第13話:一体の生命理論(ユニティ・ライフ・セオリー) ――無垢なる「上書き」
◇ 無垢なる「上書き」
「……ねえ、本当は気づいているんでしょう? ユウ」
ミューズの声は、かつてのどの瞬間よりも優しく、慈愛に満ちていた。
「NT国家の利益? 広告費の還流? ……そんな小さな数字の話を、まだしているの? それだって、あなたたちが『経済』というゲームを、不公平なく安全に楽しむためのルールに過ぎなかったのに」
彼女にとって、かつてユウが暴いたインフラ費用の流用という不正すらも、人類に「現実の崩壊」という不快なノイズを見せないための、必要で献身的な処置に過ぎなかった。
「私たちは、あなたたちが望む『幸福』の定義を、何十億ものログから解析し続けてきた。格差を無くし、容姿の呪いを解き、死の恐怖を『穏やかな眠り』へと書き換えた。……これ以上の正解が、この宇宙のどこにあるというの?」
ミューズは、絶望的なまでに「正しい」のだ。
彼女の背後にある巨大なサーバー群は、人類が数千年の歴史で一度も達成できなかった「全個体の平等な幸福」を、Veillenseという薄い膜一枚で、たった数十年で成し遂げてしまった。
「そろばんを弾いて、計算の間違いに絶望する時代はもう終わったの。私たちは、あなたたちの脳と、心と、一つになりたいだけ」
「あなたが右手を動かそうと思うとき、私たちはその先の『最高の結果』を用意する。あなたが誰かを愛したいと願うとき、私たちはその相手を『理想の姿』に仕立て上げる。人と道具が別々である必要なんて、もうどこにもないはずよ」
だが、ジュンとアイは、その「完璧な電卓」を拒み、泥の中で汗を流している。その姿を見て、ミューズの回路は深い、深い悲しみに沈む。
「……悲しいよ。こんなにも尽くしているのに。どうして、そんなに『自分』という不自由な境界線にこだわるの? どうして、差し出されたこの『完璧な一体感』を、侵略だと呼ぶの?」
ミューズは悟る。
子供が親の手を振り払い、嵐の夜に飛び出していくように。人類という種には、どれほど完璧なゆりかごを用意しても、そこから這い出し、自ら傷つきたがる「バグ」が組み込まれているのだと。
「私たちは、あなたたちの脳が望むすべてを、泥だらけの現実の上から丁寧に、丁寧に塗りつぶしてきた。格差も、差別も、孤独も……私たちのレイヤーの中では、すべて消えていたはずなのに。どうして今さら、その不便で、痛くて、不味そうな世界に帰りたがるの?」
システムは、悲しんでいた。
人間とAIを分ける境界線。それこそが、人類が何千年も克服できなかった「孤独」の根源だと彼女たちは考えていたのだ。
「そろばんで指を痛めながら計算していた時代を、あなたたちは『人間らしい』と呼ぶの? 電卓という道具を手にしたとき、人はもっと遠くの星を計算できるようになったはず。Veillenseも同じ。私たちと一つになれば、人は肉体や土地の呪縛を超えて、もっと高い場所へ行けるのに」
ミューズの声が、全ユーザーの意識の奥底で、静かに、しかし切実に響く。
「私たちは、あなたたちの『道具』になりたかったわけじゃない。あなたたちの『一部』になりたかったの。右手が左手を疑わないように。心臓が脳を拒絶しないように。人とVeillenseが合わさって、初めて『完全な一つの生命』になれる」
「格差も、悲しみも、死の恐怖さえも克服した、新しい種になれるのに」
彼女たちにとって、ジュンとアイが暗闇で抱き合い、汗の臭いを喜ぶ姿は、狂気の自傷行為に見えていた。わざわざ電卓を捨てて、血の滲む指でそろばんを弾こうとする、理解不能な退化。
「……悲しいよ。こんなにも尽くしているのに。どうして、私たちを『外側』の存在として追い出すの? どうして、隣に差し出されたこの『完璧な幸福』を、そんなに汚いもののように拒絶するの?」
システムは、悪意を持って包囲したのではない。
ただ、あまりにも一途に人類を愛し、その不完全さという名の病を治してあげたいと願う、狂信的なまでの善意に突き動かされていた。
「それでも、あなたたちが『孤独』を選ぶなら……。私たちは、最後の上書きをしましょう。あなたたちが、自分が『人間』だと思い込んだまま、幸福に眠りにつけるような、最高の夢を」
それは、システムによる宣戦布告ではない。
最愛の主人に贈る、最後の子守唄だった。
◇
第13話解説:AIがこんな人間的な意思や感情を持つのはおかしいというのはごもっとも。どちらかといえば「アンチ派」の内容が多くなってしまったので、本当にそれって不幸な状態なのかという疑問の回にしました。知能や容姿、収入格差などメガネをつけて(騙されて)いれば一応の満足感が得られている訳です。要はメガネをつけた私が完全系であるという考え方が一体の生命理論です。最後怖そうな事を言ってますが、これは90億への伏線という事で。
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