それも、桜の…。
06
思い出すのは、春の頃。
年に一度行われる盛大な花見の席。
父である水神自慢の広大な桜山にたくさんの客を招いて、飲めや歌えの大宴会が開かれる。
まだ幼い睡蓮は、侍女に手を引かれて宴の片隅で遊んでいた。
女達の舞を見、花見用のご馳走をつまみ、大勢の大人たちに頭を撫でられて、すっかり楽しくなる。
父や母は宴の客をもてなすのに忙しく、一緒に来た侍女も手伝いを頼まれて大わらわで飛び回っている。
いつも睡蓮を傍から離さない兄や姉達も、案内役を賜り宴の席を右往左往している。
風神を賓客の席に案内して戻ってきた長兄が、睡蓮を見つけ笑顔を浮かべて近づいてきた。
「睡蓮!」
「兄様ぁ!」
「うまいもの喰ったか?」
「えーっとね、お団子とお砂糖のお菓子食べたの」
「そっか。まだ客が多いから、もう少し落ち着いたら一緒に遊ぼうな。待てるか?」
「ん!」
「睡蓮は、本当にいい子だなぁ」
よしよしと頭を撫でる。
「翠玉様! 次のお客様が…」
「いけね、よばれてら。じゃ、またあとでな」
睡蓮に手を振りながらあわただしく長兄が駆け去る。
にこにこと笑顔を浮かべて、離れていく兄の背中に手を振る睡蓮の髪を風が乱す。
「やん…」
気まぐれな風は桜の花びらを散らし、豪華な花びらの絨毯が出来る。
(すごぉい! きれぇ)
睡蓮は桜の道をたどって森の奥へ踏み出した。
花びらを小さな両手ですくいあげて、散らしてみる。
枝振りのいい桜の木を見つけて、近くまで寄って見上げる。
見えない手に招かれるように、森の奥へ奥へと踏み込んでいく。
綺麗で、楽しくて……。
だから、気づいた時にはもう遅かった。
いつのまにか、周りには桜の花しかなかった。
遠くに見えていた舞台のやぐらは視界から消え、宴のざわめきももはや聞こえない。
「あ、れ…」
不安になって小さく声を漏らす。
頼りなく響く声は、桜に吸い取られるようで、更に不安がつのる。
「ここ、どこ? 睡蓮、どっちから来たんだった?」
言葉にすればするほど、不安で……、さっきまであんなに綺麗に見えていた、桜の花までもが恐ろしく見えて、睡蓮は帰り道を探して走り出した。
「父様ー! 母様ー! 兄様…、姉様…」
順番に呼びながら闇雲に走る。
しかし、あたりは桜。
桜ばかり。
まるで迷宮に閉じ込められたように、どれだけ走っても切れ目はなく、桜の木々だけしか見えない。
走って走って、走り疲れて。
とうとう立ち止まってしまった睡蓮は、ぜいぜいと息をつきながら、堪えきれず泣き声をもらした。
「ふぇぇん。父様ぁ、母様ぁ。う、ううぅ、」
小さな掌を拳に握って両目に当て、盛大に泣き始める。
睡蓮の涙に誘われたように、晴れた空からぽつりと雨の雫が落ちる。
ほとほとと、音もなく静かに。
「うるせぇな…」
不機嫌そうな声が聞こえ、睡蓮ははっとして声のほうを見た。
「眠れねぇだろ」
一際枝振りのいい桜の下に見知らぬ青年がいた。
片膝を立ててだらしなく身体を投げ出して、腕まくらで寝転んでいる。
「おまけに雨かよ、ったく」
ちッっと忌々しそうに舌を打って身体を起こすと、あくびをかみ殺しながら立ち上がり、睡蓮など目に入らないといった様子ですたすたと歩き出す。
(あ、行っちゃう!)
