終わる夏、始まりの庭
昨夜の衝撃は、一夜明けても光莉の頭から離れなかった。
『私たちは今日から先輩後輩であり、恋人です』
大浴場の湯気の中で、真っ直ぐな瞳でそう言った奏の顔。あの奏が、九条先輩と「付き合っている」と明言したのだ。もうすぐ夏休みが終わり、新学期が始まる。そうすればまた、あの二人と一緒に過ごす日常が戻ってくる。
(……正面から見れるのかな、私)
光莉はベッドの上で膝を抱えた。今までなら「仲がいいな」で済ませていた光景。 けれど、その裏に「恋人」という明確な定義があることを知ってしまった今、二人の触れ合いを直視した時、自分の心にどんなモヤモヤが渦巻くのか想像がつかない。
羨ましいのか。焦りなのか。
それとも、自分たちの「名前のない関係」への苛立ちなのか。
枕元のスマホが震えた。
画面には『西園寺瑠璃』の文字。
『今日、時間は空いているかしら? 夏休みも最後ですし、少し一緒に出掛けない?』
短く、用件だけのメッセージ。けれど、その文面を作るのに何度も書き直したような「迷い」が、文字から滲み出ているような気がした光莉は迷わず返信を打った。
『はい。行きます』
断る理由なんて、どこにもなかった。
*
午後。商業エリアにあるオープンテラスのカフェ。
アイスティーのグラスについた水滴が、夏の日差しを受けてキラキラと光っている。
「ふぅ。暑いわね」
向かいに座る瑠璃が、ハンカチで首筋を押さえた。今日の瑠璃は、いつもの制服ではなく、淡いブルーのワンピース姿だった。清楚で、涼しげで、道ゆく人が思わず振り返るほど美しい。
けれど、光莉の耳には、彼女の内心の動揺が手に取るように伝わってきていた。
「……いろいろあったわね、この夏は」
瑠璃がストローを回しながら、ポツリと言った。
「ええ。……本当に」
「九条さんのお家への旅行に、合同生徒会の試験。……それに、みんなでパーティもしたし」
瑠璃が楽しげに振り返る。二人で乗り越えてきた日々の記憶。
けれど、「パーティ」という単語が出た瞬間、二人の間に流れる空気がピタリと止まった。
あの夜。停電。密室。
触れ合う寸前だった唇と、熱帯夜の湿度。
「あ、その……」
瑠璃の視線が泳ぎ、耳まで赤く染まる。
光莉もまた、アイスティーを持つ手が震えた。沈黙が場を支配する。
気まずい。でも、この気まずさは決して嫌なものではない。ただ、このままでは何も進まない。
(……このままで、いいの?)
光莉は自問した。奏ちゃんたちは進んだ。
じゃあ、私たちは?
音で「何となく通じ合っている」という甘えに逃げて、肝心なことから目を逸らし続けていいの?
――ダメだ。
光莉の中で、カチリと何かのスイッチが入った。
「……先輩」
光莉はグラスを置いた。
「行きたいところがあるんです。……付き合ってもらえませんか?」
*
光莉が瑠璃を連れてきたのは、島の中央にある庭園だった。夏休み中ということもあり、生徒の姿は一人もない。 傾きかけた太陽が、丸く剪定された木々や、レンガを黄金色に染めている。
「……ここは」
瑠璃が、懐かしそうに目を細めた。
4月。入学したばかりの頃。まだ何も知らなかった光莉と、瑠璃が、初めて言葉を交わした場所。
「もうすぐ、夏も終わりね」
瑠璃が、空を見上げて呟く。
「秋になれば、本格的な選挙戦が始まる」
瑠璃はそう言って、前と同じベンチに腰を下ろした。
光莉もその隣に座る。初めて会った時と同じ配置。けれど、あの時とは距離が違う。
肩が触れそうなほどの距離。
「……思い出しますね」
光莉は、足元のレンガを見つめながら言った。
「ここで先輩に会って、ペアの契約を持ちかけられて。……最初は、なんて強引な人だろうって思いました」
「ふふ、そうね。……あの時のわたくしは、必死だったから」
瑠璃が自嘲気味に笑う。静寂。風が止まり、鳥の声も聞こえない。
世界に二人きり取り残されたような空間で、光莉の耳には、二つの音だけが響いていた。
ドクン、ドクン。
自分の心臓が、痛いほど肋骨を叩いている音。
そして隣から聞こえる、瑠璃の心の音。 それはかつての「音」ではなく、期待と不安と、どうしようもない熱量を帯びた、張り詰めた高音だった。
(……聞こえてる。全部、聞こえてるよ、先輩)
言葉にしなくてもわかる。先輩が私を必要としてくれていることも。
私に対して、特別な感情を抱いてくれていることも。
でも、それじゃダメなんだ。「音」じゃなくて、「言葉」が欲しい。
「……先輩」
光莉は顔を上げた。夕日に照らされた瑠璃の横顔を見つめる。
瑠璃もまた、吸い寄せられるように光莉の方を向いた。
視線が絡む。瑠璃の瞳に、光莉の姿が映っている。その瞳が、不安げに揺れた。
「……なに?」
光莉は、膝の上で拳を握りしめ、勇気を振り絞った。
ここで聞かなきゃ、ずっと、ペアの2人のままだ。
そんなのは嫌だ。私は、あなたの――。
「……ここで、聞きたかったんです」
光莉の声は震えていたが、その瞳は逃げなかった。
「先輩は……私のこと、好きなんですか?」
直球の問いかけ。
――ピタリ。
瑠璃から発せられていた音が、一瞬だけ止まった。
時が凍りつく。黄金色の西日が、二人を長く、濃い影の中に閉じ込めた。




