side:ねね_密談
深夜の女子寮、3年生用の大浴場。
ガラリ、と浴室の重い扉を開けると、そこは濃い白い湯気に包まれていた。
「……あら」
ざっと見渡した限り、洗い場にも浴槽にも人影はない。
どうやら、今夜は貸し切りのようだ。
「ふふっ、いいわね。誰にも邪魔されない時間……」
私はタオルを手に取ると、優雅な足取りで洗い場へ向かった。
カラン、と桶を置く音が、静寂の中に心地よく響く。
シャワーを浴びながら、私は自然と口元が緩むのを止められなかった。
一人の空間。誰の目も気にする必要がない場所。そうなると、どうしても身体の奥底の「熱」が、独り言となって漏れ出してしまう。
「……ん~、奏ちゃん……♪」
私はボディスポンジを泡立てながら、愛しい名前を唇に乗せた。
誰もいないからこそ、いつもは我慢している言葉が漏れてしまう。
「あんな涼しい顔して、『風邪をうつしても構いませんね』だなんて……。生意気なんだから」
思い出すだけで、指先まで痺れるような甘い感覚が蘇る。あの時、私を見つめていた熱っぽい瞳。 いつもは私が主導権を握っていたはずなのに、あの瞬間だけは完全に奪われていた。
「もう……大好き」
私は自分の頬をペチペチと軽く叩いた。
「私、もうあの子以外いらないかも。……一生、私のそばで可愛がってあげる。覚悟しなさいよ、私の可愛いパートナー……ふふふっ」
完全に惚れこんでしまっている、でもそんな自分も嫌いじゃない。
鏡に映る自分の顔は、いつもの「周囲に見せる九条ねね」ではなく、恋の熱に浮かされてとろけきった、ただの幸せな少女の顔だった。
「よしっ、明日もたっぷり愛でてあげましょうね~♪」
泡を流し終え、私は上機嫌で鼻歌を口ずさみながら、大きな浴槽へと向かった。湯気が濃い。視界が白い。この幸せな気分のまま、お湯に溶けてしまおう。そう思って、勢いよくお湯に足を入れ、ふと顔を上げた――その時だった。
湯煙の向こう。
死角になっていた浴槽の奥に、彫像のように静かに座っている人影があった。
「…………」
西園寺瑠璃だ。少し口を開けたまま、ぽかんとした顔でこちらを見ていた。いつもの「宝石」の威厳はどこへやら。「見てはいけないものを見てしまった」という、完全なるフリーズ状態だ。
思考が停止する。
え、いたの? 湯気で見えなかっただけ? ……待って。
今の、全部聞かれた?
「……き、こえてた?」
私が引きつった笑顔で恐る恐る尋ねると。
瑠璃は、瞬きもせず、魂が抜けたような顔でゆっくりと、コクリと頷いた。
「――ッ!!」
私は音を立てて、お湯の中に沈没した。
鼻の下までお湯に浸かり、盛大に泡を吹く。
お湯の中で、私は茹でダコのように真っ赤になった。
終わった。完全に終わった。よりにもよって、西園寺瑠璃に聞かれてしまうなんて。
ブクブクと泡を吐いていると、チャプン、と穏やかな水音が近づいてきた。
瑠璃が、私の目の前まで移動してくる。見下ろされる屈辱と恥ずかしさで、私が睨み上げると、彼女は意外なことに、ふわりと穏やかに微笑んだ。
「……九条さん」
嘲笑でも、憐れみでもない。とても柔らかい笑顔だった。
彼女の手が伸びてくる。その手は私の手を、お湯の中でそっと握りしめた。
「え……?」
私が顔を出すと、瑠璃は落ち着いた声で言った。
「光莉から、聞いたわ。……あなたと常盤さんのこと」
「……っ」
奏ちゃん!?
筒抜けだった。奏ちゃんが光莉ちゃんに話し、それが瑠璃に共有されている。
私はバツが悪くて視線を逸らしたが、瑠璃は私の手を離さなかった。
「おめでとう。……それと、お礼を言わせて」
「お礼……?」
「ええ。……あなたたちが前に進んでくれたおかげで、わたくしたちも……その、やっと一歩踏み出すことができたから」
瑠璃の頬が、湯気の熱さ以上にポッと朱に染まる。
その蕩けるような目元を見て、私は瞬時に悟った。
ああ、この子も。さっきの私と同じ、どうしようもなく「浮かれた顔」をしている。
「……なーんだ。あなたたちも、そうだったんだ」
私がニヤリと笑って尋ねると、瑠璃は照れくさそうに、でも幸せそうに「ええ」と頷いた。
なんだか、急に力が抜けてしまった。恥ずかしさも、ライバル心も、お湯に溶けて消えていく。
残ったのは、同じ境遇の同志としての、気の抜けた親近感だけ。
「……はぁ。お互い、因果なものねぇ」
私は苦笑しながら、お湯から肩を出した。
二人して肩を並べ、お湯に浸かる。
「まさか、自分たちの後輩に……ここまで惚れ込んで、骨抜きにされちゃうなんてね」
「ふふ、本当ね。……完全に計算外だわ」
瑠璃もクスクスと笑った。そこには、いつもの選挙のピリピリした空気も、マウントの取り合いもなかった。ただ、恋に落ちて幸福に満たされた二人の少女が、顔を見合わせて笑っているだけ。
「……ねえ、西園寺さん」
「なぁに?」
「今度、また四人で出かけましょうよ。……今度は正真正銘、ダブルデートってやつ」
私が提案すると、瑠璃は目を輝かせて頷いた。
「ええ、いいわね。……楽しみにしてるわ」
私たちは、濡れた手と手を、お湯の中で握り合った。じわりと伝わる熱。
湯気の中で交わした視線は、これまでのとは違う甘いものだった。




