第二章・2
翌日である。
秋の朝日に照る山紅葉。
などと口ずさんでみたところで、住宅街にぽつんと立っている町工場の敷地片隅、事務所兼自宅の窓から美しく紅葉する山々など望めるはずもないのだが、那月の朝はなかなかご機嫌うるわしい。
耳を擽る小鳥の声も、背中をぞくぞくと撫であげる冷たい空気も、全てが輝かしい一日の始まりを暗示しているように思える。
近所の量販店で安売りしていた、黄色地にピンクの花模様散るおばさんパジャマ姿で気持ちよくのびをして、早朝から満面の笑顔をもって振り返れば、隣の布団で姉が、苦悶の表情で唸っていた。
(千榛ちゃんって、哲学者か殉教者みたいだ……)
いまだ目覚めぬ姉の枕元にしゃがみこみ、妹は感嘆する。
ウウウ、と低く声を漏らし、眉間にギッチリ皺を寄せ、千榛は奥歯をギリギリ鳴らしていた。はだけたシャツからのぞく巨乳が、みっちりと汗をかいて、たわわに震えている。
頬を指で突付くと、千榛は「ぷはあぁあっ」と息を吐いた。もっと色っぽい反応を期待していたのだが、なにかちょっと違った。
じっと見ていたら、姉はますます苦しそうに顔を歪めた。さすがに可哀想に思えてきて頭を撫でたが、彼女に安らぎが訪れる気配はない。
そういう性格なのだ。
那月は思わず両手を合わせた。
(千榛ちゃんはそのうち、悟りを開いて世界を救うのかもしれない……)
でもね、あんまり顔に力入れてると血管切れるよ……と、鼻をつまむこと二十秒。
ぱかっと大きく姉の口は開き、口の端から涎が垂れたが、がんとして目は開かない。さすが、根性ある……ありすぎる。
まあ。
いいか、朝ごはん作ろっと。
パジャマの上にカーディガンをはおり、スリッパをパタつかせながら那月は階段を下りた。台所に到着。やかんに水を入れ、ガスコンロに天火。
特に理由もなくうきうきしながら、冷凍庫から出したタッパーを並べる。あらかじめ小分けにしておいた造りおきのキンピラにヒジキの煮つけ、小松菜のおひたし、サトイモの煮っ転がし。
手際よくレンジに並べてスイッチを入れ、割った卵をかき混ぜ砂糖ひとつまみ塩少々、朝食はたっぷりしっかり食べるのが、先代がくれぐれもと言いつけた永原家のモットーである。ごはんは炊きたて、味噌汁はワカメ。豆腐はどうしようか、千榛ちゃん食べるかな。
小首をかしげつつ、甘いにおいの厚焼き玉子をひっくりかえしていると、二階からものすごい叫び声が聞こえてきた。
「ひぐちいいいいっっ!!」
ひぐち?
どかん、と、なにか蹴飛ばした音となにか落ちる音。
たぶんというか間違いなく、叫んだのは姉で蹴ったのは本棚で落ちてきたのは本だ。
玉子焼き器の火を止め、味噌汁の火を弱め、パタパタと二階に駆け上がる。
姉は凶悪犯に対峙する刑事のような仏頂面で、崩れた本に埋もれていた。
「おはよ、千榛ちゃん」
「……は」
「悪い夢でも見たの?」
「……」
「ヒグチって誰?」
「…………」
「もしかして樋口一葉?」
ストン、と、本がさらに落ちた。
ぎゃあぎゃあと外でカラスが泣き喚いている。
千榛はのっそり起き上がり、本をよけ、片手で頭をかきむしった。
「うつろな目をした和服姿の女が十人……無表情で襲ってきたんだ」
「不吉だね。ゾンビ映画みたいだ」
「ゾンビは縦方向にゆっくり接近するが、樋口は三倍速で反復横飛びしながら……」
「三倍速?」
ふと、那月の脳裏をかすめた人物というかスクーターがあったが、今は口にしないことにする。
うんうんと頷いて。
「千榛ちゃんの夢って当たるから怖いよね」
姉はハッと青ざめた顔をあげ、妹のつやつやした桃色の顔をしばし見つめた。
「だってホラ、前にもあったじゃない。千榛ちゃんが怖い夢見て魘された日に、債権者のおじさんが事務所で暴れたよね?」
あのときは、地面が割れて新渡戸稲造が垂直方向にボコボコ出てくる夢だったっけ。ひょっとして千榛ちゃん予知能力あるんじゃない? 私もカリカリくんの当たりを見分ける超能力があるから、なんかね、超能力兄弟? スーパーナチュラルみたい。かっこいい。
