第七章・2
「じゃあ無事に市川は戻ってきて、M工業関係は一件落着したってわけね?」
出勤してきた悦子にことの成り行きを説明すると、どことなく物足りなげに彼女はそうぼやき、肩など落としている。実は騒ぎが好きなのかもしれない。
指摘すると、多少のハプニングは喜んじゃえる体質じゃなきゃ工場の事務員なんてそう何年もやってらんないと思うわ! と、なるほど尤もなことを言う。
「それにしても、市川もブッちぎるわねー。なによ兄姉交換って」
「気分転換じゃないかな」
「あぁら鷹揚。どー考えても那月ちゃんへの嫌がらせじゃない」
「やっぱり、そう?」
あはは。
夜のうちにたまった発注用のデータをまとめながら、いつものように長閑に笑っていると、通りすがりにパンと腰を叩かれた。丸めたFAX用紙で。
「いいの? 怒んなくて」
「怒ってるのは市川さんだし」
「理不尽な怒りよ。たまたまムカつく兄の下に生まれたからって、マトモな姉持ちの那月ちゃんに当たることないじゃない?」
「んー……。でも、悦子さんは私に腹立つことない?」
「は?」
「ときどき、我ながらムカつくんじゃないかなって思うんだよね」
「例えば?」
「皆から不相応に可愛がられてる気がする」
喋りながら作業をしていたので、パソコンの、どこか変なキイを押したらしい。間抜けなピロピロ音がして驚いた。
あらやだ反抗期かしらと、悦子は肩をすくめた。ピロピロ音は何故か止まらない。
「こないだなんか千榛ちゃん、私になんて言ったと思う? そのまま素直で優しい大人になれって。二人きりだから良かったけど、第三者が聞いたらバカだと思われるよ」
「まあ、バカはバカよね。姉バカ」
「心の眼が曇ってるよ。私、こう見えても腹黒いんだから……」
ピロピロ音が止まらないので、どうもシリアスな雰囲気になってくれない。えい、とモニターを叩いたら、音はますます大きくなった。
「壊さないでよ?」
「なんだろ、この音」
「パソコンに笑われてるのかもねえ……」
「こら、笑うな!」
脅したら、何故だか音はピタリと止まった。それは喜ばしい限りなのだが、かわりに悦子が笑い出したのには辟易する。
「さっすが。那月ちゃんの腹黒さにパソコンも恐れいったのね!」
「ほ……ほんとに黒いんだよ! だって私、よく考えたら市川さん憎ったらしーってなって、こうなったら仕返ししてやるっとか企んで」
「へえ? 仕返し。どんな?」
「拓人さんを真人間にするんです」
ほほう。
と、悦子は目を細めた。
「認めたげる」
「はい?」
「確かに、意外と黒いこと考えられるのね」
「……ダメージ大きいでしょ?」
ずっと近くにいてダメだと諦めていた人間が、嫌いな人間の力で見事に更正したとしたら。その悔しさ、情けなさたるや。
「私だって、もし千榛ちゃんが」
口にしかけて、怖くなってやめた。
ふふふ、と意味ありげに悦子が笑う。
「そうねえ、社長が市川を弟にした途端、明るくニコニコ朗らかに……那月ちゃんだけじゃなくて西条くんも歯軋りして悔しがるでしょうよ。ま、天地がひっくりかえっても……そうね、二代目がマグロ抱えて戻ってきたって、んなこたーないでしょうけど」
動揺してどこか叩いてしまったものか、今度は突然、プリンターがギーギー作動しはじめた。台が横揺れする。
おそらくどこかに電話をかけるつもりでメモと受話器を手にしていた悦子が、なにやってるの、とこちらを伺った。
目をそらす。
その不自然な反応がよくなかった。ガチャン、と悦子は受話器を置いた。
「……そういえば、いくらM工業のアレのためとはいえ、よくあの社長が弟妹交換なんて応じたわよね」
「兄姉交換、です」
「どっちでも同じよ、兄弟スワッピング」
「悦子さんその言い方、気持ち悪い」
「帰ってきたの?」
なんでこの人、こんなに鋭いんだ。
自分の表情の読まれやすさは棚にあげて、那月は視線をさまよわせる。
「帰ってきたのね」
今どこよ?
