side:奏_共犯者
自室に戻ったのは、消灯時間を少し回る前のことだった。
熱はすっかり下がり、体調は万全に戻っている。けれど、思考の整理だけは、まったく追いついていなかった。
「……恋人」
誰もいない部屋で、その単語を口に出してみる。途端に、背筋がゾクリと粟立った。
恐怖ではない。甘く、くすぐったい、未体験の感覚。
ふと、自分の唇に指を這わせる。そこにはまだ、ねね先輩の体温と、あの強引で優しいキスの感触が焼き付いている気がした。身体にも、あの甘い香水と、彼女特有の匂いが染み込んでいるようだ。
(……あの人の横で、明日から平常心でいられるのでしょうか)
私はベッドに腰掛け、深くため息をついた。
これまでは「先輩と後輩」という明確な境界線があった。だからこそ、どんな過剰なスキンシップも「先輩の気まぐれ」として処理できていた。
だが、これからは違う。触れ合うすべてに「愛」という意味が付与される。
(……いや、あの人のことだから、態度は変わらないでしょうね)
人前では涼しい顔をして、裏ではさらに濃厚に絡んでくるに違いない。そう予測した瞬間、顔が熱くなるのがわかった。考えるだけで体温が上がる。これでは解熱した意味がない。
「……お風呂、行こう」
このじっとりとした汗と、思考の熱を洗い流さなければ。
私は着替えとタオルを手に取り、部屋を出た。
*
寮の大浴場は静かだった。消灯時間が近いためか、脱衣所のカゴはがらんどう。浴室のドアを開けると、白い湯気が視界を覆い、微かな水音だけが響いている。
体を洗い終え、湯船へと向かう。湯船の端、湯気で霞む視界の先に、一人の先客がいた。
小林光莉さんだ。彼女は頭にタオルを乗せ、お湯に肩まで浸かってぼんやりと天井を見上げていた。
「……こんばんは」
私が声をかけると、光莉さんはビクリとして振り返った。
「あ、奏ちゃん! こんばんは。……体調、もういいの?」
「はい。おかげさまで」
私は彼女の隣、少し距離を空けた位置に身体を沈めた。
ちゃぷん、と静かな水音が立つ。適温のお湯が肌を包み込み、強張っていた筋肉が解れていくのを感じる。
「よかったぁ。今日はあれから姿を見なかったから心配してたんだ。……祝勝会の片付け、全部終わったから気にしないでね」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
他愛のない会話。湯気の中で、光莉さんの濡れた髪が首筋に張り付いているのが見える。
無防備な横顔。その耳元には、今は何もついていない。けれど、私は思い出していた。
――昨夜の停電時。そして、試験の最中。彼女の耳に光っていた、小さな星の形をしたイヤリング。そして、西園寺瑠璃先輩もまた、同じ星を身につけていた。
(……あれは、偶然の一致じゃない)
示し合わせたように、同じ星を耳に飾る二人。
その事実が持つ意味は――。
今日、ねね先輩との関係が定義されたことで、私の中にある「観測レンズ」のピントが合った気がした。あの二人の間にある空気は、今の私とねね先輩のそれに近い。
私はさりげなく周囲を見回した。
広い浴槽に、私たち以外の人影はない。洗い場にも誰もいない。完全な二人きりだ。
私は少しだけ光莉さんの方へ寄り、声を潜めた。
「……小林さん」
「ん? なあに?」
光莉さんが不思議そうに首をかしげる。 私はその目を真っ直ぐに見つめ、核心を突いた。
「あなたたちも、付き合っているのですか?」
――ピタリ。
光莉さんの動きが止まった。 お湯をかいていた手が空中で静止し、瞬きすら忘れたように固まる。
「……え?」
数秒の沈黙の後、光莉さんの顔色が、湯気の白さを超えて一気に朱に染まった。
「な、な……っ」
唇をわななかせ、視線が激しく泳ぐ。否定しようとしているのか、それとも誤魔化そうとしているのか。けれど、言葉が出てこないようだった。
その反応こそが、何よりの答えだ。
「……っ」
光莉さんは、いたたまれなくなったように、鼻の下までお湯に沈んだ。
水面から出ている目だけが、動揺で潤んでいる。
(……図星ですね)
私はお湯をすくって肩にかけた。
「隠さなくていいですよ。……あの星形のイヤリング、西園寺先輩とお揃いですよね」
「……うぅ」
光莉さんが小さく唸る。
「パートナーの証っていうか……その、お守りみたいなもので……」
「ただのお守りで、そこまで動揺しません」
私の指摘に、光莉さんはさらにお湯深く沈み込んだ。
私はもう一度周囲を確認してから、天井を見上げて言った。
「私は今日、ねね先輩に告白されました」
ボコッ、と光莉さんの近くで気泡が弾けた。
彼女が水面から顔を出す。その表情は、羞恥から驚愕へと変わっていた。
「……えっ? 九条先輩が……奏ちゃんに?」
「はい。……受け入れました」
私は淡々と、けれど頬が熱くなるのを自覚しながら続けた。
「私たちは今日から、先輩後輩であり、恋人です」
「こ、恋人……」
光莉さんは呆然と呟いた。「九条ねね」と「常盤奏」が。確かに距離感はおかしかったけれど、まさかそこまで進んでいたなんて、という顔をしている。
「……学校の噂で、たまにそういう人たちがいるとは聞いてたけど……まさか身近に……」
光莉さんがおずおずと言うと、私は静かに彼女の方を向いた。
「他人事のように言いますが……小林さん。あなたはどうなんですか?」
「……」
「西園寺先輩と、付き合っているのでしょう?」
直球の追及。逃げ場はない。この湯船からは出られない。光莉さんは視線を逸らし、お湯の中で膝を抱えるように身を縮めた。
「……まだ、わからないの」
光莉さんは、観念したように小さな声で答えた。
「わからない?」
「うん。……大切な存在なのは間違いないし、お互いに……その、必要としてるのもわかるんだけど」
光莉さんは、濡れた髪をかき上げた。そこには、私のような「確定した関係」への羨望と、自分たちの危うい現状への戸惑いが混じっていた。
「言葉には、してないから。……キスとかそういうことも、してないし」
最後の一言は、湯気に溶けて消えそうなほど小さかった。
けれど、静寂の中では、しっかりと私の耳に届いた。
(……なるほど)
私は、少しだけ安堵と、それ以上の深い共感を覚えた。
進度は違えど、抱えている「熱」は同じだ。
「……大変ですね、私たち」
私がぽつりと漏らすと、光莉さんも顔を見合わせ、苦笑した。
「本当だね。……相手が、あの人たちだもんね」
宝石と、女王。そんな厄介な先輩たちに魅入られてしまった「共犯者」同士。 湯気の中で交わされた視線は、昨日までとは違う、奇妙な連帯感で結ばれていた。




