鏡の灯台
「あぁ、ずっと地下を走ればよいのにな」
何気ない帰り道。地下鉄の車内に差し込む夕陽が、私に終わりの予感を告げる。
美術部で出会った、赤いスカーフの結葵先輩。
二人でキャンバスに向かい、笑い合い、物語を紡ぐ日々。
そんな「当たり前」の時間が、永遠に続けばいいと思っていた。
学校帰り、地下鉄の吊り革に掴まりながら、揺られている。
私の最寄り駅に着く頃には電車は地上を走る。
電車の蛍光灯と数人のスマホが照らすだけだった車内に、西の低い位置から差し込む夕陽が明るく差し込む。
明るくなった車内。普通の人はその分気持ちも晴れやかになるものかもしれないが、私は違う。
「あぁ、ずっと地下を走ればよいのにな」
「柚、何か言った?」
結葵が聞く。
「あぁ、そろそろ、駅に着くので支度しないとなって。先輩また明日部活で会いましょう!」
あどけない笑顔で、柚が答える。
もう、さよならか……
柚は演技派なのか、結葵が鈍いのか。
柚の気持ちは伝わらない。
私の描く世界は、あの時から変わっていった……
小鳥の囀りと、ピンクの花びらが舞う朝だった。
日の光がカーテンの隙間から部屋に差し込み、ベッドで横たわる私の顔を優しく包む。
瞼の裏側が明るくなり、ゆっくりと目が覚めた。
上半身を起こし、寝ぼけ声で小さく欠伸をしながら腕を伸ばす。
1階に降りると、父が新聞を片手にコーヒーを啜っていた。
「おはよう、柚。」「お父さん、おはよう」
目を擦りながら答えると、キッチンから母の声が飛んできた。
「っあ、おはよー。丁度良いわ、これ持っていって~」
トースターからきつね色の食パンが飛び出す音が聞こえる。
私はトーストとサラダの載った皿を二つ持ち、父の横へ行った。「はい、どうぞ」
「うん。ありがとう。いよいよ今日からだな」
「そうだよ~。緊張しちゃうね……」
「友達いっぱいできると良いわね」
母も自分の皿を持ってテーブルに着く。
「うん。頑張る!」朝食を終えて部屋に戻り、パジャマを脱いで新しい制服に袖を通した。
まだ着慣れないセーラー服。鏡の前で緑色のスカーフを首元に巻きながら、小さく息を吐く。
「まだ着慣れないな……」そろそろ出る時間だ。
玄関で新しいローファーに足を入れ、立ち上がる。「お母さん、どう?」
「うん!良いじゃない。可愛いよ、柚!いってらっしゃい!」
「行ってきます!」軽い足音を立てながら、私は駅に向かって歩き出した。
私は駅に着くと改札を抜け、来た電車に乗り込んだ。
車内はちらほらと空席がある程度の込み具合。
空いてる座席に腰を降ろす。
電車が動き出すと、私は窓の外を見ようとした。
すると、同じセーラー服の少女が視界に入った。
……きれいな人。
スカーフが赤い 2年生かな?
