呟いた。
「よっぽど嬉しいみたい」
僕の心はその響きに満足感を得て、喜んでいた。
(3)
子犬を飼うのは初めてだった。
実家では、その面倒のすべてを両親に任せきりだった。幼い僕は、ただ共に遊んでいるのみだった。現実的な対応方法など何も知らない。犬に対する、なんの躾も、なんの知識も、僕の経験にはまるで欠けたものだった。
古本屋で手に入れた、一冊の薄汚れた「犬の育て方・しつけ方」と題するマニュアル本だけが僕の頼みの綱だった。だが、例えこんな野性を知っていよう筈の生物であろうと、やはりその子育てというものに置いては、なんの違いもなく苦難であった。
疲れた体を休める暇を失った。毎日が、会社の仕事と犬の世話にのみ明け暮れていった。
そもそも、初めから僕はつまずいていた。この犬は、マニュアル本にある参考例よりもずっと育ち過ぎていた。
初めて部屋の床に座らせた時、僕は驚きの声を上げていた。
あろうことか、その犬は、座ったままそのままの姿勢で、なんの躊躇もなく、小水を垂れ流したのである。その軟らかい体毛で覆われた尻が、尻尾が、びしょびしょに濡れていても、彼はまったく平然として、何の苦痛も訴えなかったのだ。
あの狭く窮屈な、身動きもろくに取れなかったであろうゲージの外の世界のこと等、この小さな命には、その誕生以来、ずっと無縁なものであったに違いなかった。
だが、そんな大変な子育てであっても、不思議なほど僕の気持ちは清々しかった。自宅に自分の存在を必要としていてくれる者が有るということは、なににも代えがたい喜びだったんだ。
僕は寄り道というものを忘れていた。なんの躊躇もなく同僚の誘いを断った。白い目で見られる自分が怖くなくなっていた。
未だかつてない、充実した時間がそこには、確実に存在していたからだ。
(4)
僕はその犬を「ハッピー」と名付けた。俺がお前を必ず幸せにしてやるぞ!との、意気込みがその名には託されていた。
しかし、そんな楽しかった日々に、無情の時が襲いかかってきた。そこに待っていたのは、景気回復を旗頭に始まった。統制と圧迫の日常だった。
僕はまだ恵まれている方だったと思う。数々の人々の悲痛のうめきが、テレビモニターの向こうに、日々映りだされていった。支配者たちが奏でるリストラという合言葉が、無心に働く人々を恐怖と弾圧とで飲み込んでいった。
無論、僕もその砂粒の中の一つであった。日々の労働は、その対価を無視して巨大に膨らみ続けていった。深夜まで続く残業が、僕の心を空白に変えて行くのを無視することなど、決してなかった。
だが、どうにもならなかった。どうにも出来なかった。
僕には大きな借財があった。もはや、その物質自体の価値よりも、当時作った借財の方が遥かに高く巨大になっていた。
まるで未熟な考えを、社会の作り出した卑劣な罠を、大衆の作り出した幻覚を、そのことをあの時の僕は、なんら、微塵も、何の疑問も持たずに受け入れて、取り返しのつかない誤りの渦中に己が身を置いてしまったのだ。
もはや、一時の散歩もままならなかった。何もしてやらなかった。そこには、その部屋の中には、もはや怠惰な自分しか存在しなかったのだ。
犬なんて、飼うべきじゃなかった。どうしてこんなものに喜びを覚えたのか、その時の愚かな自分を嫌悪していた。
バカだった。なんでこんな甘えることしか能のない、まったくくだらない生き物のために、僕はこんなにも苦しめられなくてはならないのか。
怒りが、いら立ちが、僕の優しさを破壊していった。冷たい、冷酷な心が、僕の脳内を支配していった。
だが彼に、何の落ち度があるというのか?ただ、この無力な僕を一心に信頼し、ただ、なんの躊躇いもなく心を開いてくれている、自分にとっての掛け替えの無い存在に、僕は何もしてやれない。なにもできない。
ただ、ただ、頭を撫でて、できるだけ短時間に、その彼の無垢なる欲望を解消するしか、あの時の僕には、その他の術を知らなかったんだ。
だが、それらは大した力にはならなかったのだと思う。ハッピーは常に憤っていた。不満であった。だが、彼にはそれを晴らす手段などあまりなかった。
僕の足元に絡みついた。スリッパを連れ去らった。気づけば僕の服がびりびりに破かれていた。ゴミ箱が荒らされ、部屋中に紙屑が散乱していた。
