■第五章 市川との再会
「なにから説明します? 基礎から?」
彰久が問うので、初心者二人おおいに頷いた。
じゃあ俺今から西条先生ね? と、彰久はにやにやしている。
「悦子さんも株は持ってますよね」
「ええ」
「普通の取引のやり方だと、まず口座を開いて、株を買うとこから始めるわけです。確か悦子さんは300円のものを千株買った。今、いくらですか?」
「今朝みたときは352円だった」
「もしそれを今売れば、この金額なら手数料もそんなにかからないし、まあだいたい5万円ほど得することになります。」
「そうね」
「これが現物取引です。株を買って、売る。売る時点で、買ったときより値上がりしてたら得をするし、値下がりしてたら損をする。ま、当たり前ですね。ごく普通のことです」
「信用取引は違うの?」
那月が、林檎をむきながら聞いた。
「昨日、アキ兄ちゃん言ってたよね。市川さんは信用取引をやってるから大きいお金を動かせるって」
「そうそう。つうかお前大丈夫、これから借金の話とか出てくるけど、びっくりして手の皮むくなよ」
「大丈夫……たぶん」
答えたものの、いささか緊張する。
林檎むけって言ったの西条くんじゃないの、と突っ込みつつ、広がる甘い匂いときらきらしい蜂蜜色に根負けして、皿の上に一番最初に手を伸ばしたのは悦子だった。
「あー、まず簡単に……信用取引ってどんなかっていうと。専用の口座を開いて、そこにいくらか保証金を入れます。そうすると、その保証金の約3・3倍の金額の取引をすることができるというシステムです」
「ハイ先生。なんでそんなに使っていいの?」
「使っていいっていうか、まあ要するに、お金貸すからうちの口座使って取引しなよって感じかな。もちろん、そのための手数料も金利もとるわけで」
「あ、借金ってそういう……」
「金融業界ってのは、とかく隙あらば誰かにお金を貸したい、手数料と利子で儲けたいって人がいっぱいいるからね」
那月は手を止め、ぶんぶんと首をたてに振った。
あまりに勢いがいいので、目をまわすぞ、と先生が止める。
「3・3倍ってのをもう少し具体的に言うと、例えば200万円ぶんの株を買いたい。そのとき現物取引だと現金200万円が必要だけど、信用取引の場合は、とりあえず60万円あればいいわけ。ちなみに市川くんは最低保障金額の30万からはじめてた」
「そっか、そこから、少しずつ保証金を増やしたんだ。すごいね」
「俺に言わせりゃ保証金30万しか用意できない貧乏人が信用取引に手ぇ出すなバカ、ついでにしょっぱなっから限度額ギリギリ動かすってどういう自殺行為だよ失敗して金返せなかったらどうするつもりだ、ひとりレミングかお前はってのが本音だけどね」
「レミング」
と、那月は小首をかしげてみせた。
「アキにーちゃん、話の腰折って悪いけど、レミングの集団自殺ってデマなんだってよ。こないだテレビでやってた」
「え、そうなの?」
「集団移動はするし、その途中で弱って死ぬのもいるけど、別に自殺の為じゃないって。兎が寂しいと死んじゃうってのと同じ、映画で広まった作り話なんだってさ」
「えっ、兎って寂しくても死なないの?」
今度は悦子が林檎をくわえたまま、話に割って入ってくる。
死なないよー、と、これは彰久と那月が同時に応えた。
「むしろ兎って神経質だから、他の固体と一緒じゃないほうが長生きするんだって」
「ほんとすぐケンカするもんな、兎。怪我するとあっという間に死ぬくせに。てか、俺、兎型林檎が食べたいで~す」
「じゃあ、ちゃんと磨かないと。皮を残すと農薬が怖いよ」
話が完全にズレている。
三人、はたと顔を見合わせた。
「……どこまで話したっけ」
「保証金の3・3倍まで」
「そうか。ぜんぜんさわりの部分だったな。あー、それでね、もひとつ信用取引の特徴ですが。お金だけじゃなく、株を借りて取引することもできます」
「んん?」
「どゆこと?」
「普通の場合は、
■株を買う→その銘柄が値上がり→売る→儲ける。
って手順なんだけど、そうじゃなくて、
■株を借りる→借りたものを売っぱらう→値下がり→その株を買って返す→儲ける」
「……んんんん?」
「わかる? ふつーは、今、自分が持ってる株を売るわけだから、買ったときより価値が上がってれば得をするよね」