つい観察する様に見てしまう。
日の光が徐々に車内から消えていく頃、トンネルに入った電車が小さく音を立てた。その振動に合わせて、少女の顔がこちらを向く。
目が、合った。咄嗟に私は頭上の窓に視線を逸らした。
蛍光灯の光を反射する窓ガラスに、自分のぼんやりした顔が映っている。
……頰が、いつもより赤らめている気がした。
学校の最寄り駅を知らせるアナウンス。
いたたまれなくなった私は、ドアの前に移動する。
溜息がドアの窓を少し白くさせ、窓の外にホームの明かりが近づいてくる。
電車を降りると、私は足早に学校に向かった。
学校に着くと、校門をくぐる新入生の姿がそこかしこに見えた。
まだ少し緊張が残る足取りで、私は昇降口に向かう。ローファーの音がやけに大きく響く気がする。
教室で簡単なホームルームを終え、担任から部活動の案内があった後、私は地図を片手に美術室へと向かった。
美術室は校舎の西側、3階の端にあった。
少し古びた木の扉の前で深呼吸をしてから、ノックする。
「失礼します……」中から明るい声が返ってきた。
「どうぞー!」扉を開けると、柔らかい日差しと絵の具の匂いが一気に私を包んだ。
何人かの先輩がキャンバスに向かっていたり、片付けをしていたりする。その中に——赤いスカーフの少女がいた。
っあ、……さっきの電車の人。
心臓が跳ねた。
先輩はこちらに気づくと、にこっと笑って近づいてくる。「新入生? 入部希望?」その声は、想像よりずっと柔らかかった。
「は、はい……柚といいます。1年生です」
「私は2年生の結葵。よろしくね、柚ちゃん」
結葵先輩はそう言って、軽く手を差し出してきた。
その手を取った瞬間、朝の電車で目が合ったことを思い出して、耳の奥が熱くなった。
「今日からよろしくお願いします……」
私は精一杯の笑顔を作った。
本当は、さっきから胸がざわざわして仕方ないのに。結葵先輩は私の顔を少しのぞき込むように見て、不思議そうに聞いてきた。
「なんか……何処かで会った事ある?」
「っあ、その……」上手く口が開かず、答えに困っていると
「うん!ごめん、気のせいだよね」
良いのか悪いのか先輩の記憶には残ってないみたい。
——私はホッとした。
あれ?今なんで私、ホッとしたんだろう?
美術部に入ってから、私の作品は少しずつ増えていった。
次の課題は、結葵先輩と二人でそれぞれ相手の人物画を描くことになった。
まだ梅雨前で、からっとした晴れた日が続いていた。美術室に差し込む柔らかな日の光が、キャンバスを優しく照らす。
私のキャンバスの中には、結葵先輩が浮かび上がっていた。
「ねえ、何で柚は美術部を選んだの?」
ある日の放課後、先輩がふと聞いてきた。
「美術部に入った理由ですか……?
絵が好きなんです。実は昔、入院したことがあって。その時に絵を描いたんです。看護師さんや両親に『凄いね! 上手だね!』って褒められて、すごく嬉しかったんです。
そこからもう、絵の虜になってしまって。
中学のときも美術部でした」
「そっか〜。褒められるのって嬉しいよね。
描いている間は嫌なこと全部忘れられるし、出来上がった作品はずっと残るし……すごくいい趣味だよ」
屈託のない笑顔でそう言って、先輩は私に完成したキャンバスを見せてくれた。
「どう? 私の描いた柚、可愛く描けてるでしょ?」
「……上手です。でも、可愛いだなんて……照れますよ」
頰が熱くなるのを必死に堪えながら、私は筆を握り直した。
可愛いだなんて言われたら、力なんか抜けてしまう。集中。集中しなきゃ。
やがて私のキャンバスも完成した。
「お待たせしました……どうですか? 綺麗に描けてますか?」
「わー、すごい! 上手だよ! 私ってこんなに綺麗なんだね!」
先輩は目を輝かせて笑い、続けた。
「気に入ったよ、柚」
私の住む地域にも、梅雨入りの知らせが来た。今年は空梅雨気味で、雨の日が意外と少ない。
それでも、降る日はじめじめとして気分が下がる。
「梅雨って嫌だな……なんか気分が晴れないなぁ」
美術室でキャンバスに向かいながら、私は小さく呟いた。
隣で筆を動かしていた結葵先輩が、すぐに反応してくれた。
「わかる〜! 私も梅雨は苦手。柚も雨の日は元気ない感じするもんね」
「え、そう見えますか?」
「うん、ちょっと顔色悪い日とかあるよ? ちゃんと寝てる?」
先輩が心配そうにこちらを覗き込むので、私は慌てて笑顔を作った。
「大丈夫です! ただちょっと寝不足なだけですよ。
……先輩こそ、最近夜更かししてませんか?」
「ばれた?(笑) 実はこの前の人物画、夜中に仕上げちゃってさ。
柚の絵、ほんとに良かったから頑張っちゃった」先輩は照れくさそうに笑いながら、続ける。
「そういえばさ、夏のコンクール、柚は何か考えている?」
「コンクールですか?とくにはまだ……」
コンクールの話を振られ少し考える。
「っあ、じゃあ先輩。一緒に作りませんか?ご迷惑じゃ無ければ」
名案だと思った。絶対楽しいし、賞も狙えるかも。
「私と!? 」先輩は私からの提案に驚いてしまったようだ。でも直ぐに良い答えが返ってきた。
「分かった。良いよ、一緒に描こう!