僕は激怒した。蹴った。叩いた。罵った。憎しみを、自分の中に鬱積した怒りを、気づけば他に行き場のない、か弱いハッピーにぶつけていた。
ふと、そんな、醜く愚かな己の有り様に気づき、僕は床に膝を落とし、しばし泣いていた。ハッピーは、そんな僕の馬鹿げた涙を、ペロペロと、静かになめていた。
(5)
そんなある日、僕はハッピーの肉体に異変を見た。
その深い体毛に覆われた足に、赤い血が滲んでいた。あわてて抱きかかえ、もっさりとした毛の束を掻き分けた。驚いた。目を疑った。
だが、現実だった。
それは二の足だけではなかった。しっぽっもそうだった。あの、疲れ切った存在であるだけの僕を、日々歓迎してくれていた、あの愛らしい尾っぽが、実は引き裂かれ、肉をあらわにして赤い血で汚れていた。
僕は肩を落とした。やりきれなかった。なぜなのかと、彼の存在に疑問した。
なぜなんだ!なぜなんだ!なぜなんだ!
なぜ、お前はこの僕を苦しめることしか知らないんだ!
「・・・・」
心を落ち着かせたのち、僕は獣医を頼んだ。かつて、電話帳の中から探し出したことのあった出張診療を行ってくれる獣医であった。
彼はあまりものを語らなかった。少々頼りないところがあった。
だが、時間をあまり持たない自分には、その老いぼれた獣医しか頼れる先を知らなかったのだ。
いや、彼だから頼めたのかもしれない。もっと聡明な医師にハッピーの姿を見られることを、多分あの時の僕は、躊躇していたに違いない。もし、あのように頼りない、もの言わない医師でなかたっならば、間違いなく自分の価値が貶められるであろうことを、あの時の僕は知っていたんだ。
獣医はステンレス製のケースから取り出した、その少々使い古しの道具で、ハッピーの首元に少々高価な薬液の注射を射ち、そして多くを語らずに帰って行った。
金が掛かった。犬に保険などかけてはいない。無用な出費に思っていた。そもそも当時そのようなシステムは稀な存在であった。
結局、深いため息だけが、ハッピーと僕とだけの暗い室内に残った。
そのころから、僕はハッピーに包帯を巻き始めた。医師の注射に頼っていたら、いくら小遣いがあっても足らないからだ。
だが、それは確実に一定の効果はあったものの、彼は無情にも、その僕の苦労をすぐに無にした。せっかくの包帯を引き裂き、剥がした。そして再び傷口を広げた。
その度に、僕はまた時間を浪費して、その無残に復活した傷口を細長い粘着性テープで巻きつけていた。
しかし、当のハッピーは奇妙でだった。
初めのころは僕のその行為を嫌がっていた。だが、次第にその様子に変化を生じた。いつの間にか彼は、あれほど嫌だったはずの包帯まきを、まるで喜ぶかのように大人しくなって、受け入れていた。
だから、僕の気を引きたい時こそが、自分の肉体を傷つける時と同時なのではと感じた。
僕はふと、そのことに気づき、思わず彼をこの胸の中に深く抱きしめていた。
そして、謝罪した。
だが、そんな悪魔のような心を恥じるしかない僕に、ハッピーは満面の喜びを表現して応えるのみだった。彼には、やはり、そうした無垢な心しか存在しないのかもしれない。
そう思うと、ひどく自分が情けなかった。
(6)
そんなある日、またしても、いや、これまでにない驚愕する異変が起こった。
帰宅して驚いた。
廊下に、リビングの床に黄色い奇妙な液体が散乱していた。だが、それは糞尿などではなかった。胃液のような気がした。ドックフードが吐き出されていた。
確かに、これまでもこんなことはあった。だが、その時は、これほど大量ではなかった。しかも、フード自体は無くなっていた。
だが、今回はどうみても異常だった。
僕はあわてて例の獣医を呼んだ。彼はまた、いつもの高価な注射を討って、また、ほとんど説明をしないまま帰って行った。釈然とはしなかったが、僕は一応の義務を果たした安心感を得て、自分を慰めた。
その後も、何度か注射を討った。金も随分と使った。だが、ハッピーの状態は、あまり改善しなかった。
ぐったりとして、もはや食を受け付けなくなった痩せた体で、恨めしそうにうるんだ目で、ハッピーは僕の出勤を見送った。
酷く虚しく、空虚な心であった。
もはや、こんなことを続けているわけにはいかないと気づいた。
いや、もっと早くそう決断するべきだった。
やはり僕は愚か者でしかなかった!
