■第七章 父、帰る
明日の朝、迎えに来るからと言い残し、みんないなくなってしまった。
彰久は自分のところに泊まるかと聞いてきたが、もじもじしていたら、市川が「それはズルだ」とか言ってきた。一応、彼の中ではなんらかのルールが設定されているようだ。
手持ち無沙汰なので、夕飯でも作ろうかなと冷蔵庫をあけると、プリンが一個入っているだけで後はなにもなかった。冷凍室には、氷だけ。
……脱力した。
脱力したまま、たぶんここが食料置き場と思われるドアを開けてみると、フォションの紅茶缶が二個と、米びつと、何故か開封済みの削り節のパックがひとつ、そして、レトルトカレーがみつしり。
「……ほう。」
急に背後から囁かれ、ヒイッと声をあげた。市川拓人が爽やかな笑顔で立っていて、紅茶缶に手を伸ばす。その動きの繊細で優雅なことといったら。
本当に、見た目だけなら大企業にお勤めのサラリーマン風好青年だ。さっきアニメを見て謎の奇声をあげていたのと同一人物とはとても思えない。
「さっきは大勢だったから癖のないダージリンを入れたけど、嫌いじゃなかったらアールグレイをご馳走しようか」
「お……おかまいなく……」
「ところで皆さん、どちらへ?」
拓人が紅茶をいれる間に、那月はかくかくしかじかの経緯を説明した。彰久の株価操作のあたりはかなり端折ったが。
市川兄は、澄んだ目を困惑気味に揺らしてみせた。
「よく分からないけど、すると今日からあなたが僕の妹なのかな?」
「すみません、勝手に決めてしまって……永原那月です。よろしくお願いします」
「ご丁寧にありがとう。そう、耕太は僕との暮らしに嫌気がさして出て行ったわけだ」
いえ、借金のカタに連れ去られたというのが正しいです。
よく考えてみたら、市川の境遇はいささか気の毒だ。なまじ手先が器用だったばっかりに、陥れられるハメになったのだから。
「拓人さんがどうとかより、環境を変えてみたかったんだと思います」
ふうん。
と拓人は薄く微笑んで、キッチンの椅子に浅くかけた。
「あんなキモオタの弟でなんかいたくないって、聞こえたけど?」
「……本心じゃないですよ、きっと」
「本心でしょう」
「拓人さんはキモくないです」
沈黙が落ちたのと同時に、ベルガモットの香りが広がる。アールグレーってこの匂いの紅茶なんだ……と、つい、鼻をひくつかせた。
「永原さんは、恋人、いる?」
「はいっ?」
「僕は結実しない恋ばかり追いかけてるよ」
そうでしょうねと、那月は答えた。アニメの美少女相手になにか結実されたらけっこう怖い。
「初めての恋は、小学生になったばかりのときだった。春の番組改編時期で……」
視線の先には壁しかないが、拓人の目は遠くを見つめている。
その瞳は澄んでいた。
アニオタの瞳はテレビの見すぎで充血しているものと思っていたのだが、どうやらそれは偏見だったようだ。
「最終回の次の週、いつものようにテレビをつけて、彼女ともう会えないと知ったときの僕の悲しみがわかるかい?」
「わかりません」
「うん、解からないだろう。番組の終了は世界の消失でもある。先週までは当たり前にそこにあったものが、今週には気配さえなくなっているんだ。もう二度とその世界に触れることはできない。そこで笑っていた彼女と会うこともできない」
あまりにも辛そうに拓人がそれを語るので、那月もついつい同調した。貧乏人にありがちな癖で、妄想は得意中の得意だ。
ある朝、皆がいなくなる。
あったはずの工場は消え、駐車場かパチンコ屋かドラッグストアになっていて、交番で聞いてもタウンページを見ても、ナガハラ製作所を知る人はなく、名前も既にどこにもない。姉はマグロ漁に出てしまって離ればなれだ。彰久も、きっと自分のことなど忘れてしまっただろう。
