晴れの雨
04
「涙雨ですな」
爺の声で過去から現実に引き戻される。
「ふん」
朱鷺は大儀そうに起き上がって胡坐をかいた。膝の上に肘を立てて頬杖をつき、障子の外に視線を向ける。
春の雨は、水神の情け。
大地を潤し豊穣をもたらす恵みの雨だ。
そして…。
皓々と輝く月を見る。
夜空は晴れて、雲ひとつ見当たらない。
晴れに降るやわらかい雨は、春の姫君の涙だ。
「しんきくせぇ雨だ」
不機嫌そうに唸って立ち上がる。
「気がのらねぇ、今日はもうお開きだ」
ひな壇から飛び降りそのままつかつかと出て行こうとする。
爺が慌てて朱鷺の袖を掴み、
「お待ちくだされ、殿! どちらに参られますのじゃ」
「……。散歩だ散歩!」
「散歩、ですとな。」
爺はにいっと笑みを浮かべた。
「なに笑ってるんだ。気色悪ぃな」
「いやはや。申し訳ありませんじゃ。殿、散歩ならこれをお持ちくだされ。」
にこにこ笑いながら、朱鷺の懐に砂糖衣の菓子をしのばせる。
「いらねぇよ。俺は甘いもんなんか喰わねぇ」
「まあ、そう言わず。備えあれば憂いなしですぞ。ささ、殿、ごゆるりと行ってらっしゃいませ。宴の後の始末はこの爺にお任せあれ」
ちッと、忌々しそうに舌を打ち、
「んだよ、たく。ただの散歩だって言ってんだろ。」
「分かっておりますとも。」
したり顔の笑みをひとにらみし、朱鷺は表で丸くなっていた妖狐の背中に飛び乗った。
行く先を告げなければ、妖狐は屋敷を目指すようにしつけられている。
「ふん」
大きく鼻を鳴らす朱鷺を乗せて妖狐は立ち上がり、ふわりと空を蹴って走り出した。
05
妖狐の背中でほろほろと涙をこぼしていた睡蓮は、大きな舌でぺろりと頬をなめられて、屋敷の中庭に着いたことに気付いた。
刻守の王の屋敷の離れ屋が、睡蓮に与えられた住居だ。
「ありがと」
首を後ろに曲げている妖狐の頭を撫でて、とんと屋敷の縁側に降りる。
「睡蓮様」
睡蓮の世話を任されている供の者達が走り寄ってきた。
「いかがなされました!」
十二単も髪も乱れ、被っていたはずの冠はどこかに落としてしまったらしく、頭の上から消えている。
おまけに、寸前まで泣いていたと分かる充血した目と濡れた頬。
「姫様! 大丈夫ですか?」
「朱鷺様はいずこに?」
「おひとりでお戻りですか」
心配そうに駆け寄った供の中に朱鷺の乳母の姿を見つけ、睡蓮は彼女に抱きついた。
「ふぇーん。ど、どうしよう。うっうぅ」
そのまま泣きじゃくる。
「姫様……」
(月夜の雨だと思ったら…)
「睡蓮様、ささ、こちらに」
乳母は目配せで周囲の者を下がらせ、睡蓮の手を引いて一番近い部屋に入った。
しゃくりあげながら泣き続ける睡蓮の背中をとんとんと優しく叩く。
刻守の王の印を背負って生まれてきた朱鷺を、彼の両親の代わりに育てた女傑は、初めのうちこそしきたりを破って強引に朱鷺と婚儀を行った無作法な姫君を毛嫌いしていたが、内儀としての作法を仕込んでいる間に変わった。
今ではすっかりこの無邪気な姫君を気に入っている。
夕刻、「聞いて、聞いて! あのね、今日はお雛様ごっこするのですって!」と、わくわくした顔で離れ屋に戻ってきた睡蓮の衣装や化粧を調えたのは彼女だ。
泣き声が小さくなるのを待って、
「姫様、そんなに泣いては目がとろけてしまいますよ」
「う、うっ、だって」
「どうされたのです? 乳母やに話して下さいまし」
「…ど、しよう。も、朱鷺様の、お傍、に置いてもらえな、かも…。」
切れ切れに言う端から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれる。
「まさか、そんな」
「だって、と、き様に、きら、いって、言っちゃったの。…どうしよ、う。ふ、うぅっ。」
「いったいなにがあったのです?」
いつも朱鷺の後を追って、朱鷺だけを見つめている睡蓮が嫌いなどと口走るのだから、よっぽどのことだ。
「え。…あの」
一瞬涙が止まる。
睡蓮は、かぁっと赤くなってもじもじしながら下を向いた。
着衣の乱れと睡蓮の反応で、大体の予想が付いた乳母は、ため息とともに、
「殿がご無体なことをなさったのですね」
「違うの! 朱鷺様は悪くないの。……でも恥ずかしくて」
消え入りそうな声。
「嫌、だったの。止めてってお願いしても聞いてくださらなくって。もっとって。そんなの…。」
再び睡蓮の声は湿りを帯び、くすんくすんと鼻を鳴らし始める。
「とっても悲しくなって、思わず嫌いって言っちゃったの。」
顔をあげて乳母を見る。
大きな目からは、新たな涙が今にも零れ落ちそうだ。
「ね、朱鷺様、睡蓮のこと嫌いになっちゃったのかな。いつも優しいのに、どうしてあんな意地悪…」
乳母はふっと微笑んで、懐から取り出した絹布を睡蓮の目元にあてた。
朱鷺の気ままで勝手な振る舞いを“優しい”と思っている睡蓮の無邪気さを愛しいと思う。
気が向いた時にからかっているだけだとしても、睡蓮にとってそれは嬉しいことらしい。
「姫様、刻守の王のお役目は覚えていらっしゃいますか」
「ん」
「お役目を果たすために、刻守の王は物心つく前に父君母君から引き離され、隔離された場所でおひとりで過ごされます。お傍に仕えるのは世話役と刻守の王の務めを説く語り部だけ。そのお役目ゆえ、情けを持たぬように育てられるのです。だから、人に優しくすることに慣れていらっしゃらないのですよ。」
睡蓮がこくんと頷く。
「大丈夫。殿は姫様を大事に思っておられますとも」
その証拠に、睡蓮を内儀に迎えて以来、朱鷺の酔狂な遊びはぴたりと止まった。
かつては、退屈しのぎに人界に降りては、少しでも気に入った相手ならば男女問わずに派手に遊んでいたものだが、めっきりそういうこともなくなった。
悪ふざけが過ぎることはあるが、睡蓮に心を傾けているのだと思う。
「本当はお優しい方なのです。お嫌いにならないで差し上げてくださいまし、ね?」
「嫌いだなんて! 朱鷺様のこと大好きよ。」
(朱鷺様は、とってもお優しいもの…。)
そう。めったに発露しない朱鷺の優しさを、睡蓮は知っている。