日曜を待つことはできなかった。僕は会社に連絡を取り、少しの時間を要求した。上司は渋々了解し、すぐにハッピーを最寄りの大きな動物病院へと連れて行った。
「なんで、こんなになるまで、放っておいたんだ!」
獣医の当たり前だが、痛烈な一言が、静寂の空間にこだました。
僕は、ハッピーをその病院に預けた。そして一人、会社へと向かった。涙が止めどなく溢れてきて、己が愚かさを呪っていた。
ハッピーは数日後に死んだ。
僕はその時も勤務先に居た。結局、なにもしてやれなかった。
僕は、愛犬の死に目すら見とれなかった。
「なにをやってんだ!」
「なにが、ハッピーだ!」
「そんな名前を付けて、いい気になって、結局、ハッピーでいたかったのは、この俺じゃないか!」
(7)
それから、何年か後のことだった。
ふと気づくと、僕は一人、白い霧に包まれて、広い平原の中に突っ立っていた。
まるで、雲の上にでもいるようで、足元がおぼつかづ、フラフラとしていた。僕は仕方なく、歩いた。
何もない霧の中を、歩いた。
あたりは静まり返り、何も感じなかった。冷たくも、温くもない空気だった。
ふと、人影に気づいた。老人のようだった。
冷たく、静かな、なんら存在感を感じさせない、そんな男だった。
僕は彼に聞いた。
すると彼は、答えた。
「ここは、あの世とこの世の狭間」だと言った。
僕は死んだのかと問うた。
「たまに、未練のあるものが迷い込む」のだと、彼は呟いた。
僕には自分の中の未練がなんなのかを知らなかった。
確かに、やり残したことも、失敗したことも多くあった。だが、どれも違うと感じた。まったく釈然としない時間が過ぎ去っていった。
ふと、気づくと老人は消えていた。僕はまた一人になった。
深い深い、ただ、どこまでも深いだけの霧の先を見つめていた。
はっとした!
そこには影があった。存在があった。その姿が、はっきりと見えた。
「ハッピー!」
彼は、かつてのように、あの頃の楽しかった、あのひと時のように、走ってきた。僕に向かって、一直線に走ってきた。
彼のぬくもりが、暖かな、あの軟らかい肉体が、僕の胸の中で踊っていた。尻尾が、ブンブンと揺れていた。あの、小さな舌が、僕の涙を洗ってくれた。あの、懐かしい時が、僕の心を満たしていった。
「こんな、どうしようもない男に、お前は会いに来てくれたのか!お前は、俺を許してくれるのか?ごめんよ、ごめんよ、ごめんよ、ごめんよ、ごめんよ・・・・」
(8)
ふと目覚めた。
真っ暗だった。
そこは、マンションの寝室だった。
あたりは静まり返っていた。僕は一人きりだった。冷たい空気が包んでいた。
天井を見つめた。
何もない、真っ暗な空間がそこにはあった。
「いずれ、もっと生活に余裕ができたなら、きっとそうしよう。犬を飼おう。そして、今度こそ、ハッピーにしてやろう」
そう思った。