「ごはん、もうそろそろできるよ」
「そうか」
「厚焼き玉子があるけど、お豆腐も欲しい?」
「……ああ、頼む」
「だけど、なんでいつも五千円札なんだろう」
深い深い溜息をついた姉が、冴えない顔色のまま台所に下りてきたのはそれから二分後のことだった。テレビをつけると男性アナウンサーが、負けず劣らずの硬い表情でニュースを読みあげている。
カレンダーに目をやり、姉は呟いた。
「……那月、今日からまた終日事務の手伝いに入るのか」
「テスト休みだからね。よろしく」
「朝礼でみんなに話しとかないとな」
「玉子焼きに大根おろしつける?」
「つける」
はい、じゃあおろすのは自分でやって。
白い切れ端とおろし金を手渡す。
静かな台所にはしばし、大根の摩り下ろされる音、お湯の沸く音、株価の上昇を告げる声だけが流れた。
千榛は眉間の皺を深めた。
「……景気は上向いてるな」
「そうだね。明るいニュー……」
「貧乏人には辛い時代がやってくるぞ」
那月は、目をぱちぱちさせた。
当たり前のように姉は続ける。
「不景気なときには貧乏という存在も相対的に許されるが、好景気の中の貧乏人は悪だ。嘲笑の対象だ」
「……千榛ちゃん。私あんまり難しいことわかんないけど、とりあえず朝からなにもそんな思いつめなくてもいいんじゃないかな」
「性分だ。朝も夜も関係ない」
「外はこんな明るいのに、くらーい顔して」
「これが地顔だ。知ってるだろう」
「もっと笑ったらいいと思うよ。せっかく美人なんだから」
とはいえ、千榛が笑いたくない理由もわからないわけではない。端正な顔立ちは美男子の父親似。そしてその男はいつもへらへらほにゃほにゃふわふわひらひら。
「……笑う理由がない」
「今日はねー、お豆腐の薬味を多めにしたんだー?」
葱好きな千榛ちゃんとしては嬉しいよね?
微笑んでみせれば、姉は何故だか目を瞑る。大根をおろしながらだ。危ないと思う。
「那月。すまない、いつも苦労を……」
「ちょっ、千榛ちゃんなんでそっちの方向にいくの。今、話題の中心は万能葱だよ?」
「私さえもっとしっかりしていれば、お前が朝から葱を刻む必要だってなかった」
よほど反復横飛びする樋口一葉がショックだったのか、姉はなんだかいつもの二割り増しの勢いでネガティブ磁場を発生させている。ごっしゅごっしゅと力まかせに大根をおろしながら。
「私……いや、私たちのバカ親父な。あいつさえ真人間だったら、今頃、那月は高校生活を楽しんでたはずだ。それを毎日、家事だの工場の手伝いだのに追われて貴重な青春時代を無駄にして……本当なら部活でもバイトでもしたいことをして、今頃は彼氏でもできて、やれ、うきうきだ、わくわくだと……」
「ちーちゃん大根! ストップ! それ以上やったら指まですっちゃうよ!」
慌てて姉の手から卸金を取り上げた。
はっとして固まった姉の前に、そっと差し出す厚焼き玉子。ついでに醤油。
二人向かい合い、改めて「いただきます」を言った。三十秒ほど黙ったあと、ふうっと那月は息をつく。
「何度も言うけど、私は好きで家の仕事を手伝ってるんだよ。だって楽しいもん。毎日ウキウキもワクワクもしてる」
「……」
「部活だってちゃんとやってるし。美術部なんて、時間あいたときにちょっと顔出して絵を描き足してればいいんだから。それにね、うちの学校ってもともとバイト禁止。彼氏も別にいらないよ、ていうか私レズなんだ」
「……」
「千榛ちゃんごめん、そこでなにかアクションほしかった」
「え」
姉は顔をあげ、妹は恥ずかしくなって視線を逃す。
「な、なんだってー! とかさ、なんかさ」
「あ……悪い、聞いてなかった」
「な、なんだってー」
「その……那月が私をそう呼ぶのが、久しぶりだなと思って」
「はい?」
記憶をわずかばかり巻き戻す。
ああ、「ちーちゃん」?
