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■第八章 最後のひと騒動

 スーパーで買い物を済ませて市川邸に戻り、そっとうかがうと、拓人は部屋にいた。

 彼は一心にパソコンのキイを打ち続けていたが、一応、夕飯について訊いてみると、

「レトルトでいいのに」

 と言いつつも、カレーなら中辛で具は大きめ、と指示は出してくれた。

 それからまた、集中して指を動かし続けている。

 じっと画面を見つめる横顔は端正で、大学時代はモテただろうなと思わせる。アニメを見ている時は多少人間が変わるようだが、人当たりはいいし、社会に出ても充分に通用しそうなのだが。

 どうして閉じこもってしまったものか、本当に世界がどうにかなる日を待っているのか、働きながらその日を待つことはできないのか?

 カチャカチャ音に吸い込まれつつ考え込んでいると、ふいにバチリと目があった。

「君、黒目が大きいね」

「はあ」

 どうも、それきりだ。

 台所に戻る。野菜を切っているときが一番落ち着くなあと、那月は思う。

 包丁とまな板のトコトコいう音が好きだし、工場の仕事と違って仕上がりが多少不揃いでも誰も困らないから、ブサイクに切れてしまったジャガイモにも凹まなくていい。

 ちなみに、昨日の夜に台所を徹底チェックしてみたところ、簡単な料理道具一式は棚の奥から見つかった。実家の母親が一応そろえてくれたものの、使わないので箱すら開けずに棚にしまっておいたということだ。

