第四章・2
空気は少し冷たく、空は澄み渡って晩秋らしい爽やな朝だったのだが、ナガハラ製作所三代目社長の永原千榛は、怨霊にとりつかれて今まさに首を絞められているところだとでもいうような、季節外れの怪談真っ盛りな形相で眠っていた。
はだけた胸には汗がにじんで、色気の前に暑苦しい。
「千榛ちゃん、起きて。千榛ちゃんてば」
おばさんパジャマに安エプロンという朝の定番スタイルで、妹は姉の頬をぺしぺし叩いた。魘される姉は、ヒ・ヒ……と繰り返しているが、さすがに子供が生まれるわけではないだろう。
やがて目覚めた千榛は、ぜえぜえと息をしながら短く、
「ヒデヨ……」
と呟いた。それが野口英世のことだとしたら、襲いくる敵の姿が五千円札から千円札にスケールダウンしている。すごくどうでも良いことなのに、なぜだかひどく物悲しい。
豆腐を食べるかと聞くと、いらないと言われた。
朝日の差し込む明るい食卓で、向かい合って食事をとっていると、やがて姉は虚ろな目をして、低く声を絞り出した。
「……彰久は、あれからなにか言ってたか」
この姉のことだ。おそらく、一晩中そのことで苦しんでいたに違いない。那月は極力、素っ気無さを装って応えた。
「なにかって?」
千榛はしばらく、いったい何から話せばいいものかと考えあぐねているような顔をしていたが、やがて考えをひとつの言葉にまとめてきた。
「あいつは……お調子者だ」
ちゃんと計量したはずなのに何故か塩辛いひじき御飯に辟易しながら、那月は応えた。
「そうだね」
「調子ぶっこくんだ」
「そうなの?」
「……野放しにしといたら、なにしでかすか分かったもんじゃない。お前に、中学の卒業式の話はしたかな?」
「式の途中で何かカッコイイことするためにステージの上に隠れていたら、足踏み外して壇上の松の上に落ちたんだよね。私達の時代にも語りつがれていたよ」
「あのときの盆栽は七丁目の坂上さんの爺さんが精魂込めて育て上げたものだった」
「あっ、それでアキにーちゃん、坂上さんちの前の道路通らないんだ。コンビニ行くのに近道なのになんでだろうと思ってたんだ」
「爺さんに見つかったら、今でも犬けしかけられるからな。スキー教室の話は」
「捜索隊が出たんだっけ」
「それは夏季研修だ。スキーのは……いや、彰久のしでかした浅はかな事件簿なんかどうでもいいんだ。あいつはバカだからそのうち一部始終を恥ずかしげもなく綴って本でも出すに決まってる。那月、間違ってもそんなもの買うなよ」
「買わなくても、きっとサイン入りをくれると思う。工場の人たち全員に」
「古紙回収は木曜だから、配布は水曜にしてほしいな。とにかく、私は正直な話、西条彰久がいまだに株でたいした失敗もせずにいるのが……なんというか、気持ち悪い」
言われてみると、そうかもしれない。
醤油が濃い口だったのがいけなかったんだきっと……と、口の中のものをよく噛みしめながら、慎重に、那月は言葉を選んだ。
「たぶん、お金と相性がいいんじゃないかな」
姉は深く溜息をついた。
まるで彰久の不徳はすべて自分の監督不行き届きが原因であるとでも思い込んでいそうな顔色だったが、ひょっとすると実際にそうなのかもしれない。
「……あいつは昨日、なんて」
「ぎゃふんと言わせてやるって言ってたよ」
「誰を」
「市川さんじゃない?」
千榛ちゃんをぎゃふんと言わせてどうするのさ。
そう言いかけたが、姉の絶望的な表情を見ていると、確かに彰久の胸中は知れない……かな? という、気がしてくる。
穿ちすぎかもしれない。
そうじゃないかもしれない。
テレビのニュースは株式市場が安定している、ということを淡々と告げている。
「あとね」
淡々調子に乗って、淡々と告げてみた。
「絶対に市川さんを連れ戻すから、M工業のアレはほっといても大丈夫だって。今日は他の仕事に全力投球しろって言ってたよ」
「アイツはなにを根拠にそう安請け合いを」
「根拠はお金だと思うけど」
千榛は顔をゆがめた。
「どれだけ金持ちのつもりか知らないが」
「うん。アキ兄ちゃんって実際、どのくらいお金持ちなの?」
昨日の彰久の高らかな笑い声ときたら、まるで全能の悪の大王みたいだったけれど。
「人の懐具合を探るような真似はしちゃいかん。下品だ」
「千榛ちゃんも知らないんだ?」
いつも遊びにくるとき、果物その他、値段高めの食料を差し入れてくれるし、言動からみてもまあ小金持ちだろうという認識はあったのだが……そういえば、まだ若いのに、赤の他人の進学費用をもってもいいと言い出すくらいには余裕があるわけだ。
姉は沈んだ口調で言った。
「景気のいい話はしょっちゅう聞かされるが、どうも胡散臭い。私は、彰久の財布に入ってるのは本当は子供銀行券か葉っぱなんじゃないかと疑っている」
「まさか。いくらなんでも」
「彰久はお調子者だ。……那月」
「なに?」
「あんな大人になるんじゃないぞ」
即答は避けた。
あんな大人でも、那月はやっぱり彰久が好きだ。一緒にいると楽しいし。たぶん、千榛だってそうだろうと思うのだが。
「千榛ちゃんは、私にどんな大人になってほしいの?」
「今のまま、素直で優しい大人になってくれ」
身内に不幸があったみたいな暗い顔のまま、さらりと言われて驚いた。どうもいろいろ噛み合わない気がして、もぞもぞする。
「私、そんな素直でも優しくもないよ」
「那月が素直で優しくないなら、この世に素直で優しい人間なんか一人もいなくなる……と、私は思ってる。勝手にハードルを上げるな、世界が気の毒だ」
「真面目な顔してなに言ってんの」
「彰久にも聞いてみろ。さぞかし不真面目な面を晒して同じことを言うだろうよ」
だからそれを、何故そんなに重たい口調で告げるのか。
千榛ちゃんのネガティブ波、今日も絶好調。と、あまりの暗さにしみじみしながら、ついでなので聞いてみた。
「千榛ちゃんは、どんな大人になりたいの」
「私はもう大人だ」
「どんな大人になりたかった?」
「親父みたいじゃなければ、どんなでも」
ああ。
そうだよね、ごめんね千榛ちゃん。
でもね、確かにへらへらしたノリは似てるけど、アキにーちゃんは、違うと思うよ?
……と、言うべきか言わざるべきか。
迷ったが、おそらく姉も分かってはいるのだ。ただ、あの能天気ぶりをみていると、どうしても連想してしまうというだけで。