「言われてみれば久しぶりだ! 懐かしいね、昔はちーちゃん、ちーちゃんって……」
「あの頃は本当にドン底の貧乏だったな。お前はいつも腹すかしてぴーぴー泣いて」
思い出話もそっちいっちゃうんだ?
那月はぽかんと、口を半開きにした。
千榛ちゃんは、哲学的殉教者で思慮深くかっこいいけど、でもね、だけどね。
「ひとつだけ、いいかな」
「性分だ」
「……はい、わかりました」
もうちょっとだけ、ポジティブでもいいんじゃないかと思うんだよねえ……?
「社長ー、那月さーん」
表から声がする。
時間はまだ7時をまわったばかりだが、工程職長・戸村正樹の朝は早い。たいがい早い。工場にほど近い場所にアパートを借りていて、ダッシュで走ってくる。元気いっぱいだ。
「今日は先、越されたな」
シャワー室から出てきた千榛がぼそりと低く呟いた。濡れ髪に那月がタオルを投げる。
「戸村さんって、ほんと仕事熱心だね」
「そうだな……それにあいつは……」
「あ、私まだ事務所のドア開けてないや。ちょっと行って来る」
「その恰好でか」
「別に変じゃないよね」
千榛は一瞬、抗議しかけて飲み込んだ。
妹のおばさんパジャマは、家計逼迫の象徴であり……つきつめれば糞親父が、そして自身のふがいなさが……と、また重たい空気が渦巻きはじめる。
姉思考の詳細までは分からないが、朝から何度も垂れ込める暗雲のしぶとさにはさすがにつきあいきれなくなって、那月は駆けていくと朗らかに事務所のドアを開いた。
「おはよう、今日も早いねー!」
その声に、ビシッと戸村は直立して胸を張る。
小さな目がときめいてキラキラ、朝日を受けて汗もキラキラ。
やはり、爽やかな朝のテンションは、こうでなければ。
「自分は、本日一番乗りですか!」
「社長がねぼすけしたからね。まだ着替えてるとこ」
戸村はキュートな笑顔を見せ、那月も釣られてにっこり微笑む。
「あ、でも……戸村さん、このごろ毎日出社の時間が早くなってるよね。大丈夫?」
「大丈夫っす! 自分は高血圧なため、早起きが得意です! それに、一秒でも早く、なつ……いえ! 仕事に取り掛かりたいと!」
ちょっと待ってねー、と、那月はタイムカードの電源を入れ、カードを両手で差し出した。
「ならいいけど、戸村さん、昨日も一番遅くまでいたよねえ」
「はい、T建設の納品が押しておりまして! 備品関係でつまらないクレームが少々……それは社長にも報告済みです! それで自分は、工程職長という立場上、チェックが必要であろうかと考え、その……」
「じゃあ、出荷場の鍵、出しておくね。T建設かあ。昨日、悦子さんが怒ってた件かな。野田さんだっけ」
「はい、現場にその野田なる無能の指揮官がおりまして、電話攻撃をしかけてきます! 休みなくこう、バンバンバンと」
「バンバンバン?」
「失礼しました、電話ですのでリンリンリンであります! しつこいうえにガラが悪く、昨日も悦子女史の機嫌を大いに損ね……」
「聞いた。すっごい怒ってたよ。呪うって」
呪いと聞いて軍曹戸村、味方の前だが思わず半歩、後じさった。
「女史の……呪いの儀式でありますか!」
「今日は羊肉が食べられるね」
「いけません那月さん!」
右腕を大仰に突き出した、その顔が真剣に青ざめている。
「え。いけないの?」
「女史の呪いは本物であると、自分は報告を受けました! N鉄鋼の失敬な営業が半年前に呪われたことを、那月さんは……」
「覚えてるよー、自分がいい加減な仕事をしといて、文句いった悦子さんを茶化したんだよね…細かいこと気にしてると皺と白髪が増えるとか」
「彼奴は今、水虫で苦しんでいるそうです。恐ろしい話です。那月さん、そのような呪われた肉を食しては!」
「戸村さん、羊、嫌い? おいしいよー。針いっぱい刺して柔らかくなってるし、ワインかけて一晩おくからいい味が染み込んでるのに」