 玉葱を炒めていると、拓人が台所に出てきた。手伝おうかと聞かれたが、人の手が欲しい作業も特にない。

「まだ高校生だよね? 料理できるんだ」

「母親が小さいときに亡くなって、そのあとずっと爺ちゃんが台所に立ってたんですよ。爺ちゃんが死んじゃってからは私が」

「偉いな……その歳で食事を自分で作ろうと思うのが、偉い」

「だけど拓人さんは、その頃もう恋の虚しさとか世界の消滅に直面していたんですよね。それも凄いです」

 カレーはすっかり準備が整い、プリンの卵を割っていると、慎ましやかに感嘆の声があがった。

 それから。

「君たちから見たら、やっぱり、バカなんだろうね」

「なにがですか」

「僕みたいなオタクはさ」

 換気扇がブンブン唸る。拓人の声は細いほうだが、言葉のひとつひとつがはっきり発音されるので、聞きやすいし耳に心地いい。

「……君たちっていうのは、具体的にいうと、私と、あと誰ですか」

「抽象的な話だよ。つまり、君や、他のみんなってこと」

「それはでも、私以外の人の考えてることって私には分からないから、答えにくいです」

 若いねえ、と拓人は笑った。

「他の人とひと括りにはされたくない?」

「……私、拓人さんは頭のいい人だと思ってますよ」

「じゃあ、キモい?」

「そう思ってるんだろうって初めから決め付けてるんだったら、確かに気持ち悪いですけど」

 ふうん。と、拓人は手持ち無沙汰なのか、那月が家から持ってきたプリンカップを物珍しげに弄っている。

「やっぱり若いねえ」

 つくづくとそう言われてみると、自分がおそろしく生意気でばかげたことを口にしたような気になって、那月は耳まで赤くなった。

「……ほんとです。早く歳とりたいです」

 丁寧に混ぜた材料をカップに流し、一個ずつ、アルミホイルで蓋をする。

「でも私、オタクの人が自分の世界に閉じこもって他人に心を開かないっていうのは、ちょっと本当とは違うと思うんですよね」

「っていうと?」

「別に、オタクの人に限らず、だいたいの人がそうでしょ。そんな誰かれかまわずオープンなわけないんだから、オタクだけそうだっていうの、変です」

「一般人でも昨日の赤い人はずいぶんとオープンだったけど」

「あんな一般人は滅多にいないです」

 いっぱいいたら、私は、楽しいですけど。

「皆それぞれ居たい場所と居たくない場所があったり、話したい人と話したくない人がいて、それだけのことだと思うんだけど……」

 蒸し器がないので、蓋付きフライパンで蒸すことにした。珍しい作り方だと思ったのか、拓人が様子を覗きにくる。

「……好奇心強いですね」

「え?」

「ほんとは、拓人さんって意図的に遮断しとかないとあれこれ興味持ちすぎてたいへんってタイプの人なんじゃないですか?」

「さあね。どうだろう」

 カレー鍋の方に伸ばしかけた手を、後ろに隠しながら。

 拓人は爽やかに笑った。

 つられて那月も笑った。

「君って、人のこと色々分析するタイプ?」

「そういうんじゃなくて、仲良くなりたいだけです。最初はよからぬ下心もあったんですけど、今はとりあえず嫌われないように出方を伺ってるんですよ」

「よからぬ下心?」

 さすがの拓人も声が一瞬ひっくりかえる。

「あ、いえ、だから、今は仲良くなりたいだけなんですよ」

 愛想を振り撒きながら、鍋の蓋を開けてカレーをぐりぐりかきまわす。ほらこれ、友好の証。いい匂いでしょ。

「食べてみて美味しかったら、言ってくださいね。レシピ書きます」

「自信ありげだね。僕の口はレトルトカレーとコンビニプリンで鍛えられているよ?」

「大丈夫です、できるだけレトルトに近い味になるように作ってますから!」

 言うと、拓人は意外にもがっかりしたような表情になった。はっきり本音が顔に出たので、おや、と思う。実は、美味しいものが食べたかったのかもしれない。

「……すみません、だって、慣れ親しんだ味とかけ離れてるから、美味しいかどうか判断できないってなったら悔しいから……」

「成程。君は実に小知恵のまわる子だ」

 小知恵……悪知恵呼ばわりされなかっただけマシか。餌付け、失敗気味。

 フライパン蒸しプリンは十五分ほど時間がかかる。その間にカレーを仕上げ、いい頃合で二人、食卓についた。

 拓人は最初、カレーについてはうまいともまずいとも言わなかったが、焦れた那月が「美味しいでしょ?」

 と聞くと、小さく「うん」と答えた。まずくはないが想定内、という表情だった。

 プリンについては一口めから絶賛だった。




「あのバカ逃がしたのはお前か、那月?」

 次の日、午後。

 昨日作ったプリンを事務所で悦子にも食べてもらい、賞賛を浴びていると、千榛が苦虫を噛み潰しすぎていい加減に顎が疲れたとでもいうような表情でやってきた。

「ええと、あのバカというのは……」

「変態マグロ男」

「今、気付いたってことは、千榛ちゃん、本気であのまま放置するつもりだったの? 風邪ひいちゃうよ」

