第七章・3
お昼のうちになにか作っておこうと冷蔵庫を開けると、スーパーの袋に入ったままの鮪漬け丼が一個。
とりあえずそれは無視して猛スピードで野菜を切っていると、窓の外を工員たちが休憩室に向かって歩いていくのが見えた。
ベテランの菅が、奥のほうで作業していたらしい市川を呼び、にやにやしながら頭を小突いてなにか言うと、囲んでいた数人がどっと笑いあう。
市川はへこへこと頭を下げたり、肩をすぼめたり、他の者がその背を叩いて、どうやら彼の復帰はすっかり受け入れられたらしい。
手元のガスコンロで鍋の蓋がガタガタいって、那月は意識を引き戻された。
良かった、と思う気持ちが7割。
ほらね、皆あんないい人たちなのに勝手なことしてハラハラさせてさ。と拗ねたい気持ちが1割、そういう風に考える自分がちょっとヤダなあ1割、残り1割は落ち込みそうだからあえて分析しない。
「なにやってんの那月」
考え事をしていたので、背中の気配に気付かなかった。
目に痛い赤を覚悟して振り返ったが、今日の彰久はブラックの地味なスーツ姿だ。
「どうしたの、そのカッコ」
「さっき着替えた。今から会いに行く偉い人が赤いのNGだから」
財界の重鎮なんだけど、ちょっとボケちゃっててさー、人の赤い服見ていきなり「許せ久乃! 許せ!」ってステッキでバシバシ叩いてくんだもん、びっくりしちゃったよー。
と、彰久の語るいまいち真偽が疑わしい話はたいがい真実である。過去になにがあったんだ重鎮……誰なんだ久乃……と思いを馳せつつ鍋に蓋。
「忙しいのに、様子を見に来てくれたんだ」
「まあねえ。しばらく妹の手料理が食えない気の毒な千榛に高級メロンを買ってきてやったんだけどさ。お前なにいそいそと作ってやってんの。そんなの新しい弟にやらせなさいよ」
だって、朝食だけはしっかり食べろってのが先代の遺言だもの。市川さんがちゃんと御飯作ってくれるとは思えないし、ここばっかりは外すわけにはいかないんだよね……
口でぐずぐず手はさっさと動かしていると、彰久は箱から出した高級メロンを頭にのせたりボーリングのポーズをとったりしてどうも落ち着かない様子でいる。まあ、いつだって落ち着きのない男だが。
すると今度は明らかにガタガタと音がして、千榛がヌッと顔を出した。二人を交互に見、困った顔で溜息をつく。
「台所から湯気が出てたから来てみたんだが……那月、お前あんまりこっちのことに気をつかわなくていいんだぞ」
「そうだそうだ。つうか、千榛」
ひょいと彰久がメロンを投げる。
キャッチしたのを見届けると、なにか言い出す前にすかさず。
「俺に、ありがとうは?」
「……」
「お世話になったら、ちゃんと礼を言わないと。子供の教育上よくないよ?」
メロンに視線が落ち、千榛は苦虫を噛み潰す表情で俯いた。心なしか頬が赤い。
「悪かった、この借りはいずれ……」
「それ違あーう」
「……っ」
「聞こえませんが」
「っっ」
顔を上げた千榛は、ギッと彰久を睨み、
「ありがとうございましたっ!」
それはもう彼ご自慢のハイ・バリトンにも負けないきれいなアルトで叩きつけた。
直後、照れ隠しなのか本気で怒っているのか、彰久の耳を掴んでずるずると事務所のほうに引きずっていく。わあわあとわめき散らしながら。
「言ったぞ! どうだ言ってやった! ああせいぜい記憶してたまに思い出しちゃ好きなだけ笑うがいい! けどな、私はあそこまでしてくれなんてヒトッコトも言っちゃいない。だいたいお前は昔っからやることが大袈裟なんだ、芝居がかってるんだ、阿呆っぽいんだ! 全部わざとだ! それしか方法がなかったとか言わせないぞ、わざとだろう! お前はとにかく人の気をひきたいだけなんだ、ことを派手にしたいんだ、そのためだったらなんでもするんだ、だいたい普段のくそ恥ずかしい赤い衣装にしたって……」
それに対して彰久も、とりあえず声張り上げて、アイタタタひどいや姉さん! などと茶々を入れている。
ドアが閉じると会話の内容はほとんど聞こえなくなったが、千榛の最後の言葉は、
「なにが人材派遣のロブスターだ、貧乏人に対する嫌味か!」
