■第六章 ニートくん登場
彰久の頭の中は新キャラ「ニートくん」で一杯だった。
市川の家に向かう間にも、車と併走するスクーターからはハイ・バリトンの「肉29ロックンロール」が聴こえてきたが、那月も戸村もそのことについてはきっぱり無視を決め込んだ。
途中、戸村は、市川兄弟は東北のド田舎の出身であること、大学進学のためにまず兄がこの町にやってきて、次に弟が就職口を捜しにきて同居を始めたのだということを説明した。彰久待望のニート兄は今年、24歳らしい。
しかし、結局、彼の愉快な期待は実にあっさり打ち砕かれた。
市川の家は、こざっぱりとしたファミリータイプのマンションで、チャイムを押して待つこと数十秒。現れた市川兄は、目元涼しげ口元爽やか女顔のほっそりした清潔な美形。それはもう絵に描いたような好青年だったのである。
「……なんだ」
玄関先であきらかにガッカリした声を、彰久は出した。
いったいどんな妖怪変化の登場を予想していたのかは知らないが、いくらなんでも失礼すぎる態度に、那月は慌てて彰久を突っついた。
通された兄部屋では、きれいなレースのカーテンが揺れていた。
テーブルの上にはビー玉の入ったガラスの器と小さな鉢植え。招かれざる客三人、居心地悪げに並んでソファに座わる。
「紅茶で構いませんか」
問われて全員、非常に恐縮したのだが、行儀よく置かれた卓上カレンダーの図柄がさりげなく萌え系のアニメ絵だったり、マガジンラックにフィギュア関係の本が入っていたりすることにも、おのおの気をとられていた。
「すみません、大勢で押しかけて」
せめて手伝いをと那月が立ち上がると、いえ気にしないでくださいと言いながら、爽やか兄はカップが足りなくて困っているようだ。
「あまりお客が来ないんです、統一感がなくてすみません」
最終的に、並べられたマグカップの図柄は本気でめちゃくちゃだった。
戸村はすまなそうにケロロ軍曹を引き寄せ、彰久は懐かしいなあこのカバと呟きながらムーミン、那月はミッフィー、市川兄は綾波レイ。
「紅茶、おいしいです」
那月が誉めると嬉しそうに、
「凝ってるんですよ」
と笑顔を見せて、指でマグカップをひと撫でする。あくまで爽やかなのだが、どうしてなのかその指の動きには背筋をぶるりとさせるなにかがあった。
「戸村さんは昨日もいらっしゃいましたよね。うちの弟が、皆さんに随分なご迷惑をおかけしてるみたいで……」
市川兄は溜息をついた。彰久はきょろきょろしている。どこまでも落ち着きのない社会人だ。
「立ち入ったことを伺いますけど、ニートくんは市川と二人暮らしなんですよね?」
拓人さん、タクトさんっすよ。と、戸村が彰久を肩で突く。
「え、誰?」
「ニートくんじゃないです、市川拓人さん!」
「いえ、ニートくんで構いませんよ。私が労働を放棄しているのは事実ですから」
構わなくないと思う。
本人は了承してくれたものの、ふつーに失礼だという一般常識的見地から、那月も戸村と一緒に彰久を肩で突くことにした。突付かれながらも彰久は聞く。
「身体の具合でもお悪いんですか?」
「いいえ。私は、人間社会の在り様に疑問を投げかける者の一人です」
「……はあ」
「世の人々は金の奴隷です」
「ですか」
「金を得なければ生命維持すらままならぬとは、人類もつくづく愚かなシステムを作り上げてしまったものですよ」
「人類?」
「私はこの悪循環から逃避したい。現実逃避? いいえ、そもそもこの理不尽なシステムこそが物質社会という名のおおいなる幻想。ある種の非現実です。だから私は誇り高き非現実逃避者となるつもりなのです、そもそも人間とは、本来もっと自由であるべきではないでしょうか?」
彰久が、戸村を尻でドシンと突付き返した。
本人の目の前だが、ひそひそ声で訴える。
