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 第八章・3

 そんなわけで、夜更けのタンデムである。

 ちなみに父が盗んでいったのは、那月の進学費用としてチマチマと千榛がへそくっていた積立定期だけだったらしい。

 他はまあ、ほとんど手形類だったいうこともあるが、そのまま残されていた。

 なんと分かりやすい悪意。

「千榛の奴、那月名義の口座作って八十万ほど貯めてたんだとさ」

「涙ぐましいね。そしてお父さんは真に根性が腐っているね」

「腐っているな。しかし、涙ぐましいのも悪かないけど、千榛もちょっと頑固すぎないかね? 金なんか俺がいつでも無利子で貸してやるっつってんのに」

「永原姉妹が借金アレルギーって、最初に言ったのアキ兄ちゃんじゃない?」

「え? ああ」

「千榛ちゃんは、アキ兄ちゃんをアレルゲンにしたくないんだよ、きっと」

 なにを今更……と、彰久がぼやき、それにねえ、と那月。

「爺ちゃんが親友からはお金借りるなって言ったから」

「へえ。爺さん、そんなこと言ったのか」

「言った」

「そりゃ参ったな。あいつ爺さんの言いつけ遵守だもんな。……親友ねえ。じゃなんだ、お友達をやめたら金借りるってことか?」

 ううん、と唸り、首を捻り。

 彰久はそれきり黙ってしまった。



 薄暗い事務所内、千榛はひとり作業着のまま壁に寄りかかっていた。

 立つ元気にも座る無気力にも関わりたくないと言いたげに、中途半端に、ぼんやりと。

 軽く叩かれたドアの音に、目だけをわずかに動かす。現れたのは彰久だけだった。

「……那月は? 一緒じゃないのか」

「途中まで連れてきたんだけど、思うとこあって置いてきた。あいつがいると話しにくいことも色々あるんじゃないかと思ってさ」

「……別に、そんな複雑な話なんかない」

「飯はもう食ったのか? そういや、お前の新しい弟はどうしたよ」

「市川なら……ついさっき、例のM工業のやつが全部完成してな。橋田さんたちが、出戻り歓迎会を兼ねて飲みに連れてった」

「へえ、そりゃオメデト。ずいぶん巧くやってんじゃん」

「……ああ。お前には世話になった。ありがとう」

 彰久の腰が砕けかけた。

 弱ってます! コイツむちゃくちゃ弱っちゃってるよ今自分がさらっとなに言ったかわかってないよ!! 

と、大騒ぎしかけて、聞いてくれる那月がいないことを思い出すと、彰久は無言で体勢を立て直した。

 息をつき、胸を張る。いま確認したとおり、誰も見ちゃいないのだが。

「千榛。那月に聞いたんだけど、お前、友達からは金借りるなって爺さんに遺言されてんだって?」

「は? なんだそれ」

 やっと、千榛は顔を上げた。

 気づけば二人は今から社交ダンスでも踊れそうなほど接近しており、千榛は思わず「近い」と呟き、体を離そうとした。だが、一瞬早く、彰久に腰を引き寄せられる。

 視線が絡みあったまま、グイと更に肉薄。

「それってつまり、友達じゃなければ、大手を振って金借りられるってわけだよな?」

「あのな。さっきから、お前の話の方向がさっぱりわからん。それと、顔が近い。耳毛が見える」

「千榛さん。この状況で耳毛なんか見る奴がありますか」

「私だって見たくて見てるわけじゃない、離れろ、みっともない」

「俺たち、つきあいはじめて二十年以上だよね。そろそろ大人の階段をのぼって恋人関係、あるいは一気に愛人にまで上り詰めてもいいんじゃないか?」

「宇宙語を喋るな。だから、顔が近い、ヒゲの剃り跡……」

 ちゅ、と軽く唇が触れた。

 うおおおおっっ、と女性らしからぬ悲鳴があがり、ドタンと派手な音がして、なだれ込んだ机の上で始まる肉弾戦。肩が無理やり押し付けられ、抵抗する腕が、ペン立て・書類ケース・その他いろいろを床に叩き落とし。

「なにしやが……彰久っ!?」

「魚心あれば水心、おとなしく俺の言うことを聞けば無利子無期限でいくらだって貸してやるって言ってるんだよククク。あーれーお代官様おやめになって」

「忘年会の余興なら一人で練習しろっ!」

「よいではないか、よいではないか……」

 リロリロン。

「そこまでだ悪党! その美しい御婦人から離れるんだ!」

 白々しいセリフと妙に可愛らしい音が同時に響き、携帯電話を構えた那月が飛び込んできた。再びリロリロン、と緊張感のない音が鳴る。携帯電話のシャッター音だ。

「アキ兄ちゃんの婦女暴行現場はバッチリ写メらせてもらったよ!」

 彰久は大袈裟に頭をかきむしった。

「あーなんということだー、俺としたことが、でかい乳にうっかり惑わされてー」

「……お前ら……アイドルのコントだってもう少しマシだぞ」

 この大根ども。

 まだ押し倒された姿勢のまま、千榛が吐き捨てる。

 那月の握り締めた携帯の画像をひょいと覗いて彰久は、どーも弱いな、もうちょい際どいのも撮っとこう。と、千榛の胸をいきなり握った。

 ぎゃああっ、という悲鳴と、

 リロリロン。

「今のはけっこーそれっぽいっしょ。そうだ、さっきのチューしてるとこ撮れたか、チューしてるとこ」

「それはバッチリだよ。千榛ちゃん暴れてたからシャッターの音聞こえなかったかもしれないけど。見る?」

「見たい見たい見せろ。わーほんとだ大変だー。こんないやらしい画像をネットにでもバラまかれたら俺の人生おしまいだーハハハ」

「油断したねアキにーちゃん」

 パン!

