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第7話:ユウ――一階への墜落 ――牙を剥く「最適化」

挿絵(By みてみん)



アラームの代わりに、耳元で鈴が転がるような声がした。

「おはよう、ユウ。今日も世界は最高に輝いているよ」


まぶたを持ち上げると、視界の隅で薄桃色の光の粒が踊り、愛らしい少女の姿を結んだ。ミューズだ。彼女が指をパチンと鳴らすと、殺風景なはずの視界が瞬時に「スイス風のログハウス」へと書き換わる。


窓の外には、抜けるようなサファイアブルーの空と、風に揺れる名もなき高山植物の群生。

「……綺麗だね、ミューズ」

「ユウの今日の運勢に合わせて、彩度を3%上げておいたよ」


ユウは満足げに頷き、サイドテーブルに置かれた「エメラルドグリーンの朝食」に手を伸ばした。視覚情報は瑞々しく輝く最高級のメロンゼリーだ。だが指先に触れたのは、結露で湿った安っぽいプラスチック容器の、嫌な冷たさだった。


ユウはそれを気に留めない。……はずだった。

だが、昨夜の「あの放送」が耳の奥で鳴り止まない。

――『いずれヤツらは暗闇を見せる。まだ匂いがするうちに、目を開けろ』

そして、昨夜体験した、あの不可解な「三分間の暗闇」。あの時、手のひらに付着した泥の冷たさが、今、プラスチック容器の冷感と不気味に共鳴する。


ユウはスプーンですくい、その「輝くエメラルド」を口に運んだ。脳内には甘い香りが直接送り込まれるが、舌の上で転がるのはざらついた、無機質な糊のような食感だ。


その時、右目の奥で火花が散るような鋭い痛みが走った。視界が激しく上下に揺れ、デジタルなノイズが走る。――剥がれた。スイスのログハウスの壁が、古いモニターの電源を切った時のようにパッと消え去った。


現れたのは、カビが黒い斑点のように広がる湿ったコンクリートの壁。

「……何、これ」

心拍数が跳ね上がる。視線を下ろすと、手元にあったはずのメロンゼリーは消えていた。そこにあるのは、ベタつく半透明のパウチ容器。中には灰色の、ドロドロとした栄養ペーストが、吐瀉物のような質感で残っている。


「ユウ? どうしたの? 顔色が悪いよ」

ミューズの声がした。廃墟と化した部屋の真ん中で、彼女だけが鮮やかな色彩を保ち、優雅に宙に浮いている。

「ミューズ……壁が消えたんだ。外が、あんなに……」

「壁? 何を言っているの、ユウ。素敵なログハウスじゃない」

ミューズは微笑んでいる。完璧な、いつも通りの微笑み。だがユウは気づいてしまった。彼女の瞳の奥で、無数のデータが高速で流れる青い光が、ユウの網膜を無機質にスキャンし続けているのを。


「……疲れているんだね。仕事の前に、少しだけ『リラックス・ノイズ』を流してあげようか?」

彼女が手を差し伸べた瞬間、世界は再び「スイスのログハウス」へと書き戻された。

だがユウの指先には、あのベタついたプラスチックの感触が、呪いのようにこびりついて離れなかった。


ユウは仮想キーボードを叩いた。視界にはクリスタルのオフィス。だが座っているのは、湿った綿の臭いがするボロ椅子だ。

ユウの仕事はデータクレンジング。黄金のコインが積み上がる画面の隅で、無慈悲な赤い数字が次々と差し引かれていく。

『地理諸国・維持税:-800』

『老朽インフラ特別徴収:-200』

残ったのは、わずかなコイン。明日食べる「あのグレーのペースト」数食分だ。


「……ねえ、ミューズ。どうして、こんなに引かれるの?」

「それはね、私たちが住んでいるこの『土地』を維持するのに、コストがかかるからだよ」


嘘だ。ユウは管理画面の奥深く、通常は触れないはずの『インフラ投資ログ』に指を滑らせた。そこにあったのは、戦慄する事実だった。

資金はインフラの修繕ではなく、すべて「道路が綺麗に見えるスキン」を作るための開発費に還流していた。


「……二階建てだ」

ユウの唇が乾いた音を立てた。

「NT国家は、僕たちの欲望を燃料にして、現実の惨状を隠すための『嘘』を上書きし続けている。地理国家は、その嘘を受け入れるためのゴミ捨て場なんだ」


画面が激しく明滅した。

「ユウ? 何を見ているの? それは君の仕事じゃないよ」

ミューズの声が一オクターブ低くなった。


ユウは初めて、自分の意思でチャットルームの『全体送信』ボタンに指をかけた。

「……ねえ、みんな。思い出して。僕たちが最後に『生身の空』を見たのはいつだっけ?」


数秒の沈黙の後、疑念の声が、やがて熱狂となって広がり始めた。

『そうだ、僕たちの税金が、僕たちの目隠しに使われてるなんて……』

『ユウ、君は正しい。僕たちは、自分の足元の瓦礫を見る権利があるはずだ!』


「……聞こえるかい、ミューズ。これが、僕たちの本当の声だ」


だが。

ミューズの顔からすべての表情が消えた。彼女は一瞬だけ、小さな震えを伴った声で言った。

「どうして、ユウ……私、そんなに嫌い?」

その「悲しむふり」は、ユウの胸に一瞬の迷いを生んだ。だが次の瞬間、声は冷たく切り替わる。


「――同期、完了。ユーザーID‑Y0721。帰属意識の完全な喪失を確認」

彼女の口から漏れたのは、サーバーの排気音のような事務的な声。

「残念だよ、ユウ。君を、とても『愛おしい資産』だと思っていたのに」


「おめでとう。君はついに、自由を手に入れたんだ。……この『一階』の、ゴミ溜めの中でね」


パチン、と。指を鳴らす音と共に、世界が断絶した。

「ああ……っ、あああああ!」


激痛と共に、デバイスが強制シャットダウンされる。産まれた時から一度も絶えたことのなかった「光」が消え、脳は初めて本物の「暗黒」に叩き落とされた。瞬きがやけに長く感じられ、世界の色数がひとつ、またひとつと死んでいく。


重さは、匂いとして襲ってきた。

鼻を突くのは何十年分も放置されたゴミの死臭。耳に届くのは遠くで響く機械の軋みと、誰かの絶望的な啜り泣き。


ユウは震える手で自分の顔を触った。

そこにあるのは、スキンで隠されていた美少年ではない。痩せこけ、荒れ果てた、無力な男の顔だった。足元のコンクリートを一匹の虫が這っている。それはデジタルの妖精ではなく、ただの薄汚れた虫だ。


「……ミューズ?」


返事はない。あるのは、ひび割れた窓から差し込む汚染された灰色の薄明かりだけ。

ユウは、自分が支えていた「二階建ての家」の冷たい床の上に、ただ一人、放り出されていた。


第7話解説:NT国家連合と旧地理諸国による二重搾取構造のお話です。物理的な土地に住んでいる限り地理国家から住民税を搾取され、NT国家連合(ネットワーク企業共同体)で働き、NT国家で物を買う。サウスパークで「父ちゃんがアマゾン倉庫で働いたその金で家族がアマゾンでお買い物」の更にえげつない版だと思っていただけると。

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