「逆に、いちど売ったものを買い戻すとなると、その株の価値が上がっちゃってたら損をするんだ。ああ……そっか」
メモ用紙にボールペンで、悦子はなにか書き殴っている。ぐりぐりぐりぐり。
「つまり、市川は今どーゆー状況?」
「今日三時の確定時点で、保証金60万をひいたトータル約340万の借金を抱えてる状態。明日になってもしE社の株価がもっとあがったら、損失額はずるずると500万にも600万にもなってく可能性がある。下がってくれることに望みを託してじっと売ったままにしておくにしても、やれ貸し株料だ管理料だと維持費ばっかりかかっちゃって、たぶんますます損失額は広がる一方。さあ大変だ」
「那月ちゃん那月ちゃん!」
林檎に果物ナイフを突き立てたまま、真っ白になっていた那月である。名前を呼ばれてハッと我に返ったとき、ナイフと林檎は一旦、彰久の手中に遠ざけられていた。
「なにか……今、ものすごく怖い話を聞いたような……」
「気のせいだよ。那月、俺の目を見て」
♪損失なんてないさー借金なんてうそさーねーぼけーた人がー見間違えたーのさー
囁くような歌声に併せ、彰久が揺れる。
なに催眠術かけてんのよ……と、悦子は首をすくめた。
それにしても、340万の借金。
一日で。
「西条先生? アタシいまいちわかんないんだけど……そのね、借りた株を買って返す方式ねえ?」
「いわゆるカラ売りという奴です。なんでしょう?」
「極端な話、百万円で売った株がうまい具合に下がりに下がって十万円になったとして、そこで買い戻せば九十万円の儲けになるから万々歳って、それは理解したの。だけど、逆に……株が値上がりした場合よ? 下がるほうはゼロでストップだけど、上がるほうは果てしないわけじゃない?」
「理屈ではそうですね」
「めちゃくちゃ危険って思うのはアタシが素人だから?」
「玄人目にも危険です」
「世の人々はなんでこんな怖いものに手を出すのよ?」
「またこれ深遠な。……ですよね、ほんと」
まあ、世の中には、ハイリスク・ハイリターンについ手を出しちゃう人と、絶対にそういうのには近寄らない人とがいるわけで……と、前置きしてから、彰久は腕を組んだ。
「ただ、ですね。市場が全体的に下げてる日は、その中で上げてる銘柄を探しだすより、下げてるものに手を出すほうが、確実っちゃ確実なんです」
「そか。……了解」
「ちょっとだけ擁護すると、市川くんの場合は、銘柄の選び方そのものは割と手堅くいってるんですよ。E社は株主優待の確定時期も過ぎたし、これといって値上がりするような理由もいまのところないので、ここのところ順調に……って言ったら変ですけど、下げてた銘柄です。たぶんこの調子で少しでも下げたら買い戻してすぐ次に行こう、くらいに考えてたんだと思いますよ。まさか自分が手を出した途端に爆上げするなんて思いもしなかったでしょうね」
「あがる理由のない株がなんで急に上がったの」
「高い値段でたくさん株を買った人がいたからです」
へらりと笑うと彰久は、那月の手の中に林檎を一個と布巾一枚を落とした。
「林檎って磨くとピカピカになるよね、俺あれすごい好き。赤くてピカピカ、最高」
「ちょっと、西条先生?」
悦子の手が、グイッと彰久のネクタイをひっ掴んだ。
「アタシ、もひとつよくわかんないんだけど」
「なんでしょうか」
「一社の株価を数時間で倍にするにはどのくらいお金が必要?」
「ケースバイケースです」
息が苦しいのか、彰久の頬も薄赤く染まる。
「まあその、目に見えて変動してる株には、うまい汁を吸おうという連中がわっと群がってくるものなんで、つまり一度ポンと注ぎ込んでしまえば後は割と勝手に値上がりしますし、後はそれが崩れないよううまく買い気配を見せ続けてですね……」
「具体的にいくらかかるのよ?」
「えっと…………たくさん?」
悦子が絶句しているのは、どこからなにに突っ込むべきか見当がつかないからだ。
那月は黙って、林檎を磨いている。
「西条くん」
「はい?」
「あんた、そんな……そんな大金持ちが、なんであんなしょぼいスクーターなんか乗ってるのよ! せめて車に乗りなさいよ!」