「戸村くん、こーゆー濃いキャラが出てくるなら先に教えといてくんないと! びっくりして俺、声でなかったよ今っ」
戸村も負けじと筒抜けのひそひそ返事。
「さっきアンタ自分がどんな状態だったか客観視できてないっしょ。なんも言えないっすよ、あんな浮かれた人には!」
「攻略法ないの!? 昨日会ってんだよね」
「昨日は少し挨拶しただけっす!」
「労働は」
市川拓人が呟くように言った。
「……労働は、人に苦痛をもたらします。人は苦痛のなかで生きるべきではない。私たちはただ愛によってのみ生き……」
テーブルに片手をつき、マグカップを掲げる。その左手の薬指には、きらりと輝く銀の指輪がはまっていた。
「ニートさん」
うっかりそう呼んでから、那月は慌てて撤回した。
「すみません、拓人さん。結婚してらっしゃるんですか」
「していますよ」
「あ、じゃあ。確か公式の定義ではニートって独身者だけをさすから……」
ピン、とマグカップを持つ小指がたった。
紅茶を、拓人はやたら優雅に口にする。
「結婚……それはあくまで崇高なる魂の結びつきです。この指輪はその証」
「えっ、と?」
「見てください、この深く刻まれた結婚線」
右手をいきなり顔の前に突きつけられたが、手相に疎い那月には、せいぜい生命線しか分からない。そしてその、市川拓人の生命線は、おそろしく短いように思われた。
「これは、まさしく運命に祝福されている証拠です。私と妻……あえて一人の名をあげるならば、レイはひとつの魂です。崇高な愛と自由の結晶です」
「……レイ」
全員の視線が、彼の手にしたマグカップに描かれた女性に注がれる。
「なにか?」
「あ、いえ……なんか、その女の子……」
「美しいでしょう」
「レイってもしかして」
「ご存知ないですか? 私の魂の妻であり、女神でもある……」
「戸村くん事前リーク頼むよマジでっ!」
彰久が変な声をあげた。おそらく小声にしようかいっそ叫んでしまおうか、迷った挙句に無様にひっくりかえったのであろう。尻どころか体側全部を使って戸村を、突付いてるんだか擦ってるんだか。
そっか、アキにーちゃんってオタク系のキャラ苦手なんだ……と那月があさっての方向に感心していると、どうやら戸村もそのタイプはあまり得意ではないらしく、思いっきり体側をこすり返しながらヒソヒソ……いや、既に声はひそめられてはいないようだが。
「だから! 俺も昨日は挨拶程度で詳しいことまでは! つうか知ってたらどうにか対処できたんすかアンタ!」
「てゆーか分かんない本気で分かんない、とりあえず教えて、あのレイって子はなんなの、宇宙人なの?」
「知りませんよ、アニメはアンタのほうが詳しいんじゃないすかっ」
「ごめんよー知ったかぶりだよーほんとは昔のジャンプに載ってたやつと懐かしアニメでよく特集するやつしかわかんないんだよー」
「てか、別にオタクだって何となく気持ち悪いだけでたぶん害はないっすよ、とりあえず目を合わせないようにしてれば!」
「だって怖いよ今こっち見てたよ」
「すみませんが皆さん」
突然、拓人が立ち上がった。
さすがに失礼も度がすぎて怒らせたか、と思いきや。
「これから私はこの部屋でテレビを見ますので、お引取りになるか、弟の部屋でおとなしくしていただけませんでしょうか」
「……はあ」
「神聖な空間を他人の興味本位の視線に晒したくないのです。くれぐれも、お静かにお願いします」
とりあえず全員でこそこそ弟の部屋に移動すると、部屋の主は目を覚ましてベッドの上に胡坐をかいていた。顔の靴後はまだ消えていない。
たいしてモノはないのだが、六畳の部屋にベッドひとつと小さなテレビと人が四人は詰め込みすぎだ。
隣の部屋から軽快な音楽と「萌えー」の声が聞こえてきて、全員ビクリと身を縮めた。