でも、やるからには本気で描くよ?
二人で一枚のキャンバスを使って、なんかインパクトあるやつ。なんだか、柚とだったら賞、取れる気がする!」
先輩の目がキラキラと輝いている。
私は一瞬、胸の奥が締め付けられるのを感じたけれど、すぐに頷いた。
「はい、もちろんです! 私も、頑張りたいです!」
描くと決まった二人。
作品のタイトルは『並鏡道』。
一本の道がどこまでも伸び、その両脇には背の高い鏡が、まるで並木のようにずらりと並んでいる。
道を歩く人々の姿が、鏡に次々と映り込む。
笑顔の横に疲れた表情が、強がる背中にうつむいた肩が、光に照らされた瞬間と影に沈む瞬間が、同時に浮かび上がる。
誰もが持っている「見せたい自分」と「見られたくない自分」。
表と裏、光と闇——それを美しく、けれど少し冷たく映し出すのが、この作品だった。
初めての合作の出来に思わず、私は先輩を見た。
目線が合い、自然と笑みが溢れた。
書き終えて直ぐ、コンクールの発表日。
結果発表の掲示板の前で、私は小さく肩を落としていた。
始めての合作で選ばれるほど甘い世界ではないのかな。
分かる。分かるんだけど、凄く悔しい。
短いやり取りの後、会場を背に駅へ向かった。
先輩も同じ気持ちだったのかな?真剣な顔をしていたけれど、私を見るなり、いつもの柔らかい笑顔に戻る。
帰りの地下鉄。夕陽が車内をオレンジ色に染め始める頃、先輩は吊り革に掴まる私の頭に、そっと手を置いた。
「柚、よく頑張ったよ。『並鏡道』、私はすごく好きだよ。
来年は絶対に一緒に賞を取ろうね」
大きな手が、ゆっくりと私の髪を撫でる。
温かくて、優しくて、ちょっとくすぐったい。
っあ—— その瞬間、胸の奥が熱くなった。
心臓が、どくんと大きく跳ねる。
(……私、この人のこと、好きなんだ)
ただの憧れでも、後輩としての好意でもない。
結葵先輩の声、笑顔、横顔、大きな手……全部が、好き。
この気持ちは、恋だ。 でも、私はすぐにいつものあどけない笑顔を作った。
「えへへ……ありがとうございます、先輩。来年は絶対に頑張りましょう!」
先輩は満足そうに微笑んで、私の頭をもう一度軽く撫でた。
私は窓に映る自分の赤い頰を、そっと見つめた。 この想いは、絶対に言っちゃいけない。
でも、胸の奥に大事にしまっておこう
——そう思った。
コンクールが終われば文化祭までは直ぐだった。
文化祭当日、美術部の展示スペースは多くの人で賑わっていた。
『並鏡道』の前で先輩と交代で説明をしていると、「鏡がすごい」「自分を見ているみたいでドキッとする」といった声が次々に飛んでくる。
先輩は目を輝かせて私の肩を軽く叩いた。
「やったね、柚! すごい好評だよ!」
説明の交代時間になると、先輩が悪戯っぽく笑った。
「ねえ、柚。せっかくだから二人で文化祭、回ろうよ」
校庭の屋台街は人で溢れ、焼きそばのソースの香ばしい匂いや笑い声、呼び込みの声があちこちから聞こえていた。
私たちは並んで歩きながら、甘いクレープを一つ買い、半分こして食べた。
焼きたての生地とホイップクリーム、苺の甘さが口いっぱいに広がる。
人混みの中で先輩の肩が触れるたび、私はこっそり頰を熱くした。
射的の屋台では、先輩が集中して玉を撃ち、小さな猫のぬいぐるみを取ってくれた。
「はい、柚に。今日の記念!」
ぬいぐるみを大事に抱きながら、私は先輩の横顔を盗み見た。
こんな普通の時間が、たまらなく幸せだった。 夕方、校舎の屋上から文化祭の賑わいを見下ろしながら、先輩が柔らかく言った。
「柚と一緒に文化祭回れて、すごく楽しかった。
来年も絶対に一緒に何か作ろうね」
私は笑顔で何度も頷いた。