とりあえず、矛先はそこに向けることにしたらしい。首を絞められたまま、彰久は口の先をとがらせた。
「しょぼって……失敬な、現在市場に出回ってる原付二種スクーターの中ではあの車種が全てにおいて最高ですよ! いいですか、高出力で始動性抜群、リッター四十キロの燃費のよさ、最速百キロの加速性、125ccとは思えないほど軽量化されたボディ……しかも国産だから急な故障時も心配ないし、なんてったって安い!」
「アキにーちゃん」
「それに、車と違って維持費がほとんどかからないですし、ガソリン代は激安、渋滞はほとんど関係ない、カーステなんかなくても自分で歌えばいですし、それに」
「できたよ、兎林檎」
「サンキュー、それに」
「俺は風?」
「そうそれ、赤い疾風!」
悦子は彰久の首を開放し、出来たて兎林檎の尻を齧った。アタシが言ってるのはそんなんじゃないわよとぼやくと、彰久は、そんなじゃないってどんなですかモノヅクリニッポンの誇る芸術品なのに! と、激しく主張。
なんだかスクーター欲しくなってきた……と、いわく芸術品を遠目に見ながら、那月は自分でむいた林檎を口にする。
半分残った兎の頭を、悦子は億劫そうに彰久に向けた。
「その漫才師みたいな安っぽいスーツもさあ……」
「やすっぽっ…漫才師って、悦子さんほんとは俺のこと嫌い!?」
「さっきまで好きだったけど、お金持ちって判明した途端に嫌いになったわ……って、嘘よ、ちょっと、林檎返して」
林檎は返却されず、略奪者の口のなか。
彰久は肩をすくめてジャケットを脱いだ。中のシャツはピンクの細かい縦じまだった。
「安っぽいだなんて失敬な。老舗の名店にオーダーメイドで作ってもらったスーツですよ。見てください、この丁寧な縫製。裏地まで手を抜かない職人芸。これだけしっかりしてれば、その気になったら十年だって二十年だって着れますからね、減価償却ばっちり」
「質が良くても色がねえ……」
泣いてたんじゃないの、その職人。
なんでですか、と彰久は鼻を鳴らす。
「赤は情熱の色でしょう。日本の国旗だって赤いじゃないですか!」
「中国の国旗はもっと赤いよ」
「旧ソ連も」
むう、と口もヘソも曲げ、赤い男はジャケットを肩にかけると立ち上がり、窓の外で燃え盛る夕日を指した。
「みなさん、静粛に。常識に基づいて話をしましょう。通常、赤、あるいはレッドという言葉からまず連想するのは!」
「赤潮」
「レッドデータブック」
「赤紙とか」
「レッドパージ?」
「なんなのこの人たち、俺がお金持ちとわかったとたんに冷たくなって!」
いや、お金持ちなことは知っていたけど、なにもそこまで持ってなくてもいいんじゃない、ねえ? と、庶民二人でひそひそ話す。
「貧乏人の反感かったよね」
「異世界の人間ってわかっちゃったもんね」
「……お願いだから、未知と遭遇してあげてください」
金持ちが本気でしょんぼりするので、貧乏人たちはイジワルをやめることにした。
そんなことより、である。
「市川さん、一文無しになるどころか、いきなり借金を背負っちゃったわけだよね?」
「催眠術がとけたのね、那月ちゃん」
「しかも、このままだと、どんどん膨らんでくんでしょ。早くやめさせないと……」
「まあ、どのみち今突っ込んである保証金が60万だからね。俺が出てかなくても強制終了かかっちゃうけど」
「そうなの先生?」
生徒たちが口を揃えると、さっきまでイジメにあっていた先生が、やっと威厳を取り戻した。
「保証金は、常に30%を維持してないといかんのです。市川くんの場合、建玉が400万になっちゃったんで、保証金は120万なくちゃいけない。でも今は60万しか入ってないから、明日には証券会社から電話が来て追加保証金を入れろと脅しがかかります」
「入れないとどうなるの」
「たぶん翌々日の正午までに入金が完了しなかったら、そこで決済。こんどはE社株を買戻すために残りの360万を払えと脅される。脅されるっていうか……ま、証券会社としては正当な請求をしてるつもりだよね、貸した株をさっさと買って返せよと」
那月がぱっかり口をあけたまま固まっているので、悦子が代わりに訊いた。
「どうするの?」
「とりあえず、行ってきますよ。市川クンのところに。那月も連れてね」