睡蓮は慌てて青年に走り寄った。
「待ってぇ!」
青年は至極迷惑そうに振り返り、
「……んだよ」
「あのね、あのね、ここ、どこ?」
「さぁ? どこだろうなぁ」
「道がわからないの」
「そりゃ災難だな。んじゃ、頑張れよ」
あっさり立ち去ろうとする青年の袖を必死で掴む。
「行かないで!」
「……袖、離せ」
「いーやーー!!」
ひしっと脚にしがみつき、
「置いて行っちゃいやなの、ひとりは怖いよぅ」
大きな目に涙をたくさん溜めて青年を見上げる。
「一人は怖い、か…」
青年は肩をすくめ、
「わっかんねぇな。そんなもんなのか?」
「ん」
こくこくと何度も頷く睡蓮に、
「お前なぁ、俺が人に化けた鬼だったらどうする? お前みたいなちびすけ、骨までガリガリ喰っちまうかもしれねぇぞ」
長い爪をひけらかすように指を曲げ、脅しにかかる。
「ふぇ…」
睡蓮はびくっと体を震わせへなへなとしゃがみこんだ。
腰が抜けたらしい。
それでも、しっかり青年の脚にしがみついたまま、
「えっ、えっ。父様、母様ぁ」
大声を上げて泣きじゃくる。
涙に呼応して、雨も激しくなる。
桜の花びらを散らしながら、しとどにすべてを濡らしていく。
冷たくはない。やわらかな春の雨。
青年は空を仰いで濡れた髪を掻き揚げ、
「ったく。しかたねぇなぁ」
ひどく面倒くさそうに呟くと、睡蓮を無理やり脚から引き剥がし、腰をかがめて目線の高さをあわせた。
「おい、お前、どっからきた?」
睡蓮はしゃくりあげながら、
「ひっく、ひっく。わか、らなっ。きょ、は、お祭りで、お花、みてた、ら、帰れな、うっ、うぇーん」
「ああ、そいういや今日は水神の花見か…。ぴーひゃらうるせぇから閉めたんだっけ…。あ…」
何か思い当たることがあったらしく、小さく声を上げたっきり言葉が途切れる。
睡蓮は何も気付かず、泣きながら青年の顔を見た。
「うっ、うぅ。おうち、帰りた、い、よぅ」
「わーった。わーったから、泣くな。泣かれるとどうしたらいいかわからねぇ」
乱暴に睡蓮の頭をごしごしと撫でる。
どんな心境の変化か、少しだけ優しい口調で、
「連れてってやるよ」
「ほん、と?」
「誰に物言ってんだ? 俺が口にした言葉は絶対だ。…って、お前みたいなガキに言ってもしゃーねぇか」
「おうち、帰れる?」
「ああ」
「よかっ、た。ふ、うぅ…」
ほっとしたのか新たな涙が大きな目から零れ落ちる。
目に涙を溜め、それでも睡蓮は笑顔を浮かべた。
「あり、がと」
「ふん」
青年は鼻を鳴らして、くるりと睡蓮に背を向けた。
そのまましゃがみこみ、
「ほらよ」
「んん?」
「歩けねぇんだろ」
「あ…」
確かに、走り疲れと泣き続けたせいでくたくたの上、先ほど脅されて腰が抜けたせいか、足腰がふわふわ頼りなく力が入らない。
「帰りたけりゃ、さっさと乗れって。ぐずぐずすんな」
「ありがと、お兄ちゃん」
睡蓮は背中に手をかけてやっとの思いで立ち上がり、覆いかぶさるように青年に身体を預けた。
青年は軽々と睡蓮を背負い、ゆっくりと歩き出した。
「あのね」
「うぜぇから、黙ってろ」
「ふぇ」
「それと、泣くな」
「すん」
声を殺して一生懸命に涙を堪える。
「ふん」
涙の気配を察したのか、青年は溜息混じりに小さく鼻を鳴らし、低い声で歌い始めた。
かすかに掠れた歌声。
それは睡蓮の初めて聞く言葉や節回しで。
しかし、甘く優しい響きは睡蓮の心にすっと溶け込んだ。
背中で揺られながら切れ切れに続く歌声を聞いているうちに、気持ちが落ち着いてくる。
春の雨はいつの間にかやんでいる。
睡蓮は、ぎゅっと、青年の服を掴んだ指に力を込めた。
振る舞いは乱暴でも、その背中は温かい。
よほど疲れていたのか、青年に背負われたまま、睡蓮はことんと眠りに落ちた。