羨望と嫉妬
「ここが、私たちの寮だよー!」
美月が勢いよく開けた扉の先。彩苑の女子寮のエントランスは、外壁のカラフルな壁画とは裏腹に、驚くほど静かで、整然としていた。
磨かれた床、整えられたロビーのソファ、そして淡いクリーム色の壁。 ところどころに彫刻や絵画が飾られているものの、基本的な構造や雰囲気は、白嶺の寮とそう大きくは変わらない。
「……あら。もっと混沌としているかと思ったけれど」
瑠璃が意外そうに呟くと、光莉も頷いた。
「はい……。外観があんな感じだったので、中はもっとペンキまみれなのかと」
二人の素直な感想を聞いて、後ろを歩いていた霧子が、鼻で笑った。
「そりゃそうさ。……アトリエで全てのエネルギーを吐き出した連中が、泥のように眠るためだけの場所だからね」
霧子は、絵具の染みた指先で気だるげに髪をかき上げた。
「制作に没頭している間は、アドレナリンが出っ放しだ。……ここは、その熱が冷めて動けなくなった抜け殻たちが、充電するためだけに帰ってくる場所さ。だから、静かなんだよ」
なるほど、と光莉は納得した。
ただの寝床でしかない、ということだ。
「さ、こっちこっち! 歓迎会用に談話室を借りてるんだ!」
美月の先導で、一行は廊下を歩き出した。
すれ違う寮生たちが、こちらに気づいて足を止める。その視線は、異物である白嶺の二人――ではなく、別の人物に吸い寄せられていた。
「……あ、藍染さんだ」
「……また、真白さんと一緒か」
ひそひそと交わされる囁き声。光莉の耳には、そこに乗った感情が二種類の異なる「ノイズ」となって飛び込んできた。
一つは、ねっとりと熱を帯びた、創作の渇望。『あの姿、たまらない』『あの肌の質感、描いてみたい』 純粋な素材としての美しさに魅入られた、作り手たちの溜息。
そしてもう一つは――鼓膜を刺すような、鋭く冷たい棘の音。 『いいよな、持ってるヤツは』『私だって、あんな顔に生まれていれば』 自分自身の身体や演技で勝負する者たちが抱く、圧倒的な才能への敗北感と、焦がれるような妬み。
それら全ての視線が、藍染恵夢一人に注がれている。
(……すごい)
光莉は、改めて恵夢の姿を目で追った。
ただ歩いているだけなのに、そこだけ重力が違うかのような存在感。 色素の薄い、透き通るような金色のロングヘアが、歩くたびにサラサラと背中で揺れている。 その顔立ちは、精巧に作られたビスクドールのように整いすぎていて、同じ人間とは思えないほどだ。長い睫毛に縁取られた瞳、形の良い鼻梁、そして陶器のような白い肌。
神様が最初から「見られること」を前提に設計した、完璧な芸術品。
(そういえば……)
光莉の脳裏に、以前聞いた情報が蘇る。 生徒会選挙のライバルについて話していたとき、彼女の名前は真っ先に挙がっていた。
――『藍染恵夢。彩苑芸術学院の特待生にして、現役のトップモデル』
雑誌の表紙を飾り、CMにも出る有名人。 その美しさだけで、世界を渡っていけるはずの彼女。
それなのに。
「……霧子様。靴紐、ほどけてしまっていますよ」
恵夢は、周囲から向けられる羨望や嫉妬の視線など存在しないかのように無視し、ただ隣を歩く霧子だけを気遣っていた。 だらしない格好で歩く霧子の半歩後ろを、従順な影のように付き従う。
冷静に見れば、それは奇妙な光景だった。 誰もが憧れる「高嶺の花」が、絵具にまみれた画家の「所有物」として振る舞っているのだから。
(……どうしてなんだろう)
光莉は、胸の奥に小さな疑問符を浮かべた。
これほどの美貌とスタイルを持ち、誰もが羨む存在である彼女が。 なぜ、自分が主役になるのではなく、霧子の後ろに控えているのか。
その完璧な横顔からは、感情の音が聞こえてこない。 ただ、霧子に向けられた時だけ、微かに熱を帯びた「依存」の音が響く。
「……光莉ちゃん、こっちだよ!」
美月の声で、光莉はハッと我に返った。
「あ、はい!」
疑問を飲み込み、光莉は美月の後を追った。