このときの私は、まだ自分の体に訪れる変化を何も知らなかった。
ただ、結葵先輩の隣にいられることが、世界で一番温かい時間だと思っていた。
文化祭が終わり数週間が経つ頃、私達は学校から少しの距離にある山の麓にいた。
私のキャンパスには、日の輪が紅葉を透かして、地面をほのかに茜色にする様子が現れはじめている。
ここに来て、なんだか筆を取る手が重く感じる。
頭の中には描きたい色が溢れているのに、指先にまで力が届かない。鉛のように重い体。
作品へのアイディアがない訳ではない。
ただ、それを形にするための「何か」が、私の中から少しずつこぼれ落ちている気がした。
そんな事が最近徐々に増えていく。
「良い感じに描けてるね!」私のキャンパスを覗く先輩が口にする。
「……でも、なんだろう……今日は凄く丁寧な筆だね。いつもはもっと、っぱっぱっぱって描くのに」
「そうですか? 秋だからですかね。冬が来る前に、もっとちゃんと景色を残しておきたくて」
私はそれっぽい理由で誤魔化す。
何故か、先輩に言っちゃいけない。そんな気がしたから……
秋が深まるにつれ、私は風邪を引くようになった。
最初は「ただの風邪」だと思っていた。
しかし、なかなか治らず、熱が下がってもすぐにぶり返す。
秋から冬にかけて、何度か入退院を繰り返すようになった。 学校にはなんとか通っていたけれど、美術室に顔を出す日が明らかに減っていた。
先輩はいつも心配そうにメッセージをくれる。
私は「大丈夫です」「もうすぐ治ります」と元気なスタンプを送り続けながら、
自分の体が確実に何かに蝕まれていることを、薄々感じ始めていた。
そして進級前の春休み——
激しい春の嵐が窓を叩く中、私は再び病院に呼ばれた。
激しい雨と風の音が診察室の中まで響く。
先生は淡々と私達に告げた。
「病状はかなり進行しています……
夏を超えるのは、難しいかもしれません」
その知らせに母が声を殺して泣き、父は私の肩を強く抱いた。
私は静かに聞いていた。
不思議と、驚きはなかった。
病室に戻り、私は弱々しく笑って言った。
「……お父さん、お母さん。
最後まで、学校に行きたいの。
先輩と成し遂げなくちゃいけないことがあるの……
それが完成するまでは、まだ終わりたくない」
ここ最近は部活帰りに先輩と一緒に帰る事が多くなってきた。
結葵先輩と並んで歩く帰り道が、私の毎日の小さな幸せになっていた。
2年生になったある日の帰り道。
いつものように地下鉄に乗り、吊り革に掴まっていると、先輩がふとコンクールの話を切り出した。
「ねえ、今年のコンクール、どうする? 何かもうイメージある?」
私は少し迷ってから、意を決して言った。
「先輩、コンクールの絵ですけど……灯台にしませんか?」
「灯台?」
「はい。灯台です。
闇を照らすんです。暗い海で舟が迷子にならないように、明るく光を投げかける……。
闇があるから光が必要で、光があるから影が生まれる。そんなのを表現できたらいいなって」
先輩の目が、ぱっと輝いた。
「良いじゃん! それ、描こうよ、灯台!」
私は小さく微笑んだ。先輩が乗ってくれて、嬉しかった。
地下鉄がトンネルを抜け、地上へと上がっていく。
西の低い位置から、橙色の夕陽が車内に差し込み始めた。
蛍光灯の白い光と、スマホの淡い明かりだけだった車内が、急に暖かい色に染まる。
私は窓の外に目を細めた。
「……でも、この光は苦手です。」
先輩が不思議そうにこちらを向いた。
「え、どうして?」
私は少し間を置いて、掠れそうになる声を抑えながら答えた。
「一日が終わるのを感じちゃって。
時計の針が、容赦なく進んじゃうんです。」
