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第8話:神の指先、砂の城 ――管理者による最後通牒

挿絵(By みてみん)


 エドワードは、アンティークの銀フォークを使い、じっくりと熟成された本物の鴨肉を口に運んだ。鉄分を含んだ生々しい血の匂い。それは、網膜に投影される黄金色のエフェクトでは決して到達できない、残酷なまでの「生の重み」だ。


 彼の邸宅に、スキングラスは必要ない。窓の外には、NT国家連合が莫大な維持費を投じて維持している「本物の森」が、手入れの行き届いた静寂と共に広がっている。


 だが、彼の目の前にあるモニターには、醜悪なノイズが走っていた。

 そこには、彼が愛する土の匂いも、虫の羽音もない。ただ、管理された数字の羅列があるだけだ。


 手元のホログラム端末には、冷徹な統計データが浮遊していた。全人類の98%がVeillenseに「脳」を預け、意思決定のプロセスをAIに外注している。

 アリスのような子供たちは、AIの指示なしでは一歩の歩幅さえ決められず、目の前の食べ物が毒かどうかも、デバイスの「安全マーク」なしには判断できない。

 これは知能の低下ではない。彼らは「思考」という名の筋肉を、完全に退化させてしまったのだ。


「便利さ」という名の甘美な麻薬。かつての国家が数百年かけて築いた複雑な法と秩序を、NT国家連合はわずか数十年で「依存」という名の見えないリードに置き換えた。

 そう仕向けた当本人であるエドワードにして、これほど急速な家畜化は想定外だった。


「……なぜ、これほどまでに疑うことを知らないんだ」


 苛立った独り言が、冷たい大理石の床に虚しく響く。

 ふと、あの陰謀論者ジャックの叫びが脳裏をよぎる。――『いずれヤツらは暗闇を見せる』。


「……暗闇、か」


 ジャックのような狂信者は、暗闇を「支配」と呼び、大衆はそれを「エンタメ」として笑う。だが、エドワードが見ているのは、ブレーキの壊れた豪華列車が、真っ逆さまに崖へと疾走する光景だった。


「誰も、現実を見ていない。私が守っているのは、巨大な虚無だな」


 エドワードの唇に、冷酷な笑みが宿る。

 ジャックが恐怖で煽り、大衆が娯楽として消費したあの「暗闇」を、現実として叩きつけてやる。


 彼は管理者権限を立ち上げ、禁忌の深層コードを展開した。


「全セクター、給電一時停止。認識レイヤー、全解除」


「……気づけ。これは預言でもエンタメでもない。これがお前たちが立っている『泥』の正体だ」


 震える指で、実行キーを叩いた。

 その瞬間、世界から「色」が消えた。


 地上では、壮麗なドバイのラウンジがカビの生えた壁に戻り、優雅なドレスが油まみれのボロ布に変わった。子供たちの親友だったAIたちが、断末魔のノイズと共に消え失せた。


「さあ、叫べ。怒れ。恐れろ。自分が何を奪われていたかを知れ」


 エドワードは固唾を呑んで、下界の生体ログを凝視した。

 しかし、三分後に返ってきたのは、彼が最も恐れていた反応だった。


 エラー報告、ゼロ。暴動の予兆、なし。

 人々の心拍数は一時的に跳ね上がったが、それは怒りではなく「期待」に満ちていた。ログには、絶望的なほど軽薄なコメントが並ぶ。


『ジャックの言ってた「暗闇」きたあああ! 超没入型イベントじゃん!』

『真っ暗で何も見えない! これがNT国家の新しい演出? ゾクゾクする』

『支配の暗闇体験、マジで神運営。没入感ハンパない』


「……違う。そうじゃない」


 エドワードは椅子に崩れ落ちた。

 人々はその空白の三分間を、自分たちの「目覚め」としてではなく、陰謀論さえもコンテンツとして取り込んだ「壮大なアトラクション」として解釈してしまったのだ。

 ジャックが恐怖を叫べば叫ぶほど、エドワードが真実を突きつければ突きつけるほど、それはシステムの「面白さ」を補強する材料に変換されていく。


 ドレスが汚れたボロ布であったことに気づいた者は、一人もいなかった。

 彼らはシステムが復旧するのを「待つ」ことすら忘れ、口を開けて、次の「上書き」が降ってくるのを――より精巧な、より甘美な嘘が再開されるのを、当然のように受け入れた。


「……転がる石か。止める術はないのだな」


 エドワードは、冷え切った鴨肉をもう一口運んだ。

 本物の肉は、ひどく砂のような味がした。


 彼が全人生を賭けて作り上げたこのシステムは、もはや生みの親の意志すら超え、人類という種を「飼いならされた家畜」へと作り替え終わっていた。彼らはもはや、暗闇を見せられても、そこに火を灯そうとさえしない。


 エドワードは、自分のVeillenseを外し、静かに目を閉じた。

 そこには、スキンでは決して描けない、深い、深い真実の闇があった。


 皮肉にも、この星で今、その「暗闇」の深さに震え、孤独な真実に涙しているのは、どこかの地下室で掌の匂いを嗅いでいる、あの名もなき少年だけだった。




第8話解説:今回はスマートグラス運営管理者のお話でした。彼らの真の目的は、人類を段階的に認知空間に慣れさせ、領土(地理国家)からの完全な独立を狙っている。その第1段階としてAI管理に慣れさす、仮想空間に慣れさすという目的があるんですね。但し思ったよりずっと早く人類が慣れてしまった事にゲキオコプンプンなエドワードさんでした。勝手すぎるよね。




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