私だけの姿
彩苑芸術学院のチャイムは、どこか気の抜けた電子音だった。
午前中のカリキュラムは「座学」。しかし、それは光莉が想像していた退屈な暗記の時間とはまるで違っていた。
「赤はただの赤じゃねえ。血の色、太陽の色、警告の色。……見る人間の脈拍を上げる波長だ」
教壇に立つ講師――ボサボサ頭の男性――は、黒板に色の持つ心理的効果や、顔料の歴史的背景を熱っぽく語っていた。 美術解剖学、色彩心理学、現代アートの文脈。 普段の白嶺の授業では決して触れることのない知識のばかりだった。
(……おもしろい)
光莉はノートを取る手も忘れ、聞き入っていた。 ただ「綺麗」と感じていたものに、論理的な裏付けがあること。感情を形にするための「技術」があること。
絵、見えるもの。音、聞こえるもの。その違いはあっても、言葉のないものを言葉にして説明してくということ。それは厄介な耳を持つ光莉にとって、新しい言語を手に入れたような新鮮な感覚だった。
*
「おーい! ランチ行こっか!」
昼休み。美月が手招きし、恵夢と共に食堂へと案内してくれた。
4人で日替わり定食を頼むと、カウンターに出てきたのは生姜焼き定食だった。
「……意外と、普通ね」
テーブルについた瑠璃が拍子抜けしたように呟くと、美月が笑いながら箸を割った。
「あはは、うちは調理師学校じゃないし、食事まで独創的なわけじゃないよ! でもさ、腹が減っては戦ができぬって言うし? 食事は栄養バランス完璧。そうじゃないと長い時間集中して制作できないからね!」
「なるほど。理に適っているわ」
一口食べた瑠璃が、「美味しい」と目を細める。
「……あの」
静かに食事を進めていた恵夢が、ふと顔を上げた。
「白嶺は、どんなところなのでしょうか」
来週は恵夢と霧子が白嶺にやってくることになっている。
その問いには、来週自分たちが白嶺へ行くことへの、微かな不安が滲んでいた。
「ここと比べると……ルールが多いわね」
瑠璃が苦笑して答える。
「廊下を走ってはいけない、制服を着崩してはいけない。……真白さんのような自由な方が馴染めるかは、正直、未知数だわ」
「……そうですか」
恵夢は視線を落とし、何かを考えるように自身の白磁のような指先を見つめた。
「なるほど……霧子様をしっかり制御しなければ、ですね」
それは義務感というより、自身の存在意義を確かめるような呟きだった。
*
そして、午後の実技。 アトリエに戻った四人を待っていたのは、真新しいキャンバスと油絵具の匂いだった。
「午後はお待ちかねの制作だよ!」
美月が作業用のエプロンを着けながら光莉たちに宣言する。
周りの生徒たちは慣れた手つきで準備を始めるが、光莉と瑠璃は立ち尽くしていた。
「……困ったわね。絵なんて、美術の授業でたまにするくらいで」
瑠璃が困惑気味に周囲を見つめる。何をどう描けばいいのか。自由すぎる課題は、逆に不自由だ。
すると、美月がキャンバスをイーゼルにセットしながら、パチンと指を鳴らした。
「じゃあさ、瑠璃ちゃん。モデルやってよ!」
「……わたくしが?」
「うん! アタシ、初めてみたときから瑠璃ちゃんのこと描いてみたかったんだよね! 立ってるだけで絵になるし!」
美月の瞳が、熱を帯びて輝く。
瑠璃は一瞬驚いたが、すぐにふっと口元を緩め、優雅に髪をかき上げた。
「……いいわ。あまりこういうのは慣れていないけれど」
瑠璃は教壇の前の椅子に座ると、足を組み、視線を美月に向けた。 慣れていない、といったその姿はただ座っているだけなのに、アトリエの空気を一変させるほどのオーラがあった。
「よーし。燃えてきた」
美月が筆を構え、描き始める。 近くの生徒も何人か、便乗するように瑠璃を囲み始めた。
取り残されたのは、光莉だった。
(……私は、どうしよう)
絵心なんてない。モデルになる度胸もない。
おろおろと立ち尽くしていると、袖をくいくいと引かれた。
「……」
振り返ると、藍染恵夢が立っていた。 彼女は無言で、鉛筆を差し出してきた。
「……描かないのですか?」
「え、あ……私は、絵なんて下手ですし……」
「上手いか下手かではありません」
恵夢は、静かな瞳で椅子に座る瑠璃を見つめた。
「貴女は、あの方のパートナーなのでしょう?」
「……はい」
「なら、貴女にしか見えない『側面』があるはずです」
恵夢は、そっと光莉の背中を押して、空いているイーゼルの前へと誘導した。
「私は普段、描かれる側の人間です。……だから、わかります。視線には『温度』があるということが」
恵夢は、自分の胸に手を当てた。
「霧子様の視線は、熱くて、私を焦がします。……美月様の視線は、楽しくて、明るい」
そして、恵夢は光莉の瞳を覗き込んだ。
「貴女があの方に向ける視線は……とても、温かい。その温度で描けばいいのです。基本的な技術は、私が教えますから」
「私の、温度……」
光莉は、瑠璃を見た。 たくさんの視線を浴びて、堂々と振る舞う「白嶺の宝石」。
けれど、光莉の耳には聞こえていた。 完璧なポーズの裏で、少しだけ緊張している心臓の音。 時折向く、こちらを気遣う優しい視線。
(……そうだ。先輩は、ただ綺麗なだけじゃない)
もっと人間臭くて、温かくて、脆くて、愛おしい。
「……やってみます」
光莉は、恵夢から鉛筆を受け取った。
作業台に座ると、眼の前の真っ白なキャンバスが、怖くもあり、魅力的にも見える。
「……まずは、輪郭ではなく、空気を捉えるつもりで」
恵夢の静かなアドバイスに従い、光莉は震える手を走らせはじめた。