——地下にいたら、まだ今日が続いている気がするのに。
地上の光が、私に「終わり」を教えてしまう。
先輩の横顔を見上げながら、私は胸の奥でもう一つの想いを飲み込んだ。
(先輩と過ごす時間も、もう少しで終わってしまうのかもしれない。
さよならしたくない。
まだ、離れたくない……)
夕陽が先輩の頰を優しく照らす。
その光が、いつか私を置いていってしまうことを、私は何となく感じ取る。
地下鉄はゆっくりと最寄り駅に近づいていく。
私は吊り革を握る手に、そっと力を込めた。
先輩の温もりが、すぐ隣にあるこの時間が、
あとどれくらい続くのだろう。
私は……私は……
灯台の絵を本格的に進めるため、結葵先輩と私は海の見える岬まで取材に行くことになった。
梅雨入り直前の、蒸し暑い午後だった。
バスの中で先輩は終始楽しそうに話しかけてくれた。私はそれに笑顔で応えながら、時々、胸の奥に広がる違和感を押し殺した。
バスを降りると心地良い潮風が頬を撫でる。
岬に着いたとき、白い灯台は午後の光を浴びて美しく輝いていた。
先輩は夢中になって写真を撮り、私はスケッチブックを開きながら、遠くの灯台をじっと見つめていた。「柚ちゃん、こっち来て! 一緒に描こうよ!」
手を引かれて立ち上がった瞬間、視界が一瞬暗くなった。
でも、私はすぐに笑顔を作った。「大丈夫、先輩。ちょっと立ちくらみしただけです」描いている間だけは、本当に幸せだった。
先輩の横顔を見ながら筆を動かす時間が、私の残り少ない時間の中で、一番輝いていた。
頬を撫でる風が冷たく変わる。灯台を背に、振り返ると西の空が真っ黒になり、段々と私たちの所へ近づいてくる。
風が強く吹き始めたと思うと、みるみるうちに大粒の雨が落ちてきた。
夕立だ。
「わっ! 柚ちゃん、早く避けよ!」結葵先輩が私の手を強く引く。
私たちは近くの東屋に駆け込んだが、すでにびしょ濡れになっていた。雨音が激しく屋根を叩く。
私は息を整えようとしたけれど、胸の奥がざわつき、膝に力が入らなかった。
濡れた服が体力を奪っていく。「……先輩、ごめん。私、少し、寒いかも……」
大丈夫? 顔色悪いよ?」
「ううん、大したことないよ。ただの夏風邪だと思う」私は笑ってみせた。
もう、自分の体が限界に近いことを、嫌でも感じる。――あとちょっと……もう少しなのに。
岬での取材から三日後、私は学校を早退した。
美術室で筆を持っている途中で、突然強いめまいと吐き気に襲われた。
それからというもの、学校を休みがちになった。
朝はなんとか登校できても、午後には熱が出て保健室で横になる日が増えた。
先輩からは毎日心配のメッセージが届いた。
「お見舞いに行きたい」とも言われたけれど、私は「風邪をこじらせただけだから大丈夫!」と元気なスタンプで返し続けた。
こんな弱った姿を、先輩には見られたくなかった。 取材から十日後、朝起きると熱が39度を超えていて、ほとんど体を起こせなくなっていた。
母が泣きながら救急車を呼んだ。私はそのまま入院した。
白い病室の天井を見つめながら、私は静かに思った。
(もう、美術室には……戻れないのかもしれない)
梅雨空、病室の窓に打ちつける雨は時折強くなる。入院から3日目、鬱々とした空気に嫌気が差す頃、ドアを叩く音がした。
「入っても平気?」
先輩の声だ。私は慌てて体を起こした。
「はい、大丈夫ですよ、先輩」
ドアが開き、先輩の顔が見える。
先輩はいつものように、けれどどこかぎこちない、精一杯の笑顔を取り繕っていた。
――わかっちゃうよ、先輩。そんなに無理して笑わなくていいのに。
「柚。体調はどう?」
「すいません、心配かけて。風邪を拗らせちゃったみたいです。自分でも嫌になっちゃいますよ」
