夕陽
九条ねねの部屋の静寂は主の焦燥によって乱されていた。
「……とりあえず、ベッドね。よいしょ……っ」
ねねは、肩に預けていた奏の身体を、慎重にベッドへと横たえた。
シーツに沈み込んだ瞬間、奏は深く息を吐き、そのまま糸が切れたように泥のような眠りに落ちた。
長く、美しい睫毛が頬に影を落とす。
顔色は相変わらず白磁のように蒼白で、触れると怖くなるほど熱かった。
「……はぁ、どうしましょう」
ねねはベッドサイドで立ち尽くした。
人に看病されたことはあっても、看病する経験など、これまでの人生で一度もなかったからだ。
「えっと、こういう時は……」
スマホを取り出し、検索窓に『高熱 看病 やり方』と打ち込む。
『まずは水分補給』『身体を冷やす』『汗をかいたら着替え』
画面に並ぶ文字を目で追いながら、ねねは部屋中を駆け回り始めた。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、洗面所でタオルを濡らす。水がこぼれて袖が濡れても、前髪が乱れても、今のねねには気にする余裕などなかった。
「……冷たいわよ」
ねねは、絞ったタオルを奏の額にそっと乗せた。ひんやりとした感触に、奏の眉間の皺がわずかに緩む。それを見て、ねねはようやくゆっくり息を吸うことができた。
*
どれだけ顔を眺めていたのだろうか。窓の外は、いつの間にか夕暮れに染まっていた。
茜色の光がカーテンの隙間から差し込み、眠る奏の顔を優しく照らし出している。規則正しい寝息が聞こえ始めた。
「……」
ねねはベッドの脇に座り込み、その寝顔を見つめた。
あどけない。いつもは冷静という言葉が顔に張り付いているような「常盤奏」が、今は無防備な少女に戻っている。
「……バカな子ねぇ」
ねねは、奏の乱れた前髪を指先で優しく払った。
始まりは、確かに「道具」だった。私の野望を叶えるための、優秀で使い勝手のいい子。それ以上でも以下でもなかった。けれど、いつからだろう。文句ひとつ言わずについてくるこの子の背中を、「可愛い」と思うようになったのは。
道具としての価値なんてとうに超えて、ただの後輩として、私の隣にいるのが当たり前の存在になっていた。それなのに。
(……私は、強引に隣にいることしかできなかった)
「始まり」がそうだったから。
主従という歪んだ関係で結ばれてしまったから、愛情が芽生えた後も、私は「主人」として振る舞うことしかできなかった。可愛がる時も、構う時も、いつだって一方的で、強引で。
(恋だと気づいた後も、結局これよ)
ねねは、自分の膝の上で拳を握りしめた。倒れるまで無理をさせたことに気づけず、こうして弱った彼女を前にしても、ただ狼狽えて、ネットで調べただけの拙い看病しかできない。
悔しかった。
昨夜、あんなに優しく守ってもらったのに。私はこの子に、何も返せていない。
「……ごめんね、奏ちゃん」
胸の奥が、ちくりと痛む。
愛おしさと、悔しさと、申し訳なさが混ざり合って、目頭が熱くなった。
夕日が、奏の唇を淡く染めている。
引き寄せられるように、ねねは顔を近づけた。
触れたい。その熱を確かめたい。言葉にできない謝罪と、溢れ出した想いを、形にして伝えたい。
理性のブレーキは、夕闇の中に溶けて消えていた。
ねねは目を閉じ、そっと――祈るように、奏の熱い唇に自分の唇を重ねた。
……ちゅ。
触れるだけの、優しいキス。
まだ少し高い体温が、唇を通して直接心臓へと流れ込んでくる。
しっとりと濡れたような、甘く切ない感触。
(……ああ、好きよ)
ねねが心の中でそう呟き、離れようとした、その時だった。
「……ん……」
奏の睫毛が、微かに震えた。
そして。
パチリ。
ゆっくりと、その瞼が持ち上がった。
夕日の逆光の中、焦点の定まらない瞳が、至近距離にあるねねの顔を捉えた。
「――っ」
ねねの息が止まる。
唇は、まだ重なったままだ。逃げることも、誤魔化すこともできない。
奏の瞳に、キスをしている自分の顔が映っている。
世界から音が消えた。ただ、重なり合った唇の熱さだけが、これが現実で突きつけていた。




