ティータイム
別棟の廊下は、やはり静まり返っていた。
光莉は、自分の心臓が刻む速い鼓動を深呼吸で落ち着かせ、重厚な扉の前に立つ。
コン、コン。
ノックの音は、乾いて響いた。
「どうぞ」
中から返ってきた声は、やはり「氷」のように冷たく、透き通っていた。
光莉は意を決してドアを開ける。
「……失礼します」
部屋の中央、デスクで一人タブレットを操作していた和泉純が、顔を上げた。
その切れ長の瞳が、光莉の姿を捉え、わずかに見開かれる。
部屋に、西園寺瑠璃の姿はない。それだけで室内は驚くほど呼吸がしやすい。
「……小林さん」
純は、意外な来訪者に驚きつつも、タブレットを置いた。
「あなたの方からここに来るなんて思わなかった」
「あ、あの……西園寺先輩は……」
「瑠璃? 彼女なら、今日は来ていないわよ。統合生徒会の方で仕事があるから」
その答えに、光莉は張り詰めていた肩の力を、無意識に抜いてしまった。 そのわずかな弛緩を、純の氷のような瞳は見逃さなかった。
(……なるほど。瑠璃がいるなら帰るつもりだった、という顔ね)
純の口元が、ほんのかすかに緩んだ。
「……それで、なんの御用かしら。まさか、世間話をしに来たわけではないでしょう?」
純が静かに問う。光莉は口ごもった。
勢いで来てしまったけれど、何と言えばいい。
「先輩のトラウマを教えてください」なんて、あまりにも無神経だ。
言葉に詰まり、立ち尽くす光莉を見て、純はふぅ、と小さく息をついた。
「……せっかく来ていただいたのに、この距離感での会話は尋問みたいで良くないわね」
純は無言で席を立つと、部屋の隅にある給湯セットへと向かった。
カチャリ、と陶器が触れ合う音が、静かな部屋に心地よく響く。その手際は、無駄がなく洗練されていた。お湯が注がれる音さえも、一定のリズムを刻んでいる。
光莉は、その規則正しい音を聞いているうちに、ささくれ立っていた神経が少しずつ鎮められていくのを感じた。
「そこに、座っていて」
純が示したのは、部屋の隅にあるソファセットだ。
光莉がおそるおそる腰掛けると、すぐに湯気の立つティーカップが置かれた。アールグレイの清涼な香り。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
純も対面のソファに深く腰掛け、優雅にカップを口に運ぶ。一口、紅茶を含む。その所作だけで、場の空気が「対話」のモードへと切り替わった。この人は、場の空気をチューニングする術を心得ている。
「……さて」
カップを置き、純の氷のような瞳が、光莉を射抜いた。
そこには以前のような威圧感はない。だが、放たれた言葉は鋭く、シンプルだった。
「あなたは瑠璃のこと、どう思ってる?」
その問いは、あまりにも唐突で、そして光莉が一番触れたかった核心だった。
光莉はカップを両手で包み込み、その温かさを指先に感じながら、慎重に言葉を選んだ。
「……先輩は、すごいです。綺麗で、完璧で」
口に出してみるが、その言葉は上滑りする。
光莉は、首を振った。違う。私が感じている音は、そうじゃない。
「……でも、近くにいると苦しそうな音がするんです」
「音?」
純が片眉を上げる。光莉は頷いた。
「……誰かに助けを求めているのに、誰もそれに気づいていない。自分でも気づかないふりをして、必死で叫ぶのを我慢しているような……そんな、ギリギリの音がします」
光莉は、純の目を真っ直ぐに見た。
「私は、その音が怖いです。巻き込まれたら、私も潰れそうで。……でも、知りたいとも思いました。どうして、あんなに苦しい音がするのか」
静寂が落ちた。変なことを言ってしまった。そんな自覚はある。光莉はカップの水面に映る自分の顔を見つめた。純は、しばらく無言で光莉を見つめていたが、やがて、もう一度紅茶を口に含み、深く、満足げな息を吐いた。
「……そういうことか」
「え?」
「あなたのその感覚、正しいわ。小林さん。瑠璃の『直感』は、やはり間違っていなかった」
純は、どこか遠くを見るような目をした。
「あの子の悲鳴が聞こえるのは、今のこの学園で、おそらく私と……あなただけよ」