……涙が出そうになった。
「その悲しみを乗り越えて、僕はまた別の少女に恋をする。けれどもまた、彼女とは別れるときがやってくる」
「それが番組改変期なんですね……」
「番組改変期さ。そうして僕は、愛した世界が、愛した人たちが次々と時間を止め、消滅してゆく様を見つめてきた」
それはどれほど身を裂かれるような辛さだろうかと、那月はすっかりそんな気になっている。自分だったら愛せるだろうか、工場の跡地にできたドラッグストアの店員を。
「現実の女の人を好きにはならなかったんですか? そしたら、番組改変期も関係な、」
「現実の女なんて打算的だし生臭いし!」
急に拓人の口調が変わったので、びくりとした。ついでに引き戻される。
そうだ。もし工場がなくなったって、また作ればいいんだ。千榛ちゃんがマグロ漁船に乗るなら、私もついてこう。アキ兄ちゃんには忘れられないよう毎日手紙を書けばいい。
想像上の悲劇に前向きなオチをつけ、見つめると拓人はマグカップに向け、ぶちぶち話しかけていた。
「一途に僕だけ想い続けてくれるいじらしくて可愛い子なんて現実には皆無だよ」
でもそれはしょーがないんだ、
だって、生きてるからね。
そう結論づけると、拓人はまた澄んだ目でどこかわからない遠くを見た。
「僕はね、待っているんだ」
「なにをですか」
「いつか自分の魂が、この現実と呼ばれる世界から離脱して、高い次元にある、僕の愛した人たちのいる世界に融合する日を。そこには今まで愛したすべての世界があり、愛した少女たちはみんなそこにいる。その日が来るまで、僕はできる限り現実の……僕にとってはこれこそが非現実だが……システムから乖離した場所にいなければならないんだ」
「はあ。システム……」
「例えば、生きる糧を得るためにあくせく労働するとかね」
そういう話だったのか。
なんだか長い説明だったが、要するに、妄想の世界で生きたいから働くのイヤ! というわけか。
やっと那月は合点がいった。とはいえ、この場に某局某番組のガッテンメーターがあったとしても、叩いたかどうかは不明だが。
「レトルトのカレーとプリンしか食べないことには、なにか意味があるんですか」
「カレーとプリンは、毎日くちにしても純粋な子供の心のままでいられるような気がするからね。そうじゃないかい?」
どういう理屈だ。ハンバーグとゼリーじゃだめなのか。
分ったようなさっぱり分からないような不可解な気持ちになりながら、那月は唸った。
「ともかく……明日の晩は、私がカレーとプリンを作ります」
食べてくださいね。
そう告げると、拓人はどこか人をコバカにしたような薄笑いを浮かべた。
次の日。
いつもどおりに早く起きたのだが、朝食を作れない朝というのは意外に精神的なダメージが大きいのだと思い知った那月である。いまひとつ、エンジンがかからない。
とりあえず、炊いておいた御飯に削り節をかけた。台所のどこを探しても醤油がなくて驚いた。自炊をしないとはそういうことなのか。
せめてもの慰めに、いつもよりもよく噛んで食べた。口の中でささくれる削り節は、まるでおがくずのようだった。
ニュースは、景気が上昇中であることを淡々と告げている。
だがそこで重苦しい溜息をつく姉はいない。
拓人の部屋にはずいぶん遅くまで電気がついて、パソコンのキィを打つ音がずっと続いていた。昼夜が逆転しているのかもしれない。
こっそりと部屋を覗いてみると、彼は女の子の描かれた抱き枕にしがみついてすやすやと眠っていた。幸せそうな顔をしている。幸せならいいかと思った。現実……か非現実かシステムか、とにかくいろんなものから逃避した挙句、不幸になっていては目もあてられない。だが、とりあえず今朝の彼は安らかなようだ。