「俺、生『萌えー』はじめて聞いたよ」
なんでだろう、ぜんぜん嬉しくない。と、彰久が肩を落とす。部屋の隅を睨みつけたまま、市川が吐き捨てた。
「拓人は、実況しながらアニメ見っから」
沈黙の中、隣の部屋からはまた「フラグキター!」という雄たけびが。
「だ、誰か来たのかな?」
「俺らに理解できるよーなモノはなにも来てねえ。独り言みたいなもんだ」
そうなんだ…楽しそうだねと誰からともなく口にして、重たい空気にもぞもぞする。
「お兄さん、いつ頃からああなの?」
「俺の知ってる限り、拓人がオタクじゃなかったときなんてねぇよ。ガキの頃も、外で遊ぶより家でアニメ見たり自分で絵描いたりすんのが好きで、本ばっか読んでて……けど、頭よくて顔もいいから女にはモテたし、まわりからもすげーチヤホヤされて、生徒会長とかもやってたし」
「ちなみにS大文学部卒だそうっす」
地元の国立大学だ。そこそこ難関。彰久と千榛も学部違いだが卒業生である。
戸村の、今更あんまり必要ないというかむしろ聞きたくなかった情報公開に、彰久が肩をぶつけて無言の抗議をした。
「市川さんのお兄さんもS大出てるんだ」
「ニートだけどな」
「もしかして、就職したこと一度もないの」
「ねえよ」
就職活動してるところも見たことねーし。
弟、がしがしと頭をかく。
そりゃ本人が労働放棄の非現実逃避者とか言い切ってたしなあ。と、全員の目が泳いだ。
「由緒正しい……ニートだね……」
チッ、と、弟は正しく舌打ちをした。
「田舎の親はさ、あいつの現状、薄々は知ってるくせに気付かねぇふりしてやがんだよ。いまだに電話じゃ拓人の足を引っ張るようなことをするなとか言いやがって。けどよ、実際に足引っ張ってんのはどー見てもあいつのほうだ。一日仕事して疲れて帰ってきて、あの糞オタクがテレビの前で萌えーとか言って転げまわってんの見たときの俺の気持ちとか、あんたらに分かるかよ?」
わかるわけがない。
那月は自分の姉でなんとかその光景を想像してみようとしたが、それにはかなり気合の入った変換が必要だった。深呼吸し、腹に力を入れて、妄想スタート。
まず、家に帰ってくる。千榛が台所でアニメを見て転げまわっている、萌えー萌えーと叫びながら…
えっ、千榛ちゃんが笑ってる? 心の底から? 良かった、こんなの何年ぶりだろう、ありがとうテレビ! 千榛ちゃんに楽しさをありがとう!
へんにゃりと緩んでしまった顔を市川に睨まれていることに気が付いて、那月は慌てて首をぶんぶん振った。
「あのオタク野郎、愛があれば金なんかなくても生きていけるとか言い出して……」
「でも御飯は食べるんでしょ?」
「カレーとプリンばっか食ってる」
そりゃ、いくらなんでも霞を食っては生きられまいが。それにしても、何故カレーとプリンなのか。
なんだかなあ。と、彰久が首をすくめた。
「その、レトルトのカレーとプリンだってお金出して買ってるんだろうに」
「たぶん、俺がいない間に買ってきてんだとは思う。けど、拓人が言うには、夜寝てるあいだに愛の妖精さんが……いや」
淡々と語っていた市川だったが、全員一致でげっそりした表情になったため、さすがに少し申し訳なさそうな口調になった。
「あいつ、大学んとき塾講師のバイトやって貯めた金があるんで、当面のカレーとプリン代には困らないんっす。ここの家賃も学生時代から親持ちで振込みになってて」
「ちょっ、なに、じゃあ社会人年齢の息子二人が親に家賃払わせてんの!?」
「やっぱやべっすよね…親だってもうすぐ定年だし…」
「そうだよねえ。市川さんは株で借金作っちゃうし…」
あ。
那月の一言で、やっと全員、なんで四人もの人間が六畳の部屋に詰まっていたのかその理由を思い出した。




