第四章・3
「確かに」
と、図面をコピーしながら悦子が言った。
「西条くんは調子ぶっこくことがあるわね」
「……あれ以上?」
「あれ以上よ。お酒もハタチでやめたらしいじゃない? 楽しくなりすぎると手がつけられなくなるからって理由で」
商店街を端から端までピルエットで渡りきると宣言して3メートルでひっくり返ったとか、春先に中学校のプールに忍び込んで藻まみれで寝てるところを発見されたとか、ゲームセンターのディスプレイだったツタンカーメンと闘って負けたとか、どぶにハマったとか用水路に落ちたとか自転車にひかれたとか、
「そういえばいろいろ聞いたことある。お酒、やめたんだ」
「どうせ飲まなくてもテンション高いんだから必要ないだろって、社長にお尻蹴飛ばされてたわよ。うちのドリル置き場に頭突っ込んで流血さわぎになったときにね」
「テンション高いなあ。千榛ちゃんと足して割ったらちょうどいいと思うんだけど」
「それはどうかしら。まず、足した時点でなにか恐ろしい科学反応が起こる気がする。よしたほうがいいわ、きっと」
コピーした図面が那月の前に高く積み上げられる。別刷りの表紙をつけて、後はひたすらガチャックで綴じていく。
「アキにーちゃん、どうするつもりなんだろ」
「思ったんだけど、市川の口座のパスワードって分かってるわけじゃない? それで、絶対に値下がりする株を買いまくるとか」
ぜーんぶスっちゃって文無しになった市川が、泣く泣く舞い戻ってくるのよ。社長、雇ってくれないとガス代が……電気代が……
「ほんとなら台車ぶつけて追い返したいとこだけど、今、工場はこういう事情だものね。社長も雇わないわけにいかないでしょ。きっとその路線よ!」
お喋りしつつも、FAXの整理に忙しい悦子である。午前中は発注が多い。仕事の手は止められない。
その路線……は、実際、悦子の言うとおりかなあと那月も思うのだが。
「でもさあ、そんなことしたら、市川さんだって、パスワード盗まれてるって気付くんじゃない? 即効パスワードを変更して注文を取り消すと思う」
「それもそうか」
「それに、そんな凄い勢いで下がる株を探すのも難しいよ。倒産寸前でもそこそこは粘りそう」
M工業の加工のために戻ってきてもらうなら、市川には二、三日中に破産して泣きを見てもらわなければならない。そんな都合よく下がる株なんてあるんだろうか。
「そこは腐っても赤い彗星ですもの、分かるのよきっと」
「分かるのかなあ……」
「分かんないかしら。内部情報で」
「インサイダー取引ってやつ?」
「それそれ。……犯罪だわね」
忙しく駆け回ってた悦子の足音が、ぱたりと止まった。
見れば、真剣な顔をして、パソコンの前でマウスを動かしている。
「悦子さん……もしかして」
「市川の取引画面、見てみましょうよ」
「……ま……待って!」
パソコン前にすっ飛んでいった。両手で画面を覆い隠す。
ちょっとぉ、と、悦子に軽く額を弾かれた。
「なあに、邪魔しちゃイヤよお? 今頃、西条くんがなにか仕掛けてるかもしれないじゃない。それで市川が泣かされてるならさ、見たい見たい修羅場シュラバ」
「い、いまから私、エクセル使って小口計算するから。駄目。パソコンだめ」
「なに言ってんのよ。那月ちゃんはガチャ玉エンドレスよ。綴じて綴じて」
「悦子さん、電話鳴ってる!」
「もー」
ぷりぷりしながら悦子が電話に出てくれたので、那月はほっと息をついた。無駄だとは思うが、エクスプローラーのアイコンをゴミ箱に移してみる。
正直なところ、なにかが起きているのかいないのか、興味はあった。だが、確かめるのが怖い。だってもし本当に、どういうマジックかは分からないが、市川が買った株がどんどん下がっていたら……百万円が九十万に、八十万、七十万……ガス代が……電気代が……
「……怖っ」
那月は本気ですくみあがった。
借金アレルギーとの診断も下っているほどだ、例え他人のお金でも、そんなのは見たくない。それに、株価がどんどん下がるなんて、どこかの会社が傾いてるということだから……そこでもきっと社長以下社員のみんなが寝る間を惜しんで働いて、取引先に怒鳴られて、あれこれ難癖つけられて……
「リアルタイム悲惨♪ ライブ中継♪」
電話を終えた悦子が、うきうきと那月の手の上からマウスを動かそうとし、アイコンがないっ! と耳元で声を上げた。
「ちょっと、インターネットできないし! ……あらら。涙ぐんじゃって」
「だって……ホラー嫌い……」
「感情移入しまくりね。映画観てぼろぼろ泣くタイプ?」
しょーがない子ねーホント。と、苦笑いしながら立ち上がり、悦子は再び鳴り始めた電話に出ると、その相手とまたたくまに喧嘩をおっぱじめた。どうやら相手はT建設の野田らしい。
ぶるん、と那月は首を横に振った。
「それにこれ、つくり話じゃないし」
確かに、映画を観て泣いたことはある。
号泣だったが、それだって別につくり話に泣いたんじゃない。
生前、いや、まあ今もどこかでのんべんだらだら生きてはいると思うのだが、姉妹にとっては既に死んだも同然の父に、一度だけ連れて行ってもらった大作映画。
壮大なスケールのロケ、何万人ものエキストラ、金をかけたことだけが売りのような歴史ものだったが、その肝心の、壮大な何万人戦闘シーンに緊張感はまったくなく、ダイナミズムと緊張感においては信号が変わる瞬間の渋谷の交差点のほうがはるかにマシだと子供の目にも明らかな、つまり、駄作で凡作だった。
