第三章・3
「私が悪いんだ戸村さんの言うこと聞かなかったから」
「アタシが悪いのよ呪いに使う針をもっとしっかり消毒しなかったから」
「郵便ポストが赤いのは俺のせいじゃないよ」
どうしようどうしようと慌てふためきながら、具合の悪くなった橋田その他数名を病院に担ぎ込み、とにかく工場に戻って、走れる者は走り叫べる者は叫び組めるモノを組みあげて削れるモノを削りまくって、そうこうするうちなんとかかんとかその日の出荷を終えてみると、いつの間にやら陽はとっぷり暮れて、事務所の机上には未処理メモの隊列、工場の作業場には薄ぼんやりとした灯りが揺れ、周辺民家に気づかいがちに、トンテンカントンテンカン。
「そんで、どうなった?」
深夜近くに、彰久がやってきた。
昼に彼が一度職場に戻ってから、事態はすこしも好転していない。請求書の入った大量の封筒に切手を貼りながら、那月は首を横に振った。ショックで声がうまく出ない。
「つうか、ほんとに食中毒? 単に橋田さんたち食いすぎただけとかさあ」
ふるふるっと、再び首を横に振る。
「……確かに……食べすぎなければ平気だったかも、だけど」
「そっか。しかしまた、災難だったもんだね」
彰久の口ぶりは軽かったが、那月的にはさすがにダメージが大きく、正直なところ、泣きたいのをこらえるので精一杯だ。ぴりっ、と切手が変なところで千切れ、ますます悲しくなってくる。
「そういや戸村くん、市川んとこ行ったんだろ? なんて」
「……」
「事情話して、一日だけでも来てもらったらいいんじゃない?」
「……話したんだけど」
「ああ。それで?」
「エンガチョって言われた」
「小学生かよ」
チッ、と彰久は、妙に丁寧に舌打ちした。
二人でたそがれていると、千榛が事務所に戻ってきた。見れば作業場はまだ明かりがついたまま。おそらく、なにか必要なものを取りにきただけだろう。
千榛は、凶悪犯罪者専門の刑務所看守のような厳しく沈んだ面持ちで、押し黙ったまま二人の前を横切ってゆき、棚に向かうと、一番下の引き出しをあさってファイルを引っ張り出した。再び、無言でドアに向かう。
「……千榛」
低く、彰久が呼び止めた。
さっきまでの柔らかい調子とは明らかに違う剣呑な響きに、千榛だけでなく那月もびくりと肩を震わせる。
「あのさ。千榛お前、なにか言うことあるんじゃないか?」
「……那月、それ終わったら片付けて寝ろ」
彰久が拳で机を叩く。
積み上げてあった請求書がザッと崩れた。
「なあ。これってけっこーな事態じゃないの? 打開策は見つかったのかな、三代目?」
「うるさい。お前に関わってる時間が惜しい」
払いかけた腕を、彰久が掴んだ。
相当力がこもっていたらしく、千榛ははっきり顔をゆがめる。
「頑張ってどうにかなるって段階じゃないだろが。あのな、千榛。俺も、いーかげん頭にきてんだけど」
「……んだって?」
「お前はバカか? それとも、ふざけてんのか? 目の前にいる男がどんだけ役に立つか、わかってて気付かないふりしてんの? ここまできて、どうして一言『助けてくれ』が言えないんだお前は」
「ふざけてるのはどっちだ」
千榛が、掴まれていた腕を振り解く。
「毎度キテレツな色彩でちゃらちゃらしやがって、ちょっと金持ってると思っていい気になるなよ。お前に泣きついてバルブが納期どおりに仕上がるとでも?」
「仕上がるっつうの! 金の力なめんな!」
「わあ」
間抜けな声は、啖呵に驚いて、せっかく拾い集めた請求書をまた床一面に散らばせてしまった女子高生のものである。社会人はビリビリと睨み合っている。
紙を回収しながら、那月は息をひそめた。そう頻繁ではないが、きっかけさえあれば取っ組み合いの喧嘩も辞さない二人だ。そして空気は、間違いなく緊迫している。
やるなら……できれば……外でしてほしい。請求書の再発行は時間がかかるのだ。
ごくりと喉をならすと、一瞬、姉が妹を見た。
あ、と思った途端、彼女は彰久の胸倉を掴み寄せる。ぎらりと瞳が底光りした。
「そうまで言うなら助けてみろ」
突き飛ばすように千榛は彰久から手を離し、本当はまだ言いたいことなんかいくらでもあるがそんな暇はない、という顔で事務所を出て行った。
わずかな静寂のあと、作業所のほうからドラム缶を盛大に蹴飛ばす音と、かすかに呻く声が聞こえてくる。あの勢いでは、さぞ痛かったことだろう。
「……ちょっと、どうよ」
ぽかんとした顔で、彰久が呟いた。
「まーまーなんて可愛くないんでしょ、見た? 見たよね那月ちゃん。あれが人に助けを求める態度なわけ? やあねちょっと、ほんと、なんて……」
さっきとは別人のようなふにゃふにゃした口調でほにゃほにゃ言いながら、右に行き左に戻り。
「ヤダちょっと信じらんない、あんな可愛げないオトナになっちゃいかんよ、やーほんと、いかん、ねえ、那月……」
「アキにーちゃん、照れてるの?」
「……っっ」
「照れてるんだ。あ、ごめん足元、請求書」
面映いような気分で那月が彰久を覗き込むと、ふんっと言って目をそらす。
「ま、可愛くないけど、許可でたからね」
「アキ兄ちゃん?」
「ぎゃふんと言わせてやる」
それはいったい誰に対しての言葉なのか。
請求書の束を抱えたままきょとんとする那月の前で、彰久は笑い出した。悪代官のように声高らかに。確実に近所迷惑だ。
とりあえず。
那月は小さく「ぎゃふん」と呟いてみた。