光莉のレンズ
光莉の手と視線が紙の上を滑る、カサ、カサという乾いた音だけが、光莉の耳に心地よく響いていた。
恵夢の静かな助言に従い、光莉は目の前の「形」ではなく、そこにある「空気」をなぞるように手を動かした。 上手く描こうという欲を捨て、ただレンズのピントを合わせるように。
しばらくして。 真っ白だった画面に、おぼろげながら一つの顔が浮かび上がってきた。
「……ふふ」
背後で様子を見ていた恵夢が、小さく笑みをこぼした。
「……変、ですか?」
光莉が不安げに尋ねると、恵夢は首を横に振った。
「いいえ。……面白いな、と思って」
恵夢は、実物の瑠璃と、キャンバスの中の瑠璃を見比べた。
「私の目には、あの方はもっと鋭く、冷たく、研ぎ澄まされた刃物のように映ります。……けれど、貴女の絵の中のあの方は、こんなにも柔らかい」
恵夢は、キャンバスの上の「優しい瑠璃」に指先を伸ばしかけ、止めた。
「対象は同じなのに、見る人が違うだけで、世界はこうも変わるのですね」
それは、自分を「空虚」だと定義する恵夢にとって、新鮮な驚きだった。
他者の視線というフィルターを通すことで、世界には違う色が乗る。
その時だった。
「――なかなか、いいじゃん」
不意に、背後からハスキーな声が掛かった。
「ひゃっ!?」
光莉が驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか一人の少女が立っていた。
真白霧子。 以前会った時と同じく、サイズの合わないブカブカのブレザーを羽織り、その裾も袖も絵具で汚れている。 ボサボサの髪の隙間から覗くオッドアイが、楽しげに細められていた。
「き、霧子さん……?」
「やあ。遅れてごめんね」
霧子は悪びれる様子もなく片手を挙げると、興味深そうに光莉のキャンバスを覗き込んだ。
「へえ……。なるほどね」
霧子は、キャンバスの中の絵と、モデルの瑠璃を交互に見る。 値踏みするような鋭い視線に、光莉は心臓が縮み上がる思いがした。下手だと言われるだろうか。似ていないと笑われるだろうか。
けれど、霧子は楽しそうに笑った。。
「……おもしろい。君の『目』から見た西園寺瑠璃なんだね」
「え……」
「絵画にとって一番つまらないのは『上手いこと』さ。写真みたいに正確な模写なんて、機械にやらせておけばいい」
霧子は、汚れた指先で、キャンバスの上の「柔らかい輪郭」をなぞった。
「重要なのは『どう見えているか』だ。……君には、彼女がこんな風に、愛おしい生き物に見えているんだね」
「い、いえ、その……!」
図星を突かれ、光莉が顔を赤くして狼狽えると、霧子はケラケラと笑った。
「いい線いってるよ。その調子で続けな」
言うが早いか、霧子は隣に控えていた恵夢の手を、掴んだ。
「さ、行こうか恵夢。僕たちも始めるよ」
「……はい、霧子様」
霧子は強引に恵夢の手を引き、アトリエの奥、一番広いスペースへと歩き出した。