詰め寄ってきた悦子は、既に例の「マグロ漁に出ます」額縁を握り締めていた。
「午前中は発注で忙しいから、午後に……」
「15分で戻るわ! 那月ちゃん電話番お願い」
口にこの額突っ込んで、額に「鮪」って書いてやる!
悦子は叫んで事務所を飛び出した。
止めるつもりだったのだが、鳴りはじめた電話を反射的にとってしまい、付属品の塗装処理が注文と違ってるのなんのと早口でよく分からないクレームに対応しているうち、悦子の姿は消えたまま、15分などとっくに過ぎている。
受話器を置いて、ちょっと探しに行ってみようかと考えたところでまた電話が鳴り、とってみると今度は「なんでずっと話し中なんだ」と怒られる始末だ。
悦子さん、いつもは一人でほんと大変だろうなあ……と、メモ用紙にネジの絵など落描きしながらハイとかゴメンナサイとか機械的に返していると、窓の外をなにか抱えて走る影。あの忙しないのは戸村さんかなと思えば、やはりそうだ。
小脇に電線の束を抱え、彼は半端に開けたドアから首を伸ばして中を覗いた。
「あれ、那月さんだけっすか。女史はどちらに?」
いつの間にか、電話は切れている。
「お父さんを折檻するために出て行った」
「あ、じゃあ、探してんですねきっと。社長、出来るだけ人目につかないように奥まったところの柱に括ったらしいですから」
「……ほんとに縛ったんだ」
「そりゃ、野放しになんかしたら遊ぶ金ほしさに工具かき集めて売り払いかねない人っすから……」
戸村はそれから、昨日H建設に納品した電動機3台の発注書を探しておいてほしいと告げた。二ヶ月くらい前のものだと思う、とも。
「H建設の注文は全部メールでくるからすぐ探せるよ。待ってる?」
「お願いします。色が違うと現場から直接電話がきて……」
工程職長はPHSを支給されている。話す傍から尻ポケットで着信音が鳴っていたが、戸村はそれを無視した。
「あそこは同じもんしか注文してこないんで、いつもの奴なら違わないと思うんっすけどねえ……ありました?」
「たぶん」
該当のメールをプリントアウトして渡すと、ほらいつものだ、と戸村がぼやく。
「これ、発注元にメールしといてもらえませんか。先に電話もいれとくんで」
「了解。……ね、戸村さん」
「なんすか」
「市川さん、どんな感じ?」
さっそく走り出しかけた戸村だったが、足を止めると嬉しそうに笑った。
「いい感じっす」
「いい感じなんだ」
「いやもう、朝から別人のようにマジメに働いて。ほかの連中も、最初はどうだろって顔してたんですけどね、市川はちゃんとやりさえすれば人の三倍は使える男なんで、みんな早速、見る目が変わってきてますよ」
「そう」
「良かったっすよねー、これでM工業の方も安心だし」
「……良かったよね」
戸村はそもそも、市川の力を一番かっていたわけで。
喜ばなきゃ、と無理に笑おうとした目に突然、悦子のにんまり笑顔が映りこんで固まってしまった。
「戸村くん、那月ちゃんを困らせちゃダメよー」
うっふふ、とマジック片手に浮かれ気味なのは、目的を達成できたからなのだろう。
なんすか、自分は那月さんを困らせるようなことはなにも! と、おたおたする戸村の腰をさわさわ撫でる。
「若さゆえのブラックなんだから」
「はい?」
「いーのーいの、戸村くんはそのレザー加工済みの特殊電線を持っていつものように工場を駆け回っていれば。おばちゃんアンタのそーゆーところが好きよ」
言われるまでもなく、戸村は不思議そうな顔のまま電線を持って作業場のほうに走っていった。
若さゆえのブラックって……人を新発売の缶コーヒーみたいに。
那月が口の端をとがらせていると、悦子は事務所に上がりしな、その口を指でひょいと突付いた。
「ブス顔」
「……書いたんですか、鮪って」
「そりゃもうばっちりよ」
那月ちゃんにも腹黒って書いたげようか? と言われて思わず額を両手で隠した。
「あらやだ。那月ちゃんの場合、ちゃんと書いておかないとアタシ忘れちゃうんだけど、本当は黒いってこと」
「解る人にはちゃんとわかるからいいの」
言わなきゃ良かった、当分この「自称・腹黒」ネタで弄られかねない。本気だったのに。