姉はちゃんと起きただろうかと思いをはせる。順当にいったら今日は五百円玉に襲われる夢を見るはずである。父とはなにか話しただろうか。本当に闘ったのか。
まあ、今から工場に行けば真相も全て知れるわけだが。
「いやもうそれがねぇ」
欠伸を噛み殺しながら彰久は言った。
「二代目は戻ってすぐ千榛に捕まって、パンツ一枚で工場の柱に括られたんだとさ」
「パンツ……って、夜、寒かったのに」
「二代目は涙でマグロの絵を描いたそうな」
「嘘ばっかり」
朝礼がはじまる少し前の事務所。
千榛は既に工場内をうろついているらしく、姿が見えない。
台所を見ると、とりあえず冷蔵庫の中のものをいろいろ食べたようで、皿やタッパーが出しっぱなしになっていた。
それ市川くんにやらせなさいよと言われたが、気になって仕方がないのでさっさと片付ける。
「結局、千榛ちゃんはお父さんをどうするつもりなのかな」
「千榛は今、完璧な殺人計画を練るために頭をフル稼働させてるよ。けどあいつ、ミステリーとか読まないからな。せいぜい、穴掘って埋めるくらいのことしか思いつかないだろう」
「アキにーちゃん…うっかりその穴に落ちてついでに埋められないようにしないと」
「やなこと言うわ、この子ったら」
ガタガタッと立て付けの悪いドアが音をたて、視線をやると、ちょうど話題の人だった千榛が気まずそうな顔で立っていた。
「悪い、それ、後で洗おうと思って……」
「別にいいよ。もうすぐ朝礼でしょ」
「大丈夫か?」
「なにが?」
ぽへっとお見合いしてしまった。
千榛の目の下の濃いクマに気が付く。
「大丈夫は千榛ちゃんだよ。寝てないの?」
「寝た。それより、戸村の話だと市川の兄ってのはとんでもない変人だそうじゃないか」
「あ、それはぜんぜん大丈夫。市川さんのお兄さんね、えっと……面白い人だよ」
「その間はなんだ」
「世界の消滅とかシステムから乖離とか、千榛ちゃんに言ってもたぶんワケわかんないと思うし、それと、現実の女には興味ないみたい」
「そうか。どうも世の中、私が考えている以上に変わり者は多いんだな……」
と、マジメが行き過ぎて変人の部類に入りつつある人間がぼやいた。
「それより、那月」
「なに?」
「事務所の手伝いも、当分しなくていいぞ。しばらくあの糞親父の見えないところに隠れてたほうがいい」
「なんで。そんなこと勝手に決めたら悦子さんが困るよ。私は平気、千榛ちゃんほど揉めてないもの。むしろ折を見て、なんで戻ってきたとか聞いてみても……」
千榛は黙って、片手をあげた。
那月の言葉を制したのだろうが、なんだか妙に苦しそうで、顔色も悪い。
「……ほんと大丈夫なの? 市川さんも戻ってきたんだし、今日は少し休んだほうが」
「体調は悪くない。それより、那月……」
「千榛、朝礼の時間じゃないのか」
彰久が横から声をかけ、千榛はどこか怯えたような表情で言葉を切った。
いつもネガティブで暗い姉だが、どうも今日は様子が違う。彰久が肩をすくめた。
「天敵が戻ってきてピリピリしてんのは分かるけど。悪いことばっか立て続けに起こるって信じ込んでるお前の思考回路も少しどうにかしたほうがいいよ」
那月にいってらっしゃいのチューでもしてもらったら? 少しはこの平和なのーてんきを移してもらえるかもしんないし。
「なんだったら俺がチューしよっか、そのほうが強烈……」
へらへらと振り回される彰久の腕を、千榛は掴んだ。
そのまま数秒、止まっている。
やがて手は離れ、朝礼いってくる、と千榛は暗い顔のまま台所を出て行った。
残された二人は顔を見合わせ、今の意味不明なアクションはなんだったのかと首をひねり、
やがて、もしかして……と呟いた。
「本気で移されたかったのかな、平和なのーてんき」