「バカは風邪ひかない。現に彰久は小学校時皆勤賞だ。中学からはサボリ癖がついたが」

 なんでここでアキ兄ちゃんを引き合いに出すの……と、ぼやきつつ、昨日の宵のふちには逃がしたということを告白する。

 姉は渋い顔のまま、肩を小さくすくめた。

「お父さん、またどこかに消えちゃった?」

「ああ。虫みたいな逃げ足の速さだ。まったく、なにしに来たんだアイツ」

「私たちが元気でやってるか気になったんじゃないのかなあ」

 んなわけあるか、と姉は鼻を鳴らした。

 なわけないね。さすがに那月も軽く同意。

「念のため、盗まれたものがないか確認してみたが、工具類は大丈夫だった」

 社長社長、と椅子に座ったまま悦子が指をさす。デスクの一番下、小口現金用の小さな金庫が入っている場所を。

「そういえば、ここにも五万円くらい入ってるよね」

 緑色の小さな箱を取り出し、那月が振ってみると、小銭のジャラジャラ音がする。

 険しい顔で首を傾げ、千榛が言った。

「一応、開けてみよう」

「お父さん、これの暗証番号知らないから、あるの分かってたら、壊しちゃうか、そのまま持ってっちゃうと思うけど」

 言いつつ、でもまあ一応ね、と四桁の番号をあわせてみる。

 カチャリと開いた金庫の中には、領収書が一枚、ナットが十数個。

 さあっと血の気が引いた。

「『お金、そのうち返します。パパ』」

「あん……の、バカ親父っ!」

 えーちょっとなに、盗まれちゃったの? と悦子が覗き込んでくる。

 クラクラしながら、那月はパソコンのキイを叩いた。とりあえず正確な被害金額を把握するため、小口現金の計算画面を開く。

 千榛がカッカとわめき出した。

「ざっけんなアイツ、探し出してボコる! 金返せ五万円!」

 飛び出そうとする、作業着の裾を掴む。

「千榛ちゃん、とりあえず三万二千八百十五円だよ! 五万円じゃないから!」

「それより通帳とか印鑑は? そっちの確認が大事でしょ!」

 悦子が叫び、

「見てくる!」

 千榛はダッシュした。

 それなりに大きめで頑丈な金庫は、二階の姉妹の寝室にある。

 妙なところに置いたものだが、最初は事務所にあったのを、父が出て行った後で心配性の姉が移動させた。

 やがて千榛は駆け降りてくると、あっちは無事だったと告げた。

 そのまま父を追って駆け出さないよう、再び那月は姉の作業着の裾を掴んだ。

「お父さんを逃がしてお金盗まれちゃったことは謝るよ。でももう、よくない?」

「なに?」

「三万二千八百十五円、これがもし飛行機代だったらとっくに九州くらい行っちゃってるだろうし」

「今頃、博多ラーメンでも食べてるのかと思うとめちゃくちゃ腹立つわね」

 と、悦子が歯軋りした。

「三万円って軽くアタシの一週間ぶんのパート代よ。もー、腹立つわねっ」

 その嘆きに、千榛がピクリと頬をひきつらせる。

「一週間じゃ、三万円いかない……ですよね……すみません……来年こそはなんとか時給アップを……」

「ヤダ、そんな意味で言ってないわよ」

 でも今年はボーナスもらえたら嬉しいわ。

 口調はおどけているが、目が真剣。別方向に頭が冷えたせいか、千榛は父の追跡を諦めたようだった。

「それにしても、お父さん、なんでこの金庫の暗証番号わかったんだろうね」

「そうよね。知ってるの、アタシと那月ちゃんだけなのにね」

「……。ちょっと、貸してくれ」

 千榛が再び金庫を閉じて、グリグリとダイヤルを回した。

 事務所の窓を開けると、門の傍を走っていた戸村を大声で呼び寄せる。

 いつも忙しく小走りな男、戸村正樹は小さいベアリングの入った箱を抱えたままやってきた。箱がカチャカチャ鳴っている。

「呼びつけて悪いな。ちょっと、この金庫開けてみてくれ」

「はあ。これ、雑費用の現金が入ってるやつですか?」

「暗証番号は知らないはずだよな?」

「見当つきますけどね」

 箱を置いて金庫を受け取り、戸村はカチカチとダイヤルを回すと、あっさり金庫を開けてしまった。

「なんでっ?」

 叫ぶ二人を怒るわけにもいかず、千榛は軽く目を瞑る。

「……あのな、那月。たぶん、ここの連中の大半が、見当くらいならつけられると思うぞ。暗証番号がお前の誕生日じゃあな」

 悦子が呻いて両頬に手をやった。

「だって、アタシの誕生日じゃあダメなんだもの、十一月十一日よ」

「てゆうか、暗証番号を誕生日にしちゃダメってほんとなんだね……」

 考えてもみれば、父にとっては人生最大級の呪われた日だ。忘れるわけがない。

 事情をいまいち察していない戸村は、にこにこ笑って、

「番号を変えるんだったら、女史の生まれた年はどうですか。俺なんかまったく見当もつきませんよ」

 と言い、悦子に顎の下を擽られて悲鳴をあげた。


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