彰久は、
「あんたらほんと姉妹揃って、よく見てよ!」
那月は危なく、味見途中の筑前煮を噴くところだった。
昼休みもそう長いわけではないし、煮物を二つ用意したので後は簡単に炒め物でも作って終わりにしよう。
流し台の下からフライパンを出すべく屈んだとき、裏戸がほっそりと開いて、そこから何かがこちらを覗いていることに気がついた。
「……猫……?」
思わず呟いたが、次の瞬間、それが明らかに人間の男の声で「にゃあにゃあ」と言ったので、腰を抜かしそうになった。
ナニモノかと問う前に、扉が開く。
「お父さんっ?」
「静かにっ!」
おそらく、声を聞きつけて怒れる長女が戻ってくることを恐れたのだろう。パンツ一枚で額に「鮪」と書かれた中年男は、細い声で再び「にゃあおおー」と言い、天敵の現れる気配がないのを確認すると、どっかりと椅子に腰をおろした。
「久しぶりだな、那月」
「……後で……顔洗ってね」
「そんなことより、腹がへって死にそうだ。ハンバーグが食べたい」
那月は、しみじみと父の顔を見た。
鼻の頭は赤く目はよどみ老け込んであちこちたるんではいるが、やはり基本構造は姉そっくりだ。この歳でも、たぶん女性にはモテるだろうなと思う。……普通に服を着て、額の落書きさえ落とせば。
「うちにお肉はないよ」
「はっはあ! なんて貧乏くさいんだ! そういえば、千榛が昨日俺から取り上げた鮪漬け丼はどうした。食っちまったか」
やっぱりこれがそうか……と、冷蔵庫から出してテーブルにそっと置く。父が物言いたげに那月を見るので、即席でワカメの味噌汁を作ることにした。
「お父さん、今まで、どこ行ってたの?」
「話せば長くなる。大冒険さ、川口宏探検隊だな」
「川口……誰?」
「ビニールが破られてる」
なんのことかと思えば、父はひどく真剣な顔で鮪漬丼を睨みつけている。ああ、と那月は少し笑った。
「そういえば、千榛ちゃんは完全犯罪を目指してるって」
「食ったら爆発するんだろうか」
「……普通、毒が入ってるとか考えない?」
確か塗料の下塗りに混ぜる猛毒があったはず。物騒なことを思い出していると、父は拗ねた表情で丼を那月の方に押してよこした。
「食べないの? お父さん、おなかすいてるんでしょ」
「ハンバーグがないならピラフが食べたい」
「あのね。大丈夫だってば、それ、昨日から冷蔵庫に入ってたんだよ。私が間違って食べちゃうかもしれないものに、千榛ちゃんがなにか仕込むわけないじゃない」
「お前たち、相変わらず仲がいいんだな」
父は、何故だかひどく驚いたような顔をしてそう言った。
そうかそうか、麗しいね、フン。
呟きながら、ますます丼を押してよこす。
「なら、毒見してみなさい」
「はあ?」
ふっ……ははは。
鼻に思い切りひっかけた、やたらとカンに触る笑い方を、父はしてみせた。
「千榛はあの通り、陰湿な根暗だからな。俺を葬るためなら妹なんかどうなってもいいと考えているかもしれないぞ。姉を本当に信じられるというなら、食ってみろ」
なんだこの憎ったらしい性格。
唖然としていると、絵に描いたような嫌われ者は、食えないのか、そうだろうなー、とえらく低次元な悪態をつく。
那月は無言で鮪漬け丼を手に取ると、蓋を開け、中味の全てを生ゴミ用のダストボックスに突っ込んだ。
あああっ! と、父は情けない声をあげた。
容器は燃えないゴミなので、水道でザッと洗い流す。
「なにするんだ那月、俺の昼飯を!」
「爆発すると困るからね」
「いやな奴だなーお前」
アナタに言われたくないよ。
ぷいとそっぽを向き、今洗った容器に即席ワカメの味噌汁を移してテーブルに置く。父はそれを流し込むように食べた。食べながら、ぶちぶちと泣き言をほざく。
「こんなにもイヤな奴だってのに、誰一人その正体に気づきゃしない。お前はほんとズルだよ。昔っから、どういうわけだか、親父も工場の連中もお前のことばかり可愛がる。イヤな奴だ、イヤな奴だ。味噌汁おかわり」
「いいの? 毒入れるかもよ」
