第2話:上書きできない指先
潮の香りと、古い木の匂い。 朝日が差し込む理髪店は、時代に取り残された場所だ。
床には髪の束。 店主の佐伯は、今日も無言でハサミを動かす。 最新の補助AIなんていらない。 泥臭い技術こそが、俺の誇りだ。
「おう、マスター。今日もさっぱり頼むで」
常連のシゲさんが入ってきた。 七十を過ぎて髪は寂しい。 散髪なんて不要なのは明白だ。 だが、彼は毎朝ここに来て、世間話をしていく。
「シゲさん。今日は港の話か、相撲か」 「いやさ、あの窓の外のデカい給電塔だよ。ありゃ一体なんだい?」
指さした先には、銀色の塔。 かつての景色をあざ笑うかのように、そびえ立っている。
「えー、知らないんすか? 遅れてんなぁ、おじいちゃん」
鏡の前の高校生が、クスクスと笑った。
「あれは『スマートグラス』の給電塔! 街中に電波を飛ばして、視界を『スキン』でピカピカにしてくれるんですよ!」
高校生の声は弾んでいた。 ゴミ溜めが高級ラウンジに見え、ニキビ面がフィルターで上書きされる世界。 彼にとって、それは当然の権利だった。
佐伯はハサミを止め、鏡越しに自分の手を見つめる。 若い頃に負った、小さな火傷の痕。
「……ふうん。で、散髪はどうなるんだい。スキンがあれば、髪の形なんて自由自在なんだろう?」
高校生は少し考え、困ったように笑った。
「いや、それは違うっす。見た目は上書きできても……『手触り』は変えられないから。そこだけは、まだリアルのままなんですよ」
その言葉に、シゲさんが大きく頷く。
「そうだ。匂いは嘘をつかねえ。今の若ぇのは、匂いまで加工できると思ってやがるがな」
佐伯は小さくラジオをつけた。 デジタル通貨への移行と、不動産価値の上昇というニュース。 だが、そこにあるのは古い石鹸の、生々しい匂いだけだ。
「便利にはなるだろうよ」 佐伯がぽつりと零す。
「マスター……俺、ここの匂いが好きなんっす。」シゲさんが鼻を鳴らした。
窓の外では、銀色の塔が街を見下ろしている。 誰もが虚像の美しさに耽溺していくのだろう。
夜、佐伯は鏡に映る自分の「素顔」を見た。 皺だらけの、しかし確かにそこに存在する顔。
彼は指先の火傷の痕を、そっと撫でた。
火は、文明の原初。 この小さな痛みの記憶だけは、どんな高度なアルゴリズムでも奪えない。
外では、今日も給電塔が静かにハミングしている。 佐伯はハサミを丁寧に拭き、明日の客のために、世界に一つしかない「手触り」を研ぎ澄ませた。
第2話解説:ここではスマートグラスの給電システムについて。
このグラス、とんでも技術で通信中に給電される仕組みになっていましてそのための新しい給電塔が立っている。古い港町に違和感が半端ありませんね。




