王と花嫁
03
既に知らせが届いて大騒ぎになっている屋敷を、供の者を振り切ってずかずかと歩き、寝所の扉を開ける。
朱鷺は睡蓮を寝台に座らせて、窮屈な正装の首元を緩めた。
「と、朱鷺様! お待ちくだされ!」
慌てて踏み込んできた爺や供の者を蹴りだし、
「出てけ、野暮なことすんなってぇの」
ぴしゃりと扉を閉める。
睡蓮に近づくと、彼女は無邪気な笑みを浮かべて朱鷺を見上げた。
「朱鷺様?」
「抱くぞ」
「えぇ、でもまだ私、私…」
睡蓮が慌てふためく。
朱鷺はにやりと笑い、
「俺の嫁になるんだろ?」
「あ、はい。お嫁さんになりたい、です」
「だったら、じっとしてろ」
「…はい」
「いい子だ」
蝶よ花よと可愛がられてきた深窓の姫君だ。
いきなり心の準備などできるはずがないとわかっている。
だが“しるし”をつけておかなくては、きっと奪われる。
婚儀の支度を整えるなどと態の良い理由を付けて睡蓮は水神の元に帰され、二度とここへは戻ってこない。
しきたりを破った園遊会の出来事は隠蔽され、最初から決められていた花嫁が朱鷺の元に届けられるだろう。
これまで、彼が心を留めたものはすべて奪われてきたのと同じように。
刻守の王は、世の来し方と行く末、時の流れと季節の移ろいを見守るのが役目。
情に流されて時を歪めることのなきよう、心を揺らすようなものは周囲から丁重に遠ざけられる。
唯一、側に置くことを許されるのは、外界から切り離され半ば人身御供のように差し出される花嫁だけだ。
しかも、花嫁のために道を踏み外した愚かな王の前例から、その唯一の相手すら、今は自分で選ぶ権利はない。
与えられた花嫁と次代を生すという義務を果たすだけだ。
運の悪い花嫁殿を、愛することはできない。
生まれてすぐ両親より引き離され、情けを持たぬように育てられてきたのだ、もとより人の愛し方など知らない。
それでも、自分と同じ境遇に身を置く羽目になった花嫁を、不憫だと憐れむことはできる。…出来ればいいと思っていた。それが出来ないなら、自分は心のないただの鬼だ。
朱鷺には自分を憐れむ気持ちはない。
悠久の時が流れ、刻守の役目は既に形骸化しており、周りから敬われてはいても、既に権威は失われている。
なのに、刻守の王となる運命を背負った子どもが烙印を背負って生まれてくるのは、世界の秩序を保つには、たとえ幻影であったとしても目に見える旗が必要だからなのだろう。
運命から選ばれた不幸…それは朱鷺にとって、憐れまれるべきものではなく、ツキがなかったと笑い飛ばすべきものだ。
しかし、花嫁は違う。
運命から選ばれたのではなく、周囲から追い詰められ、押し付けられて、ここに送り込まれるのだ。
だから、憐れまなくていけない、と、朱鷺はずっと思っていた。
否応に関わらず、刻守の王の果たすべき責務のひとつとして。
(けど、こいつは…)
緊張した面持ちで朱鷺を見上げている華奢な姫君のやわらかな髪に指を差し入れる。
自分から花嫁になりたいと言い出した、無邪気な姫君。
ロクに会ったこともないはずの朱鷺を好きだという、風変わりな姫君。
彼女自身が望むというのなら、朱鷺が呵責や憐れみを抱く必要はない。
それだけではなく、もしかしたら、朱鷺の心から欠けてしまったものを探し当ててくれるかもしれない。
きらきらと輝く、愛情にあふれた若葉色の瞳で。
諦念の底に埋めていた執着を思い出す。
久しく忘れていたその焦げるような感覚。
失わないためには、今、自分のものにするしかない。
後先のことなど考えてはいられなかった。
髪に差し込んだ指を滑らせ、顎に手を当てて唇を近づけると、睡蓮はびっくりしたように大きく目を開いて朱鷺を見た。
「目ぇ閉じろ」
「ふぇ」
泣きそうに強張った顔で情けない声を漏らす。
「目ぇ閉じろって言ってんだろ。」
こうまじまじと見つめられてはさすがにやりにくい。
「は、はい」
睡蓮は慌てて、必死の形相でぎゅっと目を閉じ唇を堅く引き結んだ。
小さな身体は緊張でがちがちに固まっている。
思わずくすりと笑い、
「怖いか」
睡蓮は目を閉じたままぶんぶんと首を振った。
「こ、怖くないですッ!」
ふわふわとやわらかい髪が朱鷺の腕に触れる。
「嘘つくなって」
笑いを含んだ口調。
睡蓮はほんの少し目を開けて朱鷺を見上げ、
「少しだけ…怖い、です」
(やっぱ、こいつおもしれぇ)
「獲って食うわけじゃねぇし、そう怯えんなよ。痛くしねぇから」
(……多分)
「はい」
睡蓮がふわりと笑う。
「だーかーら、目ぇ閉じてろっての」
答えは待たず、朱鷺は睡蓮の瞼を左の手のひらで覆って、華奢な体を抱き寄せた…。