「その毒で俺が死んだって、お前はうまくやるんだろうな。千榛か、向かいの……なんつった、あの赤い服のガキ。あいつあたりが、絶対にお前の罪にはならないように立ち回ってくれるんだろうさ。ヘタしたら工場の年寄り連中にも、お前のかわりに刑務所に入ってもいいって言い出す奴がいるかもしれん」
ちっちっ、と舌打ちしてから、父は今度は少し強い口調で言った。
「オムライスが食べたいなあ」
奇しくもここに、わざわざ額に書かずとも私の腹黒さを見抜く人間が現れたわけだ。
注意深く父を観察しながら、那月は考えた。
この人の言ってることは正しい。
そして気の毒なことに、彼が主張すればするほど、永原那月腹黒説は信憑性をなくす。一方はより愛されて、一方はより疎まれる。
なんだろう、この関係は。どう言えばいいものか。
「……お父さんは」
「だいたいお前は、よくもこの俺をのうのうとお父さんなんて呼びやがるもんだよ」
おそらくそのカラクリは誰よりも身にしみているのだろう、父はやさぐれた口調でそう吐き捨てた。
「だけど他になんて呼ぶの。千榛ちゃんみたいに糞親父とかバカ親父とか?」
「永原さんか、ほかの連中と同じく二代目でいいんじゃないか? 他人なんだから」
「……他人?」
怪訝そうに那月が繰り返すと、父の目がパッと輝いた。少年のようにキラキラと、希望に満ち、明るく、禍々しく。
「なんだお前、知らなかったのか?」
「……え? どういうこと」
「そうか、知らなかったのか。そりゃ傑作だ、あっはっは」
手まで叩いて。
いつもへらほらしていた父だったが、こんなにも楽しそうな顔は初めて見た。キラキラは次第にギラギラに変わる。けれども、その理由について那月は聞きたくない。
なんでこんなに嬉しそうに。
なんで、この人。
耳を……塞がなければと、思いはしたが。
「あのな、お前はあの女が種馬野郎と浮気してできた子なんだよ。俺とは血がつながってないし、本当なら永原姓を名乗るのもおかしな話だ。なあんだ、知らなかったのかうあっ」
ごいーん、と、たいそうな音が響いた。
気が付くと両手にしっかりフライパンを握り締めていて、テニスのレシーブの要領で。
どさりと、父親が床に転がった。
ハッと顔を上げると、さっきまで閉じていたはずのドアが開いていて、昼休みが終わったのに事務所に出てこない那月の様子を見に来たらしい悦子と、その後ろにはメロンを冷やしに戻って来たと思しき千榛。
「てっ……テ、テニス……エースをねらえー♪」
咄嗟に言葉が思いつかず、歌いながらフライパンで素振りをしてみた。
床に伸びている物体に気づいた姉が声をあげる。
「コイツどうやって! 大丈夫か、なにかあったのか!?」
「なんにもないよー、ちょっと、ウィンブルドン目指したら掠っちゃっただけ?」
直撃してるわ。と悦子が呟く。
「那月、本当になにもされてないのか? 酷いこと言われたり……」
「酷いこと?」
伸びた父親を蹴散らし詰め寄ってくる千榛を、フライパンで制した。
「……那月?」
「言われたよ、マグロ漬け丼に毒を入れたんじゃないかとか」
それは考えつかなかった、やるべきだったと千榛が頷いた。目が本気だ。
「ハンバーグ食べたいとか、なきゃピラフがいいとか、オムライス作れとか」
「ああ、こいつ腹へってんのか。ちょうどいい、このメロンを丸呑みさせて包み紙を鼻に押し込んどこう」
やめてもったいない! 塩ワカメでも詰めましょうよ! と、悦子が叫んだ。
ふふ、と那月は笑ってみせる。
たぶん今までの人生で一番黒い笑みだったと思う。
「だからね、ムカッときて、ついバシッて」
「残念だ、まだ息がある。力が弱かったな」
「ごめんね、優しい大人に育ってなくて」
「素直に育ってるからいいんだ」
那月の手から、千榛はフライパンをそっと取り上げ、テーブルに置き、その上にメロンを置いた。
ぽん、と頭を叩く。
「このバカ親父は咽喉が裂けても言わないだろうから、代わりに謝る。……悪かったな」
「いいのに、別に」
彰久に「ありがとう」を言うのにはあれだけ負荷を感じていたくせに、妹に対しては謝罪の言葉がすらりと出てくる姉に、那月は苦笑いした。
どうして、と本当は聞きたかったが。




