第二章・3
「呪いの羊肉だよー」
焼きたてを皿に盛り、休憩室を訪ねると、既に集って弁当を食べていた作業着姿の爺さんおじさん兄ちゃんたちがやんやと迎えてくれた。
後ろで悦子が「味わって食べてよ!」と、ヤカンをぶん回している。
那月ちゃんここ座りなよ。と、菅が折りたたみ椅子を広げてくれた。
「千榛ちゃん、まだ作業場?」
「あー。鬼のような面して削ってたなあ。トムも」
戸村のことを、橋田はたまにトムと呼ぶ。彼いわく、戸村の身体つきは太っていた頃のトム・クルーズに似てるとか。
「……私も手伝って来ようかな……」
座るのを躊躇していると、悦子に思い切り上から肩を押されて着席させられた。
「ダーメ、那月ちゃんは事務関係やってくんなきゃ。今日から来てくれるのをアテにして、月末発送の請求書関係、溜め込んじゃってたし」
「だいたい、那月じゃアレ一本作るのに丸一日かかっちまうよ」
「んだな。不器用だもんな」
「一日でできるか? 逆に壊しちまって、元の材料を取り寄せるのに一週間以上かかるかもしれん」
「那月ならやりかねんわ」
嵐のようにわき起こる笑いが心をえぐる。よちよち歩きの頃から出入りしていた休憩室、誰ひとり悪意など持っていないのは解かっちゃいるが。
「市川は凄かったなあ……」
「8分だもんな。神業だったぜ。才能はあった」
「つくづく惜しい奴を亡くしたもんだ……」
笑いが去ると、演芸場は一転、通夜の会場と化した。
「今でも目を閉じると、市川の笑顔が」
「そういや、あいつの笑った顔って見たことねえな」
「俺もだ。まあ、なんつうか、表情の乏しい奴だったな」
「悦子ちゃん、明日も羊だろ?」
ぎっ、と悦子は歯軋りする。
「残念でした。呪いは一ヶ月に一度しかできません! 悔しい、あのバカが裏切るって知ってたら、野田なんか呪わなかったのに!」
「野田のじーさんなんざアンタが呪わなくても水虫だろうに」
きーきー言いながら、悦子が変な数珠のようなものを振り回す。とりあえずそれがなんなのかについては、不問とするのがこの工場のルールである。
「しっかし……いなくなると寂しいもんだな、一度はこうして同じ羊を食った仲だし」
「だよなあ。うちは一度落ち着くと案外やめる奴は少ないからな、寂しいってのもなんか分かる」
「そういや、なんでやめるって?」
「M工業のアレをやりたくなかったんじゃねえの?」
「そんな風には見えなかったけどな」
「株を……」
那月がぽそりと声を出した。
続きは、悦子が鼻息荒く。
「株をやるんですって。ばっかじゃないの!」
おおお、と室内にどよめきが走る。
「なんじゃそりゃ」
「そんなんいつでもできるだろうに」
「だよなあ、本格的にやるにしても、なにも今じゃなくたって」
ふうっと悦子は息を吸い込み、ためて、市川語録を一気に吐き出した。物真似つきで。
「なに言ってんすか今じゃなきゃ無理。アンタ鉄ばっか削って新聞読んでないんじゃない? 目、見えてます? 今、景気、上向いてきてんっすよね。株はこれから上がる一方っすよね。こういう時って、一日でも早くはじめた人間が勝ち組で、後は負けっつうか。実は元金もう倍に増やしたんです、俺ってこっちに才能あったんです。薄汚い工場でバルブ組み立てて終わる男じゃないっすから。じゃ、ちょっと本格的にデイトレデビューするんで。そのうち証券界の青い稲妻ってテレビの取材とかくる予定なんで!」
……だって。
悦子が披露したのは、慌てて電話をかけなおした千榛が聞いたセリフである。とつとつと言葉を再現するそのときの彼女の顔ときたら、三回くらい暗殺されて墓場から蘇った怨霊のごとき形相だった。
しん、と沈黙が落ちたあと。
「証券界の青い稲妻?」
「なんか……似たようなフレーズを聞いたことあるよな」
ぽつりぽつりと呟きが。
「そういや、今日あたり来るんじゃないか?」
「なあ。あの、社長の幼馴染の色男……つうかチンドン屋っつうか」
