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 第六章・2

「そーだよ、俺、なんかすっかりハマリこんでたけど、市川くんちの家庭の事情とかどうでもいいんだった本当は」

「どーでもいいって、人んち勝手に押しかけといて」

「いや、とりあえず頼むから俺のペースに戻させて! 市川ワールド霧散!」

 彰久は両手を広げた。狭いのに。

「あのね。俺、こんど新しい事業を始めようと思ってんだけど」

 どうよこれ?

 胸ポケットから取り出された名刺の束。

 はらりと一枚ベッドの上に落ちたその赤い紙に書かれた文字は、

「人材派遣会社 THE RED STAR」

 だっせ……

 言いかけて市川は無理に唇を捻じ曲げた。

 那月は不思議そうに首を傾げる。

「なんか、エビみたいな会社名だね」

「那月さん、たぶんそれはロブスターっす」

「どういうことっすか、これ」

 よくぞ聞いてくれました! と、彰久は嬉しげだ。なにしろ、彼が最初にこの話を切り出そうとしたパチンコ屋の裏手から、既に二時間近くが経過している。その間、負傷者一名。合流一名。新キャラ一名。どういう脱線ぶりだ。

「まあ、要するに俺、人買い。年間四百万の前払い年俸制でどうよ」

「仕事内容は」

「そりゃもー決まってんじゃん、俺の家来。つか、奴隷。そんで、とりあえずはナガハラ製作所で働いてもらうと」

 市川は、細い目をさらに細めた。単に瞑ったのかもしれない。

「……街金に金借りたほうがまだマシだ」

「貸してくれるかねえ。市川くん今、無職でしょ。まあそれでもどっか探して借りるのは勝手だけど、一番審査が緩いって言われてる某社の場合、最低金利十五%だよ? ちなみに融資限度額三百万円。なんだったらネットで調べてみる?」

「就職したときに作ったカードが、金利八%で限度額五百万だったはずだ。それで追証金だけぶっこんで下がるまで待てば……」

「下がると思ってんの。まだまだ上がるかもしれないよ? そうでなくてもこのままじゃ貸株料だなんだと手数料ばっかかさむし、もちろん待ってる間にカードローンも増えてく一方だよね? 毎月、返済だけで何十万の世界。あ~あ~バカバカしい。おとなしく俺の作った会社で奴隷やってりゃ、少なくとも借金だけはキレイサッパリなくなるのに」

 市川は震えた。

 寒くなどないはずだったが、ぶるぶるぶるぶる震え続けて、見開かれた目はおそらく血走っているのだろうが、なにしろ観音似の細目なので、白目の状態は確認が難しい。

「……M工業のバルブか……?」

 ぶるぶるしながら、市川は声を絞った。

「あれなんだろ、あれ出来んのが、俺しかいねえから…」

「いやあ、みんな出来るっちゃー出来るよ? 出来るんだけど、市川くんが最速バビューンだから期待しちゃってんの」

 いつのまにか、彰久は市川の傍に忍び寄り、後ろから肩を抱いていた。耳元で、そっと囁く。

「バビューン」

 市川は身をよじった。

 彰久の腕から逃げ出し、壁に背中を激突させる。と同時に隣の部屋から、壁揺らすな! 録画失敗したらヌッ殺す! と叫び声。

 市川は、まだ少しぶるぶるしていた。

「そ、の話……のってやってもいいけど!」

 彰久は腰に手をあてふんぞりかえる。

「けど、なによ。年俸四百万のおいしい話にまだなんか文句があんの。ちょっと市川ちゃん自分を高く売ろうとしすぎじゃない?」

「条件がある。一ヶ月でいい!」

「なに」

「兄と姉を交換しろ!」

 震える指は、ぽおっと外の夕暮れを眺めていた那月に向けられていた。



「え? なに?」

 意識を戻し、言われたことをパリパリと噛み砕いても、まだ状況をよく分かっていない那月である。

 彰久は飛んだ。

 飛んで、市川の首を締め上げた。

「なに考えてんだこの野郎、あの妖精レトルトカレーと千榛を交換って、お前、望みすぎにもほどがあるだろうが!?」

 がんがん頭を揺すられるも、ここまできたら市川だって後にはひけない負けられない。

「うっせ! 無職が目の前うろついてたら、やれる仕事もやる気になんねーんだよ! 俺はもうイヤだ! あんなキモオタの弟でなんかいたくねえっ! ババアで性格悪くても巨乳美人の弟がいい!」

「バカ言うな、歳はともかく、千榛は性格悪くないぞっ!!」

「よくもねーだろ、あの女の笑った顔なんか見たことねえぞ!!」

 だいたいいいのかよ、俺が戻んなきゃM工業のあれが納期間に合わねーんだろ? 俺は別に構わないけどよあーんなもん!

