知りたいこと
日曜日の一件以来、光莉のまとう空気は鉛のように重くなっていた。
瑠璃からの接触は、ぱったりと途絶えた。廊下ですれ違っても、彼女は完璧な「宝石」の顔をして、光莉に目もくれず通り過ぎていく。そこには、以前のような「張り詰めた音」もない。
ただ、完全に遮断された壁があるだけ。
(……これで、よかったんだ)
(私が「邪魔」をしなくなったから、あの人は完璧な世界に戻れた)
(私の日常にも、静けさが戻ってきた)
なのに。
光莉の耳は、その静けさを「空虚」だと感じていた。あの痛々しいほどの高周波が聞こえないことが、こんなにも不安だなんて。
ある日の午後。授業でグループ作業が課された。
「席が近い人同士でペアを組んで」
教師の指示に、光莉は顔を上げた。隣の席には、長く重い黒髪の少女が静かに座っている。
初日に会釈を交わして以来、会話らしい会話をしたことのない相手。
(……どうしよう)
光莉が迷っていると、向こうから口を開いた。
「よろしく」
短く、簡潔な言葉。けれど、その声色は驚くほど澄んでいた。智香の明るさとは違う。深い森の奥にある湖のような、静かな音。そこには、周囲の生徒たちが放つ「好奇心」や「嫉妬」といったノイズが一切混じっていない。
「私は、常盤奏」
「あ……よろしく、お願いします。私、小林光莉、です」
光莉が返すと、奏は切れ長の瞳をわずかに細めた。
「知ってる。あなたは、有名だもの」
光莉は身構えた。また、詮索が始まるのかと。
だが、奏は淡々と手元の資料を整理しながら続けた。
「いろいろ、あったみたいだけど」
その言葉は、単なる事実の確認であり、余計な色はなかった。
光莉は、ふっと肩の力を抜いた。この人の音は澄んでいる。
二人は淡々と作業を進めた。
奏は無駄口を叩かない。だが、光莉が言葉に詰まった時、絶妙なタイミングで助け舟を出してくれる。
(……やりやすい)
波長が合う、というやつだろうか。心地よい静寂を共有できる相手。
作業が一段落した時、奏がふと、その静寂を破った。
「……小林さんは、ペアのこと、どう考えているの」
これまで散々投げられてきた単純な疑問。シンプルな問い。
だが、そこにはこれまでにあった荒々しさはない。
光莉が答えあぐねていると、奏は自分の手元を見つめたまま言った。
「……私、三年生の先輩から、ペアの打診を受けているの」
「え……?」
「その先輩は、今年の選挙に『すべてをかける』と言っている」
奏は顔を上げ、光莉の目を静かに見つめた。
「……あの人、西園寺瑠璃も、あなたも、そうなのでしょう?」
シン、と二人の間に音が落ちた。
あなたも、相手の「本気」と向き合っているのでしょう、と。
光莉は、思わず視線を逸らした。
「わ、私は……」
違う。私は、向き合っていない。逃げたんだ。
あの人の悲鳴のような音を聞いておきながら、それが重すぎて、耳を塞いだ。
「……私なんかじゃ、先輩の……邪魔に、なってしまうと思ってて」
光莉は、日曜日の拒絶を思い出しながら、消え入りそうな声で答えた。
私の存在はノイズだ。完璧な旋律を乱す、異物だ。
それを聞いた奏は、初めて少しだけ意外そうに目を瞬かせた。
「……そう」
彼女は何かを納得したように頷く。
「……邪魔に、ね」
奏は、その言葉をゆっくりと反芻してから、不思議そうに首を傾げた。
「……でも、西園寺先輩は、どうして、あなたを選んだのかしらね」
光莉は、その純粋な問いを聞いてハッとした。
なぜ「邪魔になる」と恐れるような自分を、あの完璧な先輩が必要としたのか。
光莉は、何も答えられなかった。それが、光莉自身が一番知りたいことだったからだ。
「――はい、そこまで」
教師の声で、会話は途切れた。
「……ありがとう。有意義だったわ」
奏は静かに席を立ち、去っていった。
その背中を見送りながら、光莉の胸には、奏が残した問いかけが、波紋のように広がり続けていた。
*
放課後。寮に戻る道すがら、光莉の頭の中では、奏の言葉と、日曜日の瑠璃の拒絶がリフレインしていた。
――『どうして、あなたを選んだのかしらね』
――『完璧でなければ、誰もついてこないでしょう?』
(……聞いても、答えてくれなかった)
光莉は立ち止まる。 瑠璃に直接聞いても、彼女は「完璧」という鎧で防御してしまう。
私が近づけば近づくほど、彼女は頑なになり、本当の音を隠してしまう。これでは、永遠に平行線だ。
(でも、わからないまま終わるのは、嫌だ)
一度聞き取ってしまった「悲鳴」のような感情。
それに触れた今、「何も聞こえないふり」をして安寧に逃げ込むことは、ひどく不誠実なことに思えた。
(知りたい。あの人の、ノイズの原因を。なぜ、あんなに苦しそうに完璧を演じているのか。そして、なぜ私なのか)
本人に聞けないなら、どうすればいい?
光莉の脳裏に、一人の人物が浮かんだ。
執行委員会室にいる。
瑠璃の「元ライバル」であり、彼女の弱さを誰よりも知っている人。あの、氷のような瞳。
(……和泉、委員長)
あの人なら。瑠璃を読み解く鍵を持っているかもしれない。
光莉は、寮への道を外れ、くるりと踵を返した。
向かう先は、別棟。あの「執行委員会室」。
(……怖いけど)
心臓がうるさく鳴っている。
面倒事に自ら首を突っ込むなんてらしくない。でも、このまま「ノイズの正体」を知らないまま、後悔するよりはマシだ。
光莉は、夕暮れの廊下を早足で歩き出した。
今度は、誰に強制されたわけでもない。自分自身の「知りたい」という感情の音が頭の中で鳴りやまなかったのだった。