既に那月はおいしい思い出と今日への期待に胸いっぱいだが、たぶん戸村が訴えたいのは、そういうレベルの話ではない。羊にかけられた水虫の呪いが、それを食した人物の人生をも足元から蝕んでゆかぬと誰が言えようか。現実にも水虫は治しにくい病気である。まして、人生に塗る薬はない。
「那月さん……自分は、自分は……」
「うん、でも、苦手ならしょうがないよね。だけどもし興味があるなら、今日のお昼に差し入れするから食べてみてね。橋田さんたち喜んでくれるかなあ」
橋田さんたち、というのは揃って勤続二十年以上のベテラン技術者仲良し三人組みだ。橋田、菅、木庭。肉さえ食ってりゃ俺らいつでも闘える信仰の世代だ。
戸村は小さな目をしょぼつかせた。
ガタガタッと奥のドアが開く。
作業着に替えた千榛が、既に人生腰の辺りまで蝕まれ済みという顔つきでやってきた。
「どうした、なにか問題でも起きてるのか?」
「社長、おはようございます! 問題は特にありません!」
「千榛ちゃん、戸村さんはすごく頑張ってるんだよ。顔見るなり問題あるのかなんて、朝から失礼だよ。今年の冬は、ボーナス出せるといいね」
「……景気は上向きだからな」
苦虫を二百匹ほど一度に噛み潰したような顔で、千榛は呟いた。
「注文は順調に入ってきてるし……生産が追いついてないが……」
「社長、自分らが頑張りますから!」
戸村は白い歯を輝かせ、頼りがいある笑い声を狭い事務所内に響かせた。が、その陽気なオーラは渦巻くブラックホールの中に吸い込まれた。
那月には、千榛の口中の苦虫が増殖しているのがなぜか、見えた。
「戸村……すまない、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。みんな本当に頑張ってくれてる。感謝してる。ただ、私がいたらないばっかりに……」
「な、ど、どうしたんすか、社長?」
「ごめんね、このひと今朝ちょっといつもより二割増しでネガティブ入っちゃってんの。十人の樋口一葉に襲われる夢みたんだって」
「それは恐しいですね。ヒグチイチヨウ……どこかで聞き覚えがありますが、どちらの殺人鬼、あるいはレスラーですか?」
「レスラー系かな。女子の」
「女子!」
戸村、思わず、叫ぶ。それから、声をひそめ。
「自分もその夢……見たかったです」
安全靴の紐を締めていた千榛が妙な咽せ方をした。
思わず那月も声に出して笑ってしまい、純粋な軍曹だけがまだ勘違いに気付かぬ様子で、ただ耳をうっすら染めて首を傾げた。
台所を片付け着替えをし、事務所の掃除をしていると、ぼちぼち工員がやってくる。
「はよー、那月ちゃん」
「今日も可愛いね那月ちゃん」
「聞いたぞ、昼は羊だってな」
天気が良いせいか、羊肉の噂のせいか、皆が機嫌よさげだ。できればこの雰囲気に染まって、朝礼までに姉も少しはポジティブになってくれればいいのだが。
パソコンをたちあげ、たまっていたFAXを内容ごとに整理し、受発注の準備をしたり必要な図面を探しているうち、気が付けば八時半である。
朝礼場所は事務所前の駐車スペース、そこに集まる人の顔ぶれを見ていてふと、那月は不吉な気持ちに襲われた。しいて言うなら、背後で樋口一葉がほくそえんでいるかのような、いやな感じだ。
慌てて振り向いたけれど、むろん、そこにはなにもないし誰もいない。
「……き……気のせい……だよね?」
呟いたとき、電話のベルが鳴った。
T建設のクレーム、ではないと直感する。
耳の奥で彰久が「アナザーディメンショーン」と囃したてる幻聴を聞きながら、那月は受話器をとった。
外では戸村が嬉しそうに、橋田に話しかけている。おそらく、M工業ぶんの厄介な作業を市川にまかせることにしたから、今日はほかの仕事にまわってくれとかそういう……待って、早まっちゃダメ、戸村さん。
「はい、ナガハラ製作所」
果たして、受話器の向こうから聞こえてきた声は、那月の予知どおりのものだった。
市川耕太は軽い声で言い放ったのだ。
「あ、俺。工場やめることにしたんで。私物とか昨日もって帰ったし、もう行かないです。じゃ」