 彰久に締め上げられながら、逆ギレ市川。あーもーいっそ人生ブン投げっかな、あのキモオタ殺っちまって、逃げられるとこまで逃げてみっかちきしょー、などと嘯く始末。

「ちょっと、いいすか西条さん」

 んだコラそんなら今すぐ落としてやるよと市川の首を絞めている彰久を、戸村が呼んだ。

「那月さんも」

 二人を部屋から連れ出そうとする。

 なに、俺こいつにヤキいれるのに忙しいんだけど! と彰久が叫べば隣の部屋から、

「客ウルセー!」

 ……怒鳴られた。

 オタクの逆襲に怯えつつ、台所で三人、頭をつき合わせる。

 戸村が声を低めて言った。

「実は、市川の提案、そう悪い話じゃないと思うんです」

「はい? 悪い話に決まってるでしょ、なに言ってんの戸村ちゃん」

 展開にいまいちついていけない那月は、固まって、ただ目をぱちぱちさせていた。戸村はさらに声をひそめる。

「それがですね…実は俺、さっきは二人を探してたんっすよ。社長に言われて」

「千榛ちゃんから? どうしたの? なにかあった?」

「二代目が帰ってきました」

「はあ?」

「二代目って…え、マジで二代目?」

 莫大な借金こさえてマグロ漁船に乗っているはずの阿呆男が。

 金にも女にもだらしないダメ男が。

 実の娘どころか工場の人たちにも忌み嫌われるちゃらんぽらん人生のやりたい放題いいかげん男が。

 なんだってまたこのタイミングで、どのツラ下げて今更みなさまの前に戻ってこれたというのであろうか。

 戸村は悲しげに目を潤ませた。

「社長の怒りはそれはもう深く激しく嵐のごとく…ただ、今は早急に片付けなくてはならない仕事があるからと、余計なことは考えないようにしてる様子でした」

 けど、俺をこっそり呼んで、打ち明けてくれたんです。

「血のつながった親子の醜い争いを、まだ子供の那月には見せたくない。あいつがいらないショックを受けるのは避けたい。すまないが、那月を探してしばらく彰久のバカのところにでも避難するよう言いきかせてくれ。教育上よくないという点では彰久のスチャラカぶりも似たり寄ったりだが、まあ、あの人類史上最低のダメ人間に比べたら、那月に良くしてくれるだけまだあのウツケモノの方がいくらかはマシだろう……と」

「千榛のセリフまんまだってのは分かるけど、他人の口からきくと腹立たしいね」

「すんません」

 二人、視線が交錯する。

「そういうわけで、家には戻ってくるなと、社長が」

「そんな」

 那月的には、今すぐにでも工場に戻りたいくらいだ。子供もなにも、父の帰還は家族の問題。なのに、そんな勝手なことを言って。

「変だよ。千榛ちゃんばっかり闘うことない、私だって」

 戸惑いながら口にすると、年上二人に畳み掛けられた。それはもう勢い込んで。

「やめとけ那月、お前まだ未成年なんだし」

「そうっすよ那月さん。社長と前社長の闘いなんて本気でエゲツないに決まってるっす」

「20年以上もずっと天敵なんだぞ?」

「バイオレンスです。巻き込まれてトラウマにでもなったらどうするんですか」

「そうだそうだ。おまえの笑顔が消えたら工場のみんなが悲しむよ」

「社長なんか絶対に悔やんで壁に頭打ちつけます。流血の惨事です」

 姉の頭壁打ち姿は容易に想像できてしまったが、不本意だ。

「みんなしてそーやって子供扱い……」

 と、口の中で呟いたはずが、

「実際、子供だろ」

 と耳ざとく拾われてしまって、言葉が続かなくなった。

 大人二人によってたかって言いくるめられ、でも……と見上げると、彰久が珍しく困った顔をして、さらに声をひそめた。

「それにさあ、市川くんってば今、完全に居直り状態じゃない? ぶっちゃけると、俺もE社株を何日もあの値段で買い支えとくのしんどいんだわ。そのうえそんな事情があるなら、ここはひとつ、市川に恩を売るふりをしてだな」

「大丈夫っすよ、那月さん。妖精お兄さんもそーとーなもんっすけど、今の阿修羅の如き社長の妹でいるのもかなり大変っす。どうせ、市川もすぐにネをあげて元に戻してくれって泣きついてきますよ」

「……」

 彰久を見て、戸村を見る。

 おにいさんたちたにんでしょ、これはかぞくのもんだいだよ。

 そんな言葉も浮かんで消えたが、二人とも本気で心配してくれているのだ。それはヒシヒシと伝わってくる。

 だいたい、ろくに家に帰ってもこない父親よりも、彼らのほうがよっぽど家族だ。家族の意見をないがしろにしたらバチが当たる。

「……わかった」

 頷くと、戸村と彰久がお互いの拳をぶつけあった。晴れやかに笑顔だったが、ガチンと響いてちょっと痛そうだ。

 千榛ちゃん……

 ……って、ごはん作れたっけ?

 思わず呻いてしまう那月である。

 祖母も母も早くに亡くなり、台所に立っていたのはいつも祖父か自分だった。姉は…記憶をいくら辿っても、せいぜい豆腐に副える大根をおろしたりネギを刻む姿しか浮かんでこない。まあ、器用だから、やればできるとは思うのだが。

 阿修羅のごとき今だからこそ、朝ごはんはしっかり食べさせないとと思うのだ。

きっと苛々してカルシウムを消耗するから、大根の葉っぱと干しエビで炒め物を作るとか……市川さんって料理できるのかな。

咄嗟に視線を走らせたゴミ箱には、コンビニ弁当のパックが積み上げられていた。

 軽く、めまいがした。

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