幻覚
意識が浮上する。
泥のような重たさが消え、代わりに喉の渇きと、身体の節々の痛みだけが残っていた。
「……ん……」
常盤奏は、重たい瞼をゆっくりと開けた。
視界に入ってきたのは、見慣れた無機質な天井ではなく、淡いクリーム色の天井と、アンティーク調のシャンデリアだった。
「おはよう」
耳元で声がして、奏は視線を横に向けた。
ベッドサイドに、九条ねねが座っている。その傍には、水の入ったグラスと錠剤が置かれていた。
「……九条先輩」
声が掠れている。喉がまだ少痛い。
奏は身を起こそうとして、ふらりと体勢を崩した。すぐにねねの手が背中に回り、支えられる。
「無理しないで。……お水、飲める?」
その声は、どこかぎこちない響きだった。奏はまだ寝ぼけた手でグラスを受け取り、水を飲み干した。冷たい液体が食道を通り、内側の熱を少しだけ冷ましてくれる。
「……ここは」
落ち着きを取り戻した奏は、改めて部屋を見渡した。
九条ねねの自室。入るのは初めてだった。
そこは、パステルピンクのカーテン。白いフリルのついたクッション。棚には可愛らしいテディベアや、ファンシーな小物が綺麗に並べられている。まるで、絵本に出てくるお姫様の部屋のようだ。
「……趣味が悪いって言いたいんでしょ」
奏の視線に気づいたのか、ねねが少し拗ねたように顔を背けた。
「いいえ。……とても、素敵です」
奏は熱にうかされた頭で正直に答えた。
「九条先輩のことが、またひとつ分かった気がして……嬉しいです」
「……っ、そう」
ねねはグラスを受け取ると、逃げるようにサイドテーブルに置いた。
その耳が、夕焼けのように赤く染まっている。
沈黙が落ちる。部屋に置かれた置時計の音だけが、カチ、カチ、と響く。
ふと、奏の脳裏に寝ている間の記憶がよみがえる。夕日の赤。至近距離のねねの顔。
そして――唇に触れた、柔らかくて熱い感触。
(……っ!)
カアッと、奏は顔が一気に熱くなるのがわかった。
これは、夢? 熱が見せた幻覚?
でも、視界に入るねねの横顔が見える。赤い耳。どこか気まずそうな態度。
そして何より、自分の唇に残っている微かな熱が、それが「現実」だったことを訴えている。
(……キス、されたの?)
奏は指先で自分の唇をそっと触れた。
心臓が早鐘を打つ。いつも冷静な思考回路はショートして、まともにねねの顔が見られない。
「……あのね、奏ちゃん」
不意に、ねねが口を開いた。
その声は低く、真剣だった。
「昨日の夜のこと……改めて、お礼を言わせて」
「……昨夜?」
「雷よ。……私、みっともなかったでしょ。あんなに取り乱して、子供みたいに泣いて」
ねねは膝の上で手を握りしめている。
「でも、あなたがいてくれて助かった。……抱きしめてくれて、安心させてくれて。あなたがいなかったら、私、朝まで震えていたと思うわ」
「……当然のことをしたまでです。パートナーですから」
奏が視線を逸らしたまま答えると、ねねは「そうね」と小さく笑った。
「パートナー、か。……そうね。あなたはいつだって、私の期待以上の働きをしてくれる」
ねねが立ち上がった。 そして、何を思ったのか、奏が寝ているベッドの方へと歩み寄ってくる。
「せ、先輩?」
奏が身構えるより早く、ねねはベッドの端に腰を下ろし――そのまま、布団の中に滑り込んできた。
「……っ!?」
奏の身体が強張る。狭いシングルベッド。
あっという間に身体の上に覆い被さったねねの身体が、奏の身体に密着する。彼女からは、甘い香りと、微かな震えが伝わってきた。
「……先輩、何を」
「……決めたのよ」
ねねは、奏を見下ろすようにして、強い瞳で言った。
「もう、誤魔化さないって」
その言葉の意味を理解する間もなく、ねねの両腕が奏の頭を抱き寄せた。