 千榛が両手を叩き合わせた。

 コント二人組、一瞬にして黙る。

 とりあえず覆いかぶさる幼馴染の肩を乱暴に押し戻し、机から降りた暫定被害者は、あきれ果てて口を開くのも億劫らしい。むっつりと押し黙っている。

「えーと」

 携帯を、那月は後ろ手に隠した。

「アキ兄ちゃんの弱みを握ったから、これからいつでもユスリ……じゃなくて、慰謝料と称してお金を毟り取れるよ、千榛ちゃん」

 ユスリもなにも、だいたいその携帯からして彰久のじゃないか。バカかお前ら。いや、バカだ。バカだバカだバカどもだ。

 と、至極当たり前の突っ込みすらするのが虚しいらしく、千榛は二人から目をそらしたまま、床に散らばった文房具類を拾い集めた。そうして低く、ぼそぼそと。

「私はお前をそんな恥知らずに育てた覚えはない」

「そ、そのつもりがなくたって、育っちゃったんだもーん。残念でしたー」

「千榛お前、一回くらいは那月の反抗期も認めてやれよ」

 よくもしゃあしゃあと言えたものだと、ちょうど手元にあったケシゴムを、彰久の額めがけて投げつける。残念なことにそれは当たらず、千榛ははっきりと舌打ちをした。

 また何か投げつけられるのを警戒してか、彰久は、那月の後ろに回りこんだ。三十センチも低い場所にある肩から目だけ覗かせて。

「だいたい、お前が堅っ苦しいことばっか言うから、俺らがこうやって知恵をしぼって」

「浅知恵だ」

「……アイディアを出し合って、なあ」

「ねえ?」

 共謀二人で頷きあっていると、千榛は黙って顔を背けた。

 さっき避けたケシゴムを拾い、彰久がぽいとぶつけ返す。それは千榛の足元にコツンと当たり、転がった。

「いいじゃん。別に俺、借金のカタに那月をよこせとか言わないですよ、お姉ちゃま?」

「んなことは誰も心配……」

「してないんだ? んじゃいいのか」

 なぜ急に千榛が彰久を睨みつけたのか、ワケがわからずぼーっとしていると、いやねえ違うのよ、と彰久がへにゃけて肩に顎を乗せてきた。

「俺、前から那月にちゃんと株を教えたいって言ってんの。大学なら経済学部か数学関係にいってほしいしさ。けどそれお伺いたてるとね、この頭固くてお金と縁のない貧乏お姉ちゃまが嫌がるわけ」

「誤解を招く言い方すんな。貧乏だろうとなかろうと、普通の神経してたら、株で身を滅ぼす奴なんざ身近に増殖させたくなくて当然だろうが」

「どうよこの言い草。いろいろ誤解してるのはお前だっつの。あのねー、那月は絶対、向いてるって。昔から勘がいいし、ぼーっとしてるようで計算はやたら速いし、よくも悪くも実際に経営ってもんを間近で見てるし?」

 勘がいいったって、ガリガリくんの当たりクジを見分ける程度じゃん……と、那月が口にしかけると、やーちょっと待て、と彰久が手で口を塞ぐ。

「実を言うと、ガリガリくんの当たりクジの場所なら俺にもだいたい分かるんだ。ああいうお菓子の当たりは箱の下一列とか、決まった場所にまとめて入ってる。注意して買ってれば、そのうちボックスの状態からどの辺にあるか見当がついてくるわけよ」

 そっか、今までなんとなく選んでいたけど、無意識に経験と照合してたんだ……と、那月自身が感心していると、胡散臭いものを見る目をしている千榛に向かって、得意げに彰久が声を張り上げた。耳元なのでやめてほしかった。

「しかも! 昼休みに時々皆でやるジュースを買いに行くジャンケン。あれも、那月が負けるのを見たことがない。戸村くん相手なら九割以上の確率で勝てるんじゃないか?」

「戸村さんは必ず最初にパーを出すもん。しばらくパーを出し続けて、視線が泳いだらチョキ、グー。それからまたしばらくパー」

「なんであいつそんなにパーが好きなんだ」

 千榛が呟くと、那月は苦笑いした。

「千榛ちゃんはほとんどグーを出すよね。真剣勝負のときはチョキから入るけど」

「どうですかこの見事な観察眼。向いてるから、絶対。マジにやったら株、いけるから」

 顎が退いたと思ったら、ぽんぽんぽんと勢いよく両肩を叩かれる。

 どうですかって言われても。

 千榛を見ると、いつもの苦悶の表情に戻っていた。さっきまでのぼんやり魂の抜けた顔に比べたら、生気が戻っているぶんだいぶマシだ。この顔を見て嬉しくなったのなんて初めてだなあ、と、考えていると。

「……那月は、経済学部でいいのか? 他にやりたいことがあるんじゃないのか」

 そんなことを真剣に聞いてくるから少し、可笑しい。昨日の夜、市川にはもうとっくに決まってることみたいに「彰久が経営を教えたがってる」なんて言ってたくせに。

「私、別にやりたいことはないよ。ほんとは、大学も行かないつもりだったし」

「大学は行っとけ」

 これはやはり、即答だ。

 姉孝行。と少し前に言ったのは彰久で。

「卑猥な画像でそこの赤いのユスってもいいから、大学は行け」

 というのは、許可が出たということか。

 彰久は相も変わらず、どーしよーナガハラ姉妹に耳の毛まで毟られちゃうわー、と、へらへらしている。


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