「なあ。ええと、あいつはなんだっけ、青じゃないから」
「黄色いハンカチ」
「白い恋人」
「お前ら分かってて言ってんだろ」
「んだな。確か、赤だな。赤い……」
「水道管の……」
「ジャー」
「あ、来た」
表にスクーターの長閑な排気音。
一部フットワークの軽い者たちが窓際にすずなり、そこまでしない者も窓を注視する。
現れた真っ赤な改造スクーター。そこから颯爽と降り立った赤いジャケットの長身の男は、赤いフルフェイスヘルメットのせいでへんにゃりとなった髪を手ぐしで軽く流し、大勢の熱い視線が注がれていることに気が付くと、まるで臆せずハリウッドスターのような大仰な身振りで観客に手を振り親愛の情を示してきた。
滑稽なまでのサービス精神は見事だが、酔狂者の背後に忍び寄る暗い影。
「アキにーちゃん! 後ろ、後ろ!!」
叫んだが、時、既に遅しである。
赤い男は竹箒で尻をど突かれ、コケたところをザクザクと敷地外に掃きだされかかっていた。むろん、掃きだそうとしているのは千榛である。
那月は慌てて駆け出した。
赤い男は突かれこけつまろびつ、
「待て千榛、なし、なしだ!」
と、叫んでいた。
「やっだなあ皆さん、水道管じゃないですよ、スイセイ。彗星です。夜空を駆け抜けるあれですね。まあ聞いてください、前にテレビのインタビューを受けたとき、時期が悪くて勝手に証券界のヨン様って紹介されちゃったんですよ。稀代のハンサムスターってことを現してくれたんでしょうけど、俺的にはそれってどうよと。あんなやぼったい男じゃないのよと。やっぱセルフプロデュースって大事だってそのとき認識したわけですね。以降、俺は自分のニックネームは自分で言って回ることにしたんです。西条彰久、人呼んで、証券界の赤い彗星」
「誰が呼んでるんだ」
千榛が尻をど突く。
よろけた彰久は涙目で、
「お前はどうしてそうも俺のケツに興味を示すかねえ……」
余計なことを言って再び蹴飛ばされた。
ちなみに、さっき、なしなしと騒いでいたのは梨のことだ。来る途中に道端の販売所で二山ほど買ってきたらしい。
「お、羊ですねー呪ったんですねぇ」
「黙れ赤錆水道のバカ」
「……千榛、今日はなんでそんなに機嫌悪いんだ? ワケがわからないよハニー」
「あ、あのねアキ兄ちゃん」
腕をとって隅に連れて行こうとすると、彰久はホールドアップした。え?と思って自らを見れば、那月は右手に果物ナイフを握り締めたままだった。
「那月まで俺に殺意を抱いてるー。姉にどつかれ妹に刺されかけ……どしたのナガハラ・シスターズ。いったい俺がなにしたってのよ」
「ごっ、ごめん、そうじゃないよ違うよ殺意なんてないよ!」
「とりあえずスクーター改造すんなバカ」
ガタンと音がしたのは、千榛が椅子を蹴ったからだ。
さすがに果物ナイフを突きつけられている男の尻を蹴るのは、更なる事件の幕開けになりかねないと判断したらしい。
フン、と荒ぶる女社長は鼻を鳴らした。
「……私は作業場に戻る。戸村に昼飯の時間を作ってやらないと。那月、すまないが、今日はあいつに優しくしてやってくれ。かなり落ち込んでるから」
「ラジャ!」
「なあ~、俺、前にも言ったじゃんか千榛ぅ。あれカスタムOKの車種。正規のパーツしか使ってないのよ。そんで、なにがどーしたの?」
千榛が蹴った折りたたみ椅子に、彰久が無駄なオーバーアクションで腰掛けた。赤いスーツにピンクのシャツに赤いネクタイ。ほんと、自己主張するにしたってなんでこんなに赤いかな、と皆の心がひとつになる。
「……株ってのがねえ」
悦子がホウッと溜息をつく。
「今、千榛ちゃんが一番聞きたくない言葉ベストスリーのひとつなんだよね」
「あとの二つは?」
一同、顔を見合わせた。
「M工業?」
「青い稲妻?」
「……樋口一葉?」
「さっぱりわからんですよ君たち」
彰久は肩をすくめて、持ってきた梨でお手玉を始めた。