私はあどけない笑顔で返した。
先輩は私のベッドの傍らに腰を下ろし、心配そうにその瞳を揺らした。
「……柚。
ただの風邪じゃないよね?」
先輩の声は震えていた。
「取材の後からずっと様子がおかしいし、
休みがちになって、急に連絡も減って……
先生にも聞いたよ。柚が長期入院することになったって」
先輩の声が震える。「本当のことを教えて。
お願い……もう、隠さないで」
——先輩は、ちゃんと気づいていた。
私がどれだけ笑顔で誤魔化しても、優しい先輩の目は、全部見透かしていたのだ。
「嫌だよ……私……」
その先は、雨音にかき消されて聞こえなかった。
先輩の顔が見れない。今、見ると私が崩れ落ちそうなの。
私は何も言えず、ただ握り返すことしかできなかった。先輩の手の温かさが、あまりにも痛い。
私は窓に映る先輩に話しかける。
「ねぇ、先輩……私、あの絵完成させたいよ……」
それから、先輩はキャンパスを病院に運ぶ毎日を繰り返す。
最初は短時間でも学校に行き、描いていたが鉛のように重い身体が言う事を聞かない。
両親が無理を言って病院の空いてる会議室を借りてくれた。
持ち帰る度、キャンパスに載る油絵具の量は増えていく。
「ねぇ、柚。もう直ぐ完成だよ!」
「はい、先輩。」もう仕上げを残すのみとなった絵を試しに壁に飾る。
私は小さく微笑みながら、ゆっくりと後ろに倒れ込みそうになるのを堪えた。結葵先輩が慌てて私の体を支えてくれる。
その温もりが、痛いほど優しかった。
「最後、仕上げ頑張りましょう……」
心配そうな顔をする先輩を余所に絵に再び向き合う。
私は残り少ない力を筆を持つ手に集中させる。
ねぇ先輩、完成したよ。
それは、まるで一枚の鏡に映ったような、奇妙で美しい光景だった。キャンバスの上半分。左寄りに堂々と立つ白い灯台が、黄金色の光を海と空に投げかけている。光は波を優しく撫で、夜の闇を遠くまで照らしているように見えた。希望の色、導きの色——結葵先輩が主に描いた部分だ。そして、下半分。同じ灯台が、上下左右すべて反転して右寄りに描かれている。
灯台の明かりは逆に闇に吸い込まれ、光が落ちていくように海の底へと消えていく。逆さまの世界で、灯台はもはや道標ではなく、すべてを飲み込む黒い穴のようにさえ見えた。そこに私は、私のすべてを注ぎ込んだ。二つの灯台は、中央の水平線でわずかに重なり合い、光と闇が溶け合うように繋がっていた。
絵を180度回転させると、上と下が完全に入れ替わる。希望が絶望に、導きが沈黙に変わる。
結葵先輩が息を飲むのが聞こえた。
「……これなら本当に……」
私は小さく微笑んだ。この絵は、私と結葵先輩そのものだった。
私が地上の光を恐れ、地下の闇に留まりたがっていたように。
先輩が、それでも私を照らそうとしてくれていたように。完成した「鏡の灯台」は、
見る角度によって、まったく違う物語を語り始めた。
完成した喜びと達成感が部屋を支配する。
「……先輩、ありがとうございました」と掠れた声で伝えると強張っていた体から力が抜け、私はゆっくりと倒れ込んだ。
何度も私の名前を呼ぶ。段々と遠くなっていき、聞こえなくなる。
気付いた頃には、病室に運ばれていた。
もう瞼を開ける気力も乏しいなか、瞼の先の優しい光の中にぼやける人影が見える。
必死の思いで、目を開けると大粒の涙を流す先輩と両親の姿が見えた。
「みんな……そんな顔しないでよ……」
私まで泣きそうになる。
「お父さん、お母さん。最後に大きなわがまま聞いてくれてありがとう。おかげでね、すごいの出来たんだよ……私の最高傑作。先輩と二人で描いたんだよ。
お父さん達は見てくれた?
凄かったでしょ?あれ描けたらもう、悔いなんて無いよ。ほんとに幸せだったよ。ありがとうね。お父さん、お母さん」
両親に伝えると、私は先輩のほうへゆっくりと顔を向けた。
「先輩にはね、お願い事があります。私の分も、いっぱい長く生きてください。絶対ですよ」
掠れた声で、精一杯の言葉を紡ぐ。
「この先にね、嬉しいこと、怒ること、悲しいこと、そして楽しいこと。色んなことが待っていると思うんです。全部、私の分まで味わってきてください。あとは……ちょっとだけでいいから、私のこと、思い出してほしいかな……。思い出してくれたら、お空の上でこんな顔して喜ぶから」
そう言って、柚はいつものあどけない笑顔を見せた。
「あとね……」
最後の力を振り絞り、先輩の頬に顔を寄せる。温かな肌の感触を私の唇で感じる。頬を伝う涙が先輩に渡る。
「えへへ……キスしちゃった。私ね……先輩にずっと恋してたんですよ。困るよね、こんなの……でも、最後に言えて良かった」
頬を伝う涙の味と、先輩の驚きに震える息遣いを感じる。
「………………ちょっと、喋りすぎちゃったかなぁ。眠たいや。少し……寝ても……いいかなぁ……」
柚は静かに瞼を閉じた。もう、光も影も、感じることはない。
甲高い機械音と、柚を呼ぶ泣き叫ぶような声が、病室の空気を支配した。
柚がいなくなった実感が湧かないまま、あっという間にコンクールの日を迎えた。
私はコンクールの表彰式のステージに立っていた。 大きなキャンバスの前に立ち、見上げる。
『灯台』
白峰 結葵・日向 柚
夏の白い雲が空を覆う中、雲の切れ目から柔らかな光が差し込んできた。
……柚。
私はあの時のことを、鮮明に思い出していた。
病室で震える声で想いを伝えてくれた柚。
最後に交わした、温かくて儚いキス。
私は小さく息を吐き、静かに呟いた。
「柚……あの時の返事、まだしてなかったね。
私も……好きだったよ。
柚の笑顔も、あどけない顔で誤魔化すところも、
一生懸命筆を動かす横顔も……全部、好きだった。 ごめんね。
先輩なのに、ちゃんと伝えられなくて……」
声が震えた。
私は表彰状を受け取りながら、隣にいないはずの柚に向かって微笑んだ。
「やったよ……柚。優秀賞だって。
私たち、やったんだよ……」
一筋の涙が頰を伝うのを、誰にも見られないよう、そっと拭った。
学校帰り、地下鉄の吊り革に掴まりながら、揺られている。もう直ぐで電車は地上を走る。電車の蛍光灯と数人のスマホが照らすだけだった車内に、西の低い位置から差し込む夕陽が明るく差し込む。
明るくなった車内。普通の人はその分気持ちも晴れやかになるものかもしれないが、私は違う。
「柚、ずっと地下を走ればよかったのにね」