客はまばらで、父はいびきをかいて眠っており、姉の目はとりあえず開いてはいたが、この時間をいったい自分はどうやり過ごせば、後に二時間半がただひたすら無益であったと吐き捨てずに済むのかを真剣に検討中である、という顔つきだった。
那月は急に悲しくなった。
この映画にかけられた金と年月と情熱の消えた先……監督はどうなるのか、プロデューサーはどうだ、出演した役者のキャリアに傷はつかないだろうか、出資した企業は、収入を見込んでいた映画館の関係者は……
考えていたらすっかり薄ら寒く、心は辛くなってきて、気が付くと姉がポケットティッシュを投げてよこすほどの惨事である。
その映画は後にテレビで放映されて、またこれ恐ろしい低視聴率をたたき出してくれたものだが、そのとき姉は渋い表情で、
「あれから少し考えたんだが、お前がこの映画のどこにあんなに泣いたのかさっぱりわからないんだ」
と言い、話を聞いた彰久は、
「那月は箸が転げてもセンチメンタルな年頃なんだよな?」
と適当極まりないことを言って踊っていた。今思うと、なんであのとき踊っていたのだ彰久は。
わずかに鼻をすすりあげ、那月はどうでもいい回想を打ち切った。
気をとりなおし、図面綴じの続きに取り掛かろうかと席に戻る。
FAXは届き続け、印刷機はガタガタ鳴り、悦子はまだ喧嘩していた。
中小企業にありがちな、長閑ならざる午前の風景である。
午後になると、とりあえずだが、事務仕事に一段落がついた。
悦子がパソコンの前に陣取って、なにか作業をしている……と思っていたら、印刷した紙を眺めて渋い顔で首をかしげている。
どうしたのかと聞いてみれば、緩慢に紙を隠そうとするから、ピンときた。
「市川さんの株取引画面? 印刷したの」
「そう。那月ちゃんは怖いのダメだから見れないわよねー」
「……意地悪」
「あらやだ。んー、でも、謎」
「謎?」
「見る?」
悦子の顔は、怖かった。口がひん曲がって、眉間に皺。
「ホラーなの……?」
「わかんない。アタシ的にはミステリ。だって、市川の買った株、めちゃくちゃ値上がりしてるんだもの」
「えっ?」
どうぞ。
と差し出された用紙に目を落とすと、悦子は怖いままの顔を近づけてきた。
「よく分かんないんだけどさ、最初にE社の株を注文してるわけよね。二百万円で」
「相変わらず思いっきりいってるね……」
「見る限りほぼ全財産つぎ込んでるわ。で、このE社株なんだけど、このあとどんどん値上がりしてるの」
「……はい?」
「もう倍近くになってる。これって二百万円の儲けが出てるってこと?」
「……えええ?」
「市川ウハウハじゃない?」
「二百万円……」
市川が大損して困ってるんじゃないかという胸のつかえは取れたものの、拍子抜けだ。
ていうか、株って。
工場の人たちは一年まじめに働いて平均年収三百万。もっと貰ってる人もいるけど、もっと少ない人もいるのに。
「なんか、気持ち悪くなってきた……」
「アタシもこれ、見なかったことにする」
見なかったことに……したいけど?
どーすんの西条くん。市川こんな儲けちゃったら、二度とうちになんか戻って来ないじゃない。
M工業のアレは当たり前のように組みあがらなくて、ほんのちょっと尻尾が見えた今年の冬のボーナスは足跡も残さずどこか遠くに走り去る、っていうか、それどころか、ヘタしたら倒産の危機……!?
広がる妄想で赤くなったり青くなったりしている悦子を横目に、那月は完全に現実逃避して、おととい買ってきたトイレットペーパーのレシートどこにやったっけ、などと考えていた。
と、ふいに外から変な歌が聞こえてくる。
……お金、お金、おかねぇーお金が増えると嬉しいなー♪
悦子がピクリと眉を跳ね上げ、吐き捨てるように呟いた。
「相変わらずいい声してるわね」
歌ってる曲は最悪だけど。
赤いスクーターの男は上から下まで今日もぎらぎら輝く赤さで、機嫌は非常に良いらしい。ジェットヘルメットを片手でぶん回しながら、口でもブンブーンと唸っていた。
「アキにーちゃん!」
「今日の差し入れは林檎だぞー。赤いぞー」
「赤いのはいいけど、ちょっと、どうなのよ」
「どうなのって、なにが?」
事務所に意気揚々と現れた彰久は、手に林檎の入った大きな袋を二つも抱えている。
その行く手を、悦子が塞いだ。
「見たわよ、市川の」
「ねえ。見事にドボンでしょ」
晴れ晴れとした笑顔が炸裂する。
「俺もあんまりちょこまか金動かされたらめんどくさいなと思ってたんですけど、あんま一気に上げたせいか、あいつすっかりビビッちゃって。損切りしてこないから、楽勝っすよもう」
「は?」
「言われてみりゃ、青い稲妻ってその名のとおりの結果ですねえ。一箇所にドカンと落ちてそれっきり」
那月と悦子は顔を見合わせた。
「……株、値上がりしてるけど」
「株、値上がりしてるでしょ?」
狐につままれまくって、那月は再び悦子の手にした紙をよく、よく、よく見た。
「あ……そっか……あれ?」
「どしたの、那月ちゃん」
「この注文、買いじゃなくて売り?」
ははは、と声に出して笑うと、彰久は事務所に上がりしな、那月の頭を軽く叩いた。そうして、
「その画面、白黒で印刷するとわかりにくいよね」
林檎ーりんごー、食べたいからむいてよねー♪
窓が震えるほど張りのある声で歌い躍りながら、机の上に大きな赤い実を